『銀河鉄道の父』の第158回直木三十五賞受賞が記憶に新しい門井慶喜さんの長編『定価のない本』が、このたび東京創元社から刊行されました。


待望の新作となる本書の舞台は、古書の街として有名な東京・神田神保町。江戸時代は旗本の屋敷地として始まり、明治期は多くの学校がひしめく「日本のカルチェ・ラタン」に、大正十二年の関東大震災を契機に古書の街として発展してきたこの街は、文明開化とともに現在に至るまで、絶えず知の集合地としてあり続けています。

『定価のない本』の物語は、終戦後ふたたび活気をとり戻しつつあった古書街の片隅で、名もなき一人の古書店主の死から端を発します。
発見された彼の死体は、本棚から崩落した古書の山に圧し潰されて、あたかも商売道具に殺されたかのような皮肉な最期でした。死んだ古書店主の良き商売敵であり事後処理を引き受ける古書店主・琴岡庄治が本書の主人公となります。
行方を眩ました被害者の妻、注文帳に残された謎の名前――琴岡が調べるうちに、単なる事故死かに見えた状況にいくつものおかしな点があることが判明。やがて、彼の周囲でも不可解な出来事が起こるにつれて、彼自身も事件の背後に隠された陰謀に絡めとられていきます。

著者の門井慶喜さんは、2003年に第42回オール讀物推理小説新人賞を受賞して登場以降、2008年には父親と娘の食卓をはさんで交わされる様々な会話のなかから推理の醍醐味を描き出す連作短編集『人形の部屋』で日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)の候補に選出され、2016年には『マジカル・ヒストリー・ツアー ミステリと美術で読む近代』で同賞(評論その他の部門)を受賞するなど、その輝かしい道程はミステリ作家の旗手として出発しています。
その後、徳川家康が如何にして二百年以上の歴史を残す江戸城下の都市を築いたか複数の家臣の視点から浮かびあがらせる傑作『家康、江戸を建てる』や直木賞受賞作『銀河鉄道の父』と、歴史作家としても高い評価をあつめる作品を数多く執筆。本書でも、歴史作家としての膨大な知識と確かな視点が物語の骨格をしっかりと支え、手触りのあるリアリティを見事に生み出しています。
加えて、あくまで私見ではありますが、最初の直木賞候補に選ばれた長編『東京帝大叡古教授』が明治時代を、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズを主人公にした長編『屋根をかける人々』が明治末期から大正を経て昭和を描いた作品として、そしてそこに戦後日本に焦点をあてる本書を連ねたとき、動乱の時代を切り取った三部作をかたちづくっているとも言えるかもしれません。
『定価のない本』は、著者のミステリ作家としての本領と歴史作家としての本領が遺憾なく発揮された、真骨頂とも言うべき長編となっています。

出版社とも図書館とも違う、彼らにしかできない方法で書物を守る古書店街の人々を描いた『定価のない本』ですが、その刊行を記念して、舞台ともなっている神田神保町でトークイベントとサイン会が開催されます。


10月26日(土)・27日(日)に神保町で催される「神保町ブックフェスティバル」公式イベントとして開催される本イベントは、ゲストに古書にまつわるエッセイで著名な文筆家・岡崎武志さんをお招きして、本書や古書にまつわるお話をしていただきます。貴重なお話を伺える、またとない機会ですので、ぜひご参加してみてください。(T・F)