本書『白い僧院の殺人』は、長らく創元推理文庫における“ヘンリ・メリヴェール卿初登場作品”でした。2012年に『黒死荘の殺人』が出たことによって、マスターズが昇進するに至った事件の経緯が明らかになると共に、設定通り『白い僧院』を“H・M卿シリーズ第二作”として読めるようになったわけです。そして今回めでたく新訳版刊行と相成りました。
 黒死荘事件を解決に導いた功績で首席警部に昇進を遂げたものの、多分にH・M卿が履かせてくれた下駄のおかげだと思っているからでしょう、『白い僧院』のマスターズには気負いが感じられます。
「本件の知らせを受けたとき、これが自分のぶつかる最大の事件だ、昇進してから初めて指揮を執ることになると覚悟しました。これをうまいこと解決しなければならんのですが、あいにく私向きの事件ではない」
 本書の舞台はマスターズの本拠地から遠く離れた由緒あるお屋敷、おまけに捜査官として派遣されたわけではなく、現地に親戚がいる関係でたまたま逗留中の身。勝手の違いは如何ともしがたい上に、被害者は今を時めく女優です。世間の耳目を集めるのは必定、へまをやらかしたら自分の首も危ない……ことはないとしても無能な捜査官だと後ろ指さされる可能性は否定できず、焦躁が募ります。

 ところで、解説の森英俊さんが述べておられるように、鮎川哲也「白い密室」『五つの時計』所収)に面白い記述があります。

 警部と鑑識の技官たちは、その時すでに、カーター・ディクスンの長篇推理小説『白い准僧院の殺人』の中で犯人が用いた方法まで検討したというのである。

「白い密室」の謎を解くのは星影龍三。たちまち真相を見抜いてしまうため、彼の登場をいかに遅らせるかがテーマになるくらいの名探偵です。星影に一件を持ち込むのは、「常識的な男である田所には、このようにつかみどころのない事件は得手でないに決まっている」と描写される田所警部です。凡人はつらいよ、といったところでしょうか。何だかマスターズ首席警部と重なって見えますね。

 持て余す事件でも今さら引っ込みはつかない。さて、どうする。奥の手があることはマスターズも心得てはいます。星影のもとへ馳せ参じた田所警部のように、あっさり「卿、助けてくださいよ」と泣きつけば話は早いのでしょうが、沽券に関わるからか素直じゃない。一方のH・M卿も天邪鬼気質たっぷり、マスターズが体当たりの懇願にこれ努めたところで取り合ってくれる保証はありません。狐と狸の化かし合いさながらの駆け引きを、マスターズは搦め手を用いて制するに至ります。
 H・M卿が到着するや、事件は急転回して終幕へ。時間経過だけを考えると信じがたいスピード解決で、作中の表現を使うなら「千里眼」としか思えません。H・M卿と星影龍三、こちらの御両所にも通じるものがありそうです。

 江戸川乱歩は「J・D・カー問答」という随筆で『白い僧院の殺人』について、「犯人の足跡が全然ないという不思議を、変なメカニズムなんか使わないで、心理的に巧みに構成している。私はこれはカーの発明したトリックの内で最も優れたものの一つだと考えているんだよ」と述べています。
 その乱歩が鮎川哲也「白い密室」の初出時に寄せた言葉で締めくくりましょう。出色の誉れ高い両作を読み比べていただければと思います。

――カーへの挑戦――
「白い密室」という表題は、前に問題となった「赤い密室」の対である。題名からして意気込が感じられる。
 トリックは尽きた尽きたといわれているが、この作者にとっては、トリックは決して尽きていない。(中略)
 鮎川さんは「黒いトランク」でクロフツの「樽」に挑戦したが、ここでは、カーの「白い准僧院」に挑戦している。そして、必ずしも敗けてはいないのである。カーの考えつかなかった全く別のトリックを案出している。