J・S・フレッチャー『楽園事件 森下雨村翻訳セレクション』(湯浅篤志編 論創社 3200円+税)は新訳ではなく、〈探偵小説の父〉森下雨村の訳業を復刊するものです。そのため併録された『ダイヤモンド』は初出どおりの抄訳版となっています。


 代診医ブライスは、〈楽園〉の通称で呼ばれる寺院の外庭を通りがかったときに、寺院の高層の窓から人が突き落とされたと騒ぎ立てる男に行き会いました。男に連れられ死体を検分したブライスは驚きます。その死者が、恋敵(こいがたき)の医師ランスフォドの診療所を不審な様子で訪ねていたのを目撃したばかりだったのです。ブライスは事件に首をつっこんで、なんとか恋敵の弱みを握ろうとして――『楽園事件』

 謎解きというより冒険スリラーの要素が勝るフレッチャー作品なので、雨村の外連味(けれんみ)たっぷりの翻訳はとてもよく合っています。ブライスが自分の欲望にまかせて奔放(ほんぽう)に捜査を続けた末に、事件がどういう解決をみるか、これはわりと意外なものではないでしょうか。近年論創社から訳された『亡者の金』もそうでしたが、野心的な若者の主観から話を転がしておいて、結末で唖然とさせる構成の面白さはどうにも癖になってしまいます。

 国内のほうでは、光文社文庫《昭和ミステリールネサンス》から新章文子『名も知らぬ夫』(山前譲編 光文社文庫 880円+税)が出ています。第五回江戸川乱歩賞を『危険な関係』で受賞した新章は、短篇集の著書にめぐまれず、本書は内容としては新刊にあたります。


 収録作はほぼ《宝石》掲載作で、ミステリとしての水準の高さは保証されています。ただあくまでサスペンス、もっと突っ込めばペーソスに満ちた喜劇という感じで、謎解きの要素は薄いものです。中ではまず「悪い峠」「奥さまは今日も」あたりがわかりやすい作品だと思いますが、表題作のようなミステリの普通の筋でないもののほうが本来の持ち味なのでしょう。既刊の短篇集では、『パリの罠』は色々な厭(いや)な女性が登場する面白い一冊だと思います。

 泡坂妻夫『毒薬の輪舞(りんぶ)』(河出文庫 890円+税)は先に同文庫で復刊された『死者の輪舞』に続く、海方(うみかた)刑事シリーズの第二長篇にして最終作の復刊です。


 外科手術で入院していた海方刑事が、精神科に移ることになりました。海方は病院で毒物による事件が起きようとしているのではないかと察知して、狂人のふりをして居座り様子をうかがうことにしたのです。様々な症状の患者たちが集う精神科の病棟では、飲み物への異物混入事件が立て続けに起こり……。

 前作の派手な連続殺人と比べると、事件が起きるまでは何を謎としようとしているのかわか
らないユーモラスな出来事が続くため、それらが解決篇で伏線として回収される巧(うま)さが伝わりづらいかもしれません。とんでもない構図の逆転に探偵役が推理でたどりつく筋は、泡坂の長篇では案外と珍しいのではないかと思うのですが。長らく入手が難しかったシリーズで、二作ともが復刊されたのは嬉しい限りです。