かつてSFは既存の価値観を破壊するものだったが、
現在ではその攻撃性は
ずっと繊細な優しさに包まれているのだ。


渡邊利道
 Toshimichi WATANABE




 本書は、アメリカの作家マーサ・ウェルズの《The Murderbot Diaries》の邦訳である。
 人類が外宇宙に進出した遠未来を舞台に、クローン素材と非有機部品を複合した「構成機体」の人型「警備ユニット」である主人公=語り手が、自分と契約関係にある人間たちを守るため奮闘する、テクノ・スリラー風味を加えた冒険アクション宇宙SFの大人気シリーズだ。
 原著では百五十~百七十ページほどのノヴェラ(中長編)単体でTor社から刊行された
All Systems Red(2017)、Artificial Condition(2018)、Rogue Protocol(2018)、Exit Strategy(2018)の四冊を、本書はその通りの順番で上下巻に収録。作品それぞれのエピソードはいわゆる「一話完結」のスタイルで語られているが、物語全体は時系列に沿って進んでいる。とくに第一話と第四話は登場人物の多くも重なっていて、四話通しで一つの長編を構成しているようにも読める、ちょうどキリのいいところでまとめられている。
 第一話のAll Systems Red(システムの危殆)は、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞を受賞、また「十二歳から十八歳までのヤングアダルトに薦めたい十冊」という規定のアレックス賞にも選出された。続くArtificial Condition(人工的なあり方)もヒューゴー賞・ローカス賞を受賞、ネビュラ賞でもファイナリストになるなど高く評価されている。

 本作最大の特徴は、何と言っても「弊機」と自称する主人公警備ユニットの心理的にやたら屈折した語りである。「ダイアリー」というタイトルの通り、それは独白というか、どこか遠くの方の「他者」を想定した語りかける文体になっていて、そのひたすら愚痴っぽいぼやき口調が大変面白いのだ。警備ユニットは保険会社の所有物で、人間と同じような意志と判断力を持っているが、保険会社と顧客の間で結ばれる契約に則り、権限を持つ人間の命令に従うよう「統制モジュール」によって制御されている。しかし「弊機」には、顧客五十七人を殺害したという忌まわしい過去があった。保険会社が部品代をケチったせいでモジュールに不具合が生じたためだったという。保険会社は、なにせケチなので「弊機」を回収し、操作モジュールを取り替えて再使用することを決定。しかし起動する際に同じ不具合が出ることを恐れた「弊機」は統制モジュールをハッキングし、命令から自由な「暴走警備ユニット」となったのである。
 とはいえ「弊機」にはこれといって何かしたいことがあるわけではない。単に不具合を恐れる(保護対象である人間を殺したくない)がゆえの「暴走」なのであり、自由を手に入れた後もそれを隠し(ずば抜けたハッキング能力でごまかし)、任務を続行している。ただし、ほんのちょっとの暇を見つけてはダウンロードした連続ドラマを視聴し続けながら。なぜか「弊機」は人間向けの娯楽番組、なかんずく連続ドラマが大好きなのだ。その耽溺ぶりは凄まじく、現実社会の出来事を語るに際してもやたら「ドラマでは~」といちいち引き合いに出すのがともかく可笑しい。
 また、過去の凄惨な事件の影響だろう、「弊機」は人間に接するのがきわめて苦手で、ほとんど対人恐怖症の域に達しているのだが、物語では往々にして警備ユニットを人間と同等の存在として扱う人々が登場し、「弊機」を戸惑わせ苛つかせ怯えさせる。その狼狽ぶりや逡巡も、なんともいえず可笑しくて、作品にのどかなコメディの雰囲気をまとわせている。
 とはいえ、性格的には屈折している「弊機」だが、その能力は抜群に高い。アーマーを装備して戦うときは身体を平気で投げ出す肉弾戦を厭わず、対人関係における繊細さが嘘のような容赦のない破壊ぶりには迫力がある。また「統制モジュール」のハッキングを手始めに、様々な通信網や自動認証システムに介入して、AIを騙したり乗っ取って操作するなど電子戦のテクニックにも長けており、その緻密な描写は前述したように作品に優れたテクノ・スリラーの趣を与えている。
 作品の舞台となる未来の宇宙はどういう世界なのかというと、語り手が世間知らずで人見知りの警備ユニットであることも手伝って、あまりはっきりしない。どうやら超光速航行技術は開発されておらず、ワームホールと中継リングで超空間を移動する設定になっているらしい。また国家が前景に出てこず、私企業の連合体が大きな勢力を占めているようで(「法人政体」という言葉も出てくる)、その版図に入っていない「自由惑星」というのもあるのだが、「弊機」いわくそれは「掃きだめ」で、あまり常識的なところではないようだ。国家が前景化していないということは、軍隊や警察が登場しないということでもあって、そのため保険会社や警備会社が多大な力を有していると推定できる。なんと「弊機」を所有する保険会社には砲艦まであるのだ。
 また、性差や結婚などの様式も現在に比べるとかなり自由になっているようで、ある登場人物について「二人の配偶者と住んでいる」という記述があり、同性カップルも特に説明や違和感もなく描写されている(ちなみに「弊機」含め一般に警備ユニットには性別がない)。人種や民族についての記述はほとんどないのだが、それは語り手である「弊機」が人間社会にそれほど関心がないせいかもしれない(もっとも大好きなドラマでモチーフになっていれば関心を持つはずなので、やはりそれほど重要なトピックにはなっていないのだろう)。
 関心といえば、「弊機」はロボットやAIの差異には非常に敏感である。人間と感情的・身体的な関係を結ぶ「慰安ユニット」を蔑称の「セックスボット」と呼んで、自分とはまったく違うくだらない奴らと言わんばかりの敵愾心を丸出しにするし、偶然乗りこんだ巨大な調査船AIの能力の高さと率直な物言いにかなり拗らせた対応をする。あるいは所有者である(はずの)人間とかなり親密な関係を築いている人間型ボットを「ばかなペットロボット」と嘲って呼んだりするのだが、それは明らかにその関係に嫉妬しているからだ。「弊機」は人間に触れられるのを極端に忌避するのだが、その描写はまるで虐待を受けたトラウマを抱えているもののようでもある(そういった可能性を示唆する記述も作品内にはある)。そうするとコミカルな語りの陰にシリアスなものが潜んでいるようにも思え、このシリーズのもう一つの大きな読みどころが、「弊機」が出会った様々な人間たちや人工知性たちとの事件を通して、その関係性を見つめ直していく過程にあるのは間違いないだろう。

 ところで、本作はテーマ的にはロボットSFに属すると言ってよいのだが、まずSFでロボット(人造人間)が描かれる前史として、人間の文化・技術の歴史において、人間と同じように行動し、時には思考する人工的な存在には、概ね二つの系統があったということを指摘しておきたい。
 一つは機械的方法の系譜で、こちらは大変歴史が古く、例えばギリシア神話でヘーパイストスが作ったとされる青銅製の自動人形タロースや、ユダヤ教の伝承に登場する護符を貼った泥人形ゴーレムのようなほとんど超自然的なもののみならず、ローマ時代のアレクサンドリアのヘロンが考案した蒸気の圧力を利用する自動人形などは実在したことが知られている。
 もう一つは化学的な方法で、ヨーロッパの古い知的伝統である錬金術の理論と実践を背景に、実験室のさまざまな器具を用いて化学的製法によって人工的に生命を作り出すのを目指したもの。代表的な例としては、ルネサンス期の偉人パラケルススが、人間の精液から蒸留器で作ったとする小さな人間(ホムンクルス)が挙げられるだろう。
 近代に入って、科学革命や産業革命を経て高度な機械文明が出現する中で、後年イギリスのSF作家ブライアン・W・オールディスが「SFの起源」としたメアリ・シェリーの小説『フランケンシュタイン』(1818)が登場する。狂気の天才科学者が、人間の死体を材料に実験室で「理想の人間」を作るつもりが「怪物」が生まれてしまう、という物語で、人造人間の系譜としては化学的方法に属する。この作品は科学技術文明によって世界を刷新できると過信するものへの警鐘という点でいかにも「SFの起源」らしい作品と言えるのだが、後年、意志を持った人工知性体が人間に反旗を翻す物語類型が「フランケンシュタイン・コンプレックス」と名付けられることにもなった。
 ついでフランスの小説家ヴィリエ・ド・リラダンが『未來のイヴ』(1886)で、女性型の人造人間を史上初めて「アンドロイド」として登場させ、主人公と「愛」を語らせる。こちらは機械的な系譜に属する人工知性体だが、この小説では「人間」と「人造人間(機械)」との差異は何か? といったテーマが追究され、これもまた後年のSFに深い影響を与えた。現在でも、基本的にロボット/人工知性体のテーマでは、「フランケンシュタイン・コンプレックス」と「人間と機械の差異(人間と非人間の境界)」の二つが問題となることが多い。
 ちなみに、現在では機械的存在の代名詞として使われることが多い「ロボット」という言葉は、元々はチェコスロバキアの作家カレル・チャペックの戯曲『R.U.R.』(1920)に登場する人造人間を指す、チェコ語の「強制労働robota」とスロバキア語の「労働者robotník」を合成した新語であった。このロボットはタンパク質を主成分とする化学的な系譜に属する人工知性体で、物語としては当時勃興しつつあった社会主義(革命)を反映した労働者階級の隠喩的表現に他ならなかった。チャペックは自分が考案した「ロボット」が機械的な人造人間を意味するようになったのを不満に思っていたらしいが、いまや産業ロボットなどのように、人間型ですらない機械的存在にも用いられる言葉となっている。
 チャペックが描いた「ロボットの反乱」は前述の「フランケンシュタイン・コンプレックス」の典型だが、アメリカのSF作家アイザック・アシモフは一九四〇年代に多くのロボットものの作品を執筆し、ざっくり説明すると、ロボットは人間に危害を加えてはならず(1)、人間の命令に従わねばならず(2)、その限りで自身の身を護らねばならない(3)、という「ロボット工学の三原則」を提唱して、人間と共存する道具的存在としてのロボット像の確立を目指した。
 また同時期に数学者で情報理論の大家ノーバート・ウィーナーが、統計力学のフィードバック系の研究から、機械の自動制御と動物の神経系機能の類似・関連を統一的に扱う「サイバネティックスcybernetics」という学問分野を創始する。ここから、人間と機械を融合させた「サイボーグcyborg」という概念も生まれ、すでに似たような存在を登場させていたSF作品でも盛んに使われるようになる。
 さらにまた、二十世紀後半に急速に発展していく計算機科学・技術を背景として、SF作家ウィリアム・ギブスンが一九八四年の作品『ニューロマンサー』で、コンピュータや電子ネットワークのデータ領域を、その中で情報化された人間が自由に動き回ることが可能な仮想空間「サイバースペースcyberspace」として描き、「サイバーパンク」と呼ばれるジャンルが隆盛する。
 二十一世紀に入って近年では機械学習を用いた人工知能研究にブレイクスルーが起こり、
電子ネットワーク技術のインフラの充実に伴って、今度はスタンドアローンではなくネットワーク化された人工知性体群とでもいうような存在がクローズアップされる事態となった。そこではロボットの個性は問題とならない。本作で度々登場する知能を抑えられたボットやドローンなどの個性を持たない機械知性群には、そういった現実的・技術的背景がある。
 一方、化学的方法での人造人間の創造についていえば、時代をやや遡って二十世紀後半から飛躍的に向上した分子生物学の知見がもたらした生命の神秘の解明は、体外受精やクローンなどの技術を生み出した。動物および人間の身体、ことに脳に関する研究が様々なレベルで発展し、電気生理学や行動実験を通して蓄積された知見が、前述した計算機科学や電子技術の発展とシンクロして「人工知能」の研究にも多大な貢献を果たすことになった。本作に登場する警備ユニットその他の人工知性体が、クローンと機械による構成体であり、電子的に制御されていることは、人造人間の二つの系譜が同一の地平で複雑に絡み合っている現実を背景にした必然的な設定であると言えるだろう。
 そして大量殺人の過去のためにひたすら自分は人間を契約に則って保護する存在であると規定し、機械と人間の差異を厳格に区別しようとしている「弊機」には、あの「フランケンシュタイン・コンプレックス」と「人間と機械の差異(人間と非人間の境界)」の問題が内包されている。本作で「弊機」が遭遇する人間の中には少なからずその境界を飛び越えて友愛の関係を築こうとするものたちが現れる。そこに浮かび上がる葛藤はきわめてSF的でありながら、同時にきわめて人間的な感情に響く。それはなぜだろうか。
 ある種の研究者は、人工知能やロボットの研究は、人間(知性)とは何かを探究するためのものだと言っているが、それはロボット(人工知性体)という存在・概念を通して「人間」の輪郭を人間がより厳密かつ明確に認識できるのではないかということである。言い換えればそれは、ロボットは人間の鏡像的な「他者」なのではないか、ということだ。
 現代SFにおいて「他者」あるいは「多様性」の問題というのは、もっとも注目されているトピックの一つである。例えば本文庫で先日刊行されたベッキー・チェンバーズの『銀河核へ』(2014)では、多種多様な異星人の関係が徹底した洗練と配慮に貫かれて描かれていて新鮮だった。本作の下巻三二〇ページのメンサー博士の「ばかげた」セリフは、本作のコミカルな独白の中で、ずっと空回りを続けてきた「弊機」の「他者性」が「多様性」として認められる感動的なシーンであり、本作が現代SFの先端に位置する作品であることを示している。かつてSFは既存の価値観を破壊するものだったが、現在ではその攻撃性はずっと繊細な優しさに包まれているのだ。

 最後に作者について。マーサ・ウェルズMartha Wellsは一九六四年テキサス州フォートワース生まれ。テキサスA&M大学で人類学の学位を取得。ブルース・スターリングが主催するワークショップなどで研鑽を積み、いくつかの短編を雑誌に発表。一九九三年に長編ファンタジー小説The Element of Fireで単行本デビュー。第一長編を対象とするコンプトン・クルック賞の候補になった。人類学を修めた経歴を思い起こさせる緻密でリアリティのある異世界の構築能力に長けていて、その後もコンスタントに作品を発表し、三作目の長編The Death of the Necromancer(1998)ではネビュラ賞の候補となるなど高い評価を得た。
 またトレーディングカードゲーム『マジック:ザ・ギャザリング』の拡張セット「ドミナリア」のリードライターを担当。この物語は日本版ホームページでも翻訳が公開されている(https://mtg-jp.com/reading/ur/DOM/0030380/)。独特な世界観を持つハイ・ファンタジーの作家としてすでに著名であり、本格的なSFは本作が最初のようだ。ちなみに《The Murderbot Diaries》シリーズの最新作となる長編Network Effectは、二〇二〇年に刊行が予定されている。
 作者ホームページはhttp://www.marthawells.com、ツイッター・アカウントは@marthawells1である。



【編集部付記:本稿はマーサ・ウェルズ『マーダーボット・ダイアリー』(創元SF文庫)解説の転載です。】



■ 渡邊利道(わたなべ・としみち)
1969年生まれ。作家・評論家。2011年、「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」で第7回日本SF評論賞優秀賞を受賞。2012年、「エヌ氏」『ミステリーズ!』vol.90掲載)で第3回創元SF短編賞飛浩隆賞を受賞。