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【東京創元社編集部より】
小森収先生の連載「短編ミステリ読みかえ史」は、10月に創元推理文庫より発売されるアンソロジー『短編ミステリの二百年1』の書名に合わせ、今回より「短編ミステリの二百年」と改題いたします。引きつづきご愛読たまわればさいわいです。



 マイケル・ギルバートは、イギリスの中堅作家ですが、おそらく短編のスパイ小説がもっとも多く邦訳された作家でしょう。この作家は、私が20代のころ、たまたま入手できたので読んだ『ひらけ胡麻!』が面白かった記憶があるのですが、その10年後くらいに再読したときに失望した記憶もあります。日本で一番読まれている彼の作品は『捕虜収容所の死』でしょう。マニング・コールズやヘレン・マッキネスといった作家同様、スパイ小説を書く作家として、名前があがることも珍しくはありません。
 マイケル・ギルバートのスパイ小説には、シリーズキャラクターが登場します。表向きはロンドン・アンド・ホームズ銀行ウェストミンスター支店支配人であるフォーテスキュー氏、実は統合情報活動委員会外事部長で、007ならⅯにあたる管理職です。ぶっそうな仕事を主として受け持つのが、コールダーという男で、丘の上に居を構え(その日常的な警戒ぶりは「招かれざる客」に描かれています)、頭の良いディアハウンド犬のラッセラスを飼っています。丘の麓には親友のベーレンズが、何も知らない伯母と暮らしています。彼もスパイ活動に従事していますが、コールダーが任務で家をあけるときには、ラッセラスの面倒を見るのです。
 もっとも読みやすく、口当たりのよい仕上がりになっているのが、エリック・アンブラーがアンソロジーに採った「殺しが丘」でしょう。それが証拠に「一石二鳥」「狙った女」と異なった題名で、二度もミステリマガジンに掲載されました。ふたりの趣味であるバックギャモンをやるために、ベーレンズがコールダーを訪ねて丘の上までやって来ています。読者から見れば他愛ない世間話にしか見えないものが、いつのまにか、情報部に入り込んだ女スパイを排除する話になっています。そして、コールダーが実際の任務に入る。ところが、現場で標的をとらえたところに、軍人らしき若者が現われる。どうやらウサギを撃ちにきたようです。躊躇する暇もあらばこそ、若者がウサギを打つのとほぼ同時のタイミングで狙撃してしまう。ウサギ狩りにきて、誤って人を撃ったと思わせ、後始末を押しつけたのでした。その後のサゲは頬をゆるませるものがありますが、終わってみれば、いとも簡単に敵のスパイを排除したというだけの話でした。
「殺しが丘」にディテイルとして触れられるのが「プロメシュース計画」「殺しが丘」では「プロメテウス作戦」となっていて、こちらの方が適当でしょう)です。フォーテスキューが、ベーレンズに向かって、近ごろコールダー(キャルダーと訳されていますが)の様子がおかしい、精神に異常をきたしたのではないかと相談します。コールダーが現在関わっているのは、三派に揺れる東欧のアルバニアに介入しようとする計画です。三派というのは、スターリニスト(親ソ)、チトー派(親ユーゴ)、ギリシア派の三つで、当然ながらギリシア側につけておきたい。かの地の言語はもちろん、風俗習慣にも通じているコールダーが、アルバニアに潜入して、かの地の内通者に連絡をつけるのです。ところが、計画のプレッシャーからか、言動に異常が見られるようになった。ベーレンズがコールダーのところへ行くと、一足早く失踪しています。作戦に関与している三人目の男ハーコート海軍中佐とともに、コールダーを探し、目撃情報と飼い犬ラッセラスの活躍で、どうにかコールダーは見つかりますが、とても任務は果たせそうにない。戦時中アドリア海の潜水艦作戦で名をあげたハーコートが、コールダーの代役を務めることになります。
 出だしこそ快調ですが、ミッションの細部が、大雑把なので、作戦そのものに、読者を引きつける魅力のないのが、困ったところです。内通者に会えればミッション成功というだけでは、ゲームの設定の域を出ません。この部分が緩くては、グリーン、アンブラーを読んだ目には、古めかしいスパイ小説に見えるのも仕方ありません。
 同じようなことは「触媒間諜」にも言えて、思想と行動の関係、結びつきというのは、こんなに単純な問題ではないでしょう。「テロリスト」は、ロンドンで暴力行為を働いた、ガヴィガンというアラビア人(英国国籍で軍隊にもいたことがある)を、シヴァストリアスという人物がリクルートし、アラビア国王の暗殺の手駒にしようとします。小説の冒頭で、次官なる人物が、アラビア国内の反対勢力――シヴァストリアスの名も出てくる――についてのレポートを読んで、フォーテスキューの活動を示唆するので、読者には、ガヴィガンへの接触そのものが、仕組まれたものだろうと想像がつきます。その過程はさすがに面白いのですが、その後の彼らの活動――コールダー(ここではカルダーと訳されています)はフォーテスキューの話の中に登場します――は、あまりに一方的で、これほど簡単に片づくなら、こんな手の込んだまねは要らないのではないかという疑問が浮かびます。
 マイケル・ギルバートのスパイ小悦の緩さは、この作家の考えるスパイ活動が、第二次大戦中のそれを基準にしているためではないでしょうか。そのことは、第二次大戦中のベーレンズの活動――ヒットラー暗殺グループに接触する――を描いた「神々の黄昏」や、かつてコールダーが拷問にかけた――おそらくは戦争中に――男が、彼を殺しにやって来る「招かれざる客」といった作品に、顕著でしょう。

 第二次大戦の存在は、それを契機に冷戦構造が作られたことが、スパイ小説を読み語る上で、従来、重視されてきました。私もそうしたひとりです。しかし、第二次大戦そのものが、スパイ小説が書かれ読まれる上で、重大な画期となったのではないか。今回、スパイ小説の短編を読んで、そんなことを考えました。
 先に書きましたが、グリーン、アンブラーのふたりは、戦中を描くことはありませんでした。唯一の例外はグリーンの『恐怖省』でしょうが、そこで描かれたのは、空襲下のロンドンであって、最前線ではありませんでした。『密使』は、戦争当事国から密命を帯びて、平時のロンドンにやってきた工作員の話でした。この小説など、スパイは戦地にはいないと主張しているようにさえ、私には見えました。すなわち、戦時中の、あるいは戦地でのスパイ活動は、戦時の作戦行動と変わらないものに見えるのです。そして、戦争というものを描くという観点からは、それらの小説は、どうしてお気楽なものに見えてしまう。
『世界スパイ小説傑作選3』に収められた作品に目を向けてみましょう。テレンス・ロバーツの「ブラック・ミステリー」やトマス・ウォルシュの「敵のスパイ」といった、第二次大戦下の作品には、どうしても、お話を作る手つきの安直さが、透けて見えます。もちろん、冷戦下の物語であっても、ロバート・ロジャースの「ワルシャワの恋」のように、話の底の浅いものはあります。しかし、ロナルド・サーコームの「裏切り者」のような平凡なスパイ小説でさえ、事件当時者の緊張感は伝わるだけの企みと展開を見せるのです。異色作として推奨したいのが、ジョセフ・ホワイトヒルの「アカデミー同窓生」です。ちょっと、ニューヨーカーふうの題名ですが、かつて美術学校で、ひとりの生徒の挑発から、主人公は両腕の自由を失います(絵筆もとれません)。長じて、ふたりともが、相対する諜報機関に所属するというのは、作家の都合が見える展開かもしれませんが、その美術学校で対峙することになる。〈人間性への不信〉が流れるはずのスパイ小説に、奇妙な友情めいたもの(を含んだ複雑な感情)を持ちこみながら、なお、スパイ小説でありえていました。
 冒険小説とスパイ小説を弁別するものとして「前者は〈人間性への信頼感〉が物語の底に流れるのに反し、後者は〈人間性への不信〉がある」と各務三郎は指摘しました(『推理小説の整理学』)。ファナティックな冒険小説と化した冒険小説としてのスパイ小説が、息を吹き返すには、冷徹な現実の戦争を経験し、その上でなお、「人間性への信頼」を持ちうるかという問題意識のもとに書かれる必要がありました。アリステア・マクリーンの処女作が『女王陛下のユリシーズ号』であったのは、偶然ではないと、私は考えます。戦争とは同胞を死地に赴かせることにほかならない。この認識なくして『ナヴァロンの要塞』以下の作品が生まれるわけがありません。そして、そこに気づかないままの、スパイ冒険小説がぬるま湯めいたものになるのは、当然のことでしょう。
 名前をあげるだけに留めますが、マクリーン以後、ハモンド・イネス、ギャビン・ライアル、ディック・フランシス、デズモンド・バグリイといった作家が出ることで、冒険小説は隆盛を見せます。それらの作家に対しても、イアン・フレミングがユニークだったのは、冒険とは快楽でもありうるという、実際の戦争の悲惨さゆえに、見過ごされていた側面を、前面に押し出したためではないでしょうか。美酒、美食、美しい女性、贅沢なリゾート。そういったものと、冒険は並列されたのでした。そして、そこに必要だったのは、現実にはありえないようなフィクショナルな――火を吹く竜のような――悪役でした。
 映画によって増幅された007ブームのありようは、小林信彦が『世界の喜劇人』で簡潔に描いています。「それが忠実に映画化されるほど、本質的には連続大活劇になり、現代人の感覚では〈ナンセンス〉としか受けとめられなくなる。すると、今度は、〈ナンセンス〉を初めから意図して、ボンド物よりはるかにロウ・コストでつくる――となれば、内容は連続漫画にならざるをえない」
 ミステリマガジンはその歴史の中で、増刊号を3回出して、そのうちふたつが「007特集」「ナポレオン・ソロ特集」でした。

 現在、スパイ小説家をひとりと言われたら、たいていの人が、ジョン・ル・カレの名をあげることでしょう。名実ともに、20世紀後半を代表するスパイ小説家であることに、間違いはありません。しかしながら、そのル・カレにしてからが、スパイ小説の短編というものは、紹介されていません。以前、最盛期のMWA賞のところで、候補作となった短編「ベンツに乗った商人」を読みました。東西に分断されたドイツを舞台に、東側にいる家族を西側に迎え入れるハメになった主人公を描いた、好短編でしたが、スパイが登場する小説ではありませんでした。もっとも、スパイを職業とする人間――フリーランサーであれ公務員であれ。この違いは案外大事なんですよ――が出ないからといって、スパイ小説ではないと判断するのは早計というもので、やむにやまれぬ事情から、冷戦下の国境を不法に越える主人公をサスペンスフルに描くのは、実質的にはスパイ小説の魅力と言えるでしょう。
 小説でスパイを描くときに、どういうところが魅力的なのか? そんなことを考えさせてくれるのが、ミステリマガジン2014年2月号のジョン・ル・カレ特集に掲載された「ジョージ・スマイリーの帰宅」という短いドラマシナリオです。スマイリーが洗濯屋に受け取りに来ている。妻が家を出た日なので洗濯物を出した日を覚えているというのは、小説書きなら盗んでおきたいテクニックです。そして、このドラマのキモは、帰宅したスマイリーが見せる一瞬の切り返しにあります。洗濯物を受け取りに出るという日常――つまり平時ですね――のただなかに、不審のタネを見つけて、手筋一閃! たった一言で相手を欺き、背後を取ってしまう。執拗で細かいディテイルだけでは退屈さに陥るところを、こういう機智が救うのでした。
 ミステリマガジンで邦訳された「水の上のパン」という小説は、スパイ小説でもなんでもありません。奨学金の給費生(成績優秀なのです)ながら、サンスクリット語と禅を専攻するという、浮世ばなれした男が、パン屋の女店員に思いをよせるも、言い出せないと、主人公に相談に来ます。主人公の指南する手段は、単に毎日店に通うだけ(だったのです。優等生くんがやったのは)でなく、相手に印象づけ、かつ落ちぶれていくように見せていくという巧妙な手段でした。ル・カレとしては、指南した方法が実を結んだのち明かされる、隠されていた人間関係と、その後の変化を書きたかったのでしょう。しかし、主人公が授ける計画は、まるで『寒い国から帰ってきたスパイ』の雛形でした。ツケでものを買うところまで同じですからね。
 ル・カレのこの二編は、人を欺くために企むという、スパイ小説のエッセンスを読み取りやすく示して見せたという意味で、参考になるものと思います。
 ル・カレと並んで、60年代のスパイ小説を牽引したのが、レン・デイトンでした。彼も短編のスパイ小説が見当たりません。ただし、一時期デイトンは戦争小説に傾いていたことがあって、そのころの短編が『宣戦布告』として一冊にまとめられています。さすがに、さきほど批判的に読んだ、戦時スパイ小説の緩さはありませんが、戦争小説として、特に目を引くものではありません。ロアルド・ダールの『飛行士たちの話』の方が、よほど読ませます。それでも、南米にセールス旅行にやって来たイギリス人セールスマンが、内線に遭遇するという、スパイ小説めいた話と思いきや、そのセールスマンの売っていたものが……という「セールスマンにはボーナスを」という愉快な一編がありました。
 こうして50~60年代のスパイ小説ブームを振り返るとき、短編ミステリには収穫がなかったことに気づきます。この連載の中で読み返したもののうち、唯一、そう呼べるのは、アヴラム・デイヴィッドスンのところで読んだ「臣民の問題」くらいのものでしょう。短編には、ミステリシーンを牽引するだけの力を、期待できなくなっていました。それでも、まだ、有力な作家が秀れた短編ミステリを書き続け、読者もそれを期待していたのでした。

※ EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)