シャーロック・ホームズを出し抜いた数少ない人物アイリーン・アドラーをメインに据える、キャロル・ネルソン・ダグラス《アイリーン・アドラーの冒険》シリーズは、ホームズもののパスティーシュの常として正典から題材を拾うのみならず、19世紀末の史実(実在の人物や出来事)を大胆に導入して、物語のスケールを広げる。

 その第三作『ごきげんいかが、ワトスン博士』(日暮雅通訳 創元推理文庫 上下各1100円+税)は、正典がワトスン博士の従軍先と設定した第二次アフガニスタン戦争を背景に据えている。主人公のペネロピーとアイリーンは、パリで毒殺されかけた男性を介抱する。彼はペネロピーとは旧知の仲のクウェンティンだった。彼は戦地で自分を助けてくれた軍医を探し出し、命が狙われていると警告するつもりだった。その軍医の名はワトスンだった。

 正典ネタと史実ネタの活かし方は相変わらず上手(うま)い。敵の正体にはニヤリとさせられるし、サラ・ベルナールはじめ実在の著名人も、チョイ役とはかけ離れた役割を担う。それ以上に、今回はペネロピーが活動的だ。今作で彼女は、クウェンティンとラブコメを演じて、自分の事件であるかのように、主体的・積極的に動く。シリーズ第一作冒頭でのおとなしさは今は昔、既にアイリーンとの関係もほぼ対等で、二人が元気いっぱいに物語全体を駆け巡る。あまりに快活なので、本作がパスティーシュ――正典に縛られている物語であることを忘れさせるほどだ。ホームズ・ファンならずともおススメしたいシリーズなのである。

 好評シリーズの続刊としては、ジョー・イデ『IQ2』(熊谷千寿(くまがいちとし)訳 ハヤカワ文庫HM 1060円+税)も忘れてはなるまい。奇(く)しくもペネロピー同様、主役アイゼイア(通称IQ)は自分の事件と見紛(みまが)うばかりに今回の事件に力を入れる。知り合いの異性(はっきり書けば惚れた相手)が主要関与人物だから、という事情まで同じだ。偶然ってあるんですね。

 それはさておき粗筋(あらすじ)は次の通り。アイゼイアは、亡き兄の恋人だったサリタ――巨大法律事務所の弁護士になっている――から、妹ジャニーンを助けるよう依頼されている。ラスベガスに向かったアイゼイアだが、借金で首が回らなくなっているジャニーンとその恋人ベニーは、予想以上の厄介事に巻き込まれていた。

 多人種国家アメリカの中でも飛び切り猥雑(わいざつ)な、西海岸の裏社会が、過剰なほど活き活きと描き抜かれている。犯罪と非道徳と非行の暴風域を、アイゼイアは疾駆(しっく)する。全体の状況を把握している人間など、敵にも味方にも一人もいない。ましてやコントロールなど誰もできておらず、これは、いわゆる《真犯人》のポジションにいる人物も例外ではない。序盤から終盤まで、敵と味方が入り乱れ続け、事態の推移は混沌(カオス)を極める。

 さらに端役の一々までが洒落(しゃれ)た台詞(せりふ)を濫用(らんよう)し、アイゼイアをはじめとする視点人物の内面描写もヴィヴィッドだ。かくして一ページ当たりの情報のダイナミクスは相当なものとなり、それが最初から最後まで続くため、読者は物語の奔流(ほんりゅう)に呑まれることになる。前作『IQ』でも同様の傾向は見られたが、本作ではさらに昂進(こうしん)しており、読んでいてとにかく楽しい。

 ただしもちろん楽しいだけではなく、アイゼイアはシリアスにもナイーブにもなる。復讐のため兄の死の真相を探る必死さ、住む世界が違うサリタに長年抱く切なく苦しく苛立(いらだ)ちの混じる慕情は、読んでいて胸が締め付けられるようだった。他の登場人物も、時折ハッとさせられる言動を見せる。この瞬間が何物にも代えがたい。