A・A・ミルンという作家名を知っているのはミステリ読者ぐらいだろう。そのほとんど唯一の長編推理『赤い館の秘密』の著者として記銘しているのだ(厳密に唯一かどうかは、もう一冊の『四日間の不思議』をミステリと見なすか否かで異なる)。もちろんミルンの作品では『クマのプーさん』のほうが百倍以上も有名なのだが、プーさんの生みの親の名前を言える率は、『赤い館の秘密』の作者名を憶えている読者の百分の一もあるかどうか。一度きりしか名探偵ぶりを発揮できない『赤い館の秘密』の主人公、アントニー・ギリンガムも有名というわけにはいかないが、その影響下に横溝正史が創造したキャラクターは、いま日本の若い読者層には、クマのプーさんよりも馴染み深いかもしれない。
 横溝正史は二十歳になるやならずで、雑誌連載されていた『赤い館の秘密』を読んだのが『レッド・ブック・マガジン』だったと記している。同誌にはのちにハメットの『影なき男』などが掲載されたことはあるが、同じくアメリカの雑誌でも「『赤い館の秘密』は、一九二一年の八月から十二月にかけて、The Red House Murder (赤い館の殺人)という題で雑誌〈万人の友(Everybody's)〉に連載され」(宮脇孝雄「解説――黄金時代の幕開けを告げる名作」、集英社文庫版『赤い館の秘密』、一九九八年)たものだ。イギリスでやっと前年にクリスティやクロフツがデビューしたばかりで、当時の正史が読んでいた長編ミステリといえば、息も継がせず怪事件が続発するスリラー型のものだったから、死体発見→関係者への尋問→捜査→解決という、ある意味単調な本格推理の形式には未体験の魅力を覚えたという。
「私がいっぽうでは大きな戸惑いをかんじながらも、いっぽうではこの奇妙な長篇探偵小説に、いかに強い感銘をうけたかということは、戦後自分で本格探偵小説を書いてみようと思いたったとき、(中略)この小説で探偵的役割をはたす主人公の風貌を、つねに脳裡にえがいていたということでも、思いなかばに過ぎるであろう」(一九七二年「私の推理小説雑感」『探偵小説五十年』所収)
 まさにそのように、初登場の金田一耕助はこんなふうに描写されている。
「見たところ二十五六。中肉中背――というよりはいくらか小柄な青年で、飛白(かすり)の対(つい)の羽織と着物、それに縞(しま)の細い袴をはいているが、羽織も着物も皺だらけだし、袴は襞(ひだ)もわからぬほどたるんでいるし、紺足袋(たび)は爪が出そうになっているし、下駄はちびているし、帽子は形がくずれているし……つまり、その年頃の青年としては、おそろしく風采を構わぬ人物なのである。色は白いほうだが、容貌は取り立てていうほどの事はない。
(中略)……この青年こそ、一柳家の妖琴殺人事件で、もっとも重要な役目を果たした人物なのだが、いま私(作者)が、村の人たちの話などを綜合して考えるに、この青年は飄々乎(ひょうひょうこ)たるその風貌からどこかアントニー・ギリンガム君に似ていはしまいかと思う。アントニー・ギリンガム君――だしぬけに片仮名の名前がとびだしたので、(読者)諸君は面喰われたろうが、(後略)」(『本陣殺人事件』第四回、『宝石』一九四六年七月号。引用は新字新かな。あとの「赤屋敷殺人事件」からの引用も同じ)
 そして自身の最も愛読する探偵小説であると『赤い館の秘密』に言及しているのだが、それは一九三二年、正史が作家専業になるため博文館を退社するとき編集長の座にあった雑誌『探偵小説』の終刊号に、置き土産のように一挙掲載した作品でもあった。エラリー・クイーンの本邦初紹介『和蘭陀(おらんだ)靴の秘密』の連載が終わるまではと、廃刊を言い渡された『探偵小説』誌の延命を上層部に請い、もう「雑誌の売れ行きなど考慮する必要はあるまい、読者に受けようが受けまいが構ったことではない」(「私の推理小説雑感」)、『矢の家』『トレント最後の事件』、そして『赤い館の秘密』と一挙掲載を毎号連打した。その露払いのように訳載したのはD・K・ウィップル作『鐘乳洞殺人事件』というマイナー長編で、それまで読者が馴染んできた通俗スリラーと黄金時代流の本格推理との折衷的作風ながら、川端梧郎名義で自身が訳したこの作品にも正史はけっこう愛着を見せ、金田一耕助が解決編まで後景に退いている『八つ墓村』で、語り手で主人公の寺田辰弥の口を通じて長々と引用させている。正史が疎開していた岡山県に井倉洞、満奇洞といった鍾乳洞があるのに、持病の乗物恐怖症のため汽車に乗れなかったせいか、インタビュー「横溝正史、小説空間を語る」『OUT』一九七七年五月創刊号)によれば実見しなかったそうだから、鍾乳洞内の描写はウィップルから借りざるを得なかったのだろうが。
 これら『探偵小説』誌の最後を飾った長編群は、『トレント最後の事件』『鐘乳洞殺人事件』が黒白書房、『赤色館の秘密』『矢の家』が柳香書院からそれぞれ刊行され、『鐘乳洞』の訳者は横溝正史名義に改められて訳文はそのままだが、『赤色館』は雑誌版の浅沼健治訳「赤屋敷殺人事件」でなく、妹尾韶夫が新たに訳している。そのときのテキストは、「横溝正史氏から拝借した、エヴェリマンス・マガジンとかなんとかいう」アメリカ雑誌だったと回想されたものだ(ハヤカワ・ミステリ『赤い家の秘密』あとがき、一九五五年)。旧訳者の浅沼健治が正史の別名だとは、エッセイ集『真説金田一耕助』(一九七七年、毎日新聞社)の「モウロクもまた愉し」の項に『赤い家の秘密』は「私が翻訳し本邦に初紹介したもの」と明記されているのに、迂闊にも私は読み流していた。正史が原本を提供するだけで自身の訳の刊行を遠慮したのは、『鐘乳洞』のようなB級作は自分の〝ぞろっぺい〟な訳でも構わないが、ミルン級の作品は本職の訳者に任せるべきだと考えたのかもしれない。ために横溝正史訳は単行本化されていないので、ギリンガム登場のくだりをちょっと引用しておこう。
「この男を見て先ず感じることは、眼が鋭いということである。海軍士官によく見るような、短髪無髯(むぜん)の顔の上には、灰色の二つの瞳が輝いている。しかもその瞳は、自分の前に現れたものは全て、その細部まで見極めなくては承知しないといったような、凝集性を持っている。だから、初めて彼の前に出たものは、先ずその眼光にたじたじさされてしまうのだが、屢々(しばしば)彼と逢った者は、時には心と視線とは、同じ方向に向いている(原文ママ)ことを知るのである。言いかえれば、眼だけを歩哨(ほしょう)に立たせておいて、心の中では勝手なことを考えているといった時も?々あったのである」
 原文はこうなっている。
 The first thing we realize is that he is doing more of the looking than we are. Above a clean-cut, clean-shaven face, of the type usually associated with the Navy, he carries a pair of grey eyes which seem to be absorbing every detail of our person. To strangers this look is almost alarming at first, until they discover that his mind is very often elsewhere; that he has, so to speak, left his eyes on guard, while he himself follows a train of thought in another direction. 
 探偵の容姿などどうでもいいと考えていたのか、正史訳では容貌の説明は短縮され、誤植らしい点もある。この前にギリンガムはattractive gentleman と形容されているのだが、創元推理文庫旧版(大西尹明訳)では「魅力のある紳士」となっていたその箇所も正史訳では削られている。完全に訳せば、風采の上がらない金田一耕助と段違いの二枚目なのだ。ちなみに前掲原文の一行目は、作者と読者はギリンガムを観察しようとしても、「その観察も、こちらよりむしろ向こうのほうが、存分にやってのけてしまうことにまず気がつく」(大西訳)と訳されるのが通例だったのが、こんど創元推理文庫創刊60周年記念の名作ミステリ新訳プロジェクトの一環として刊行された山田順子訳『赤い館の秘密』ではギリンガムの男前ぶりがますます強調されているので、実物を手に取って確かめていただきたい。
 この新訳が出て私も三度目に同作品を読んだのだが、こんど初めて気づいたことがある。金田一耕助のモデル問題についてだ。
 正史がミルンに倣(なら)ったのは、ギリンガムの容姿ではなく、ふらっと現れて事件を解決し、また去って行く風来坊的役割だという(結局それっきりにはならなかったのだが)。ギリンガムが「どういう過程を経て金田一耕助なる人物に変貌していったか」については、一九七六年に再編集された新書判『名探偵金田一耕助の事件簿③』(ベストブック社)に書き下ろされた「金田一耕助誕生記」(光文社文庫『金田一耕助の帰還』、ダ・ヴィンチ特別編集『金田一耕助 the Complete』に再録)が最も詳しい。三十年後の回想だけに記憶違いらしい箇所も散見するのはともかく、それによれば、一九三〇年ごろ『探偵小説』誌に先だって『文藝倶楽部』編集部にいた正史は、同僚が榎本健一を取材するのに付き合って芝居の楽屋を訪ねた折、新カジノ・フォーリー文芸部員でまだ二十代の菊田一夫に紹介された。そのとき会話らしい会話もしなかったが、後年の菊田の盛名を知るにつけても、「一見小柄で貧相だが、うちに大いなる才能を秘めた人物として」面影が思い出されたという。そこで『本陣殺人事件』の解決役を設定する段になって菊田一という姓を考えたものの、そんな苗字はないだろうと、疎開前に住んでいた吉祥寺の近所に国語学者の金田一京助の弟がいて馴染んでいた苗字を借用に及んだらしい。
「……たったいちどしか会ったことのない菊田氏はそのとき洋服姿であった。それを和服にしたのは、(長編連載を依頼してきた『宝石』の)城(昌幸)編集長をからかってやろうという私の気まぐれからだったが、城昌幸はいつも和服の着流しで角帯だった。それでは探偵になりにくいので袴をはかせたのは、博文館時代の私自身の経験からきている。つまり金田一耕助は菊田一夫氏と城昌幸と私の複合体なのだ」(『真説金田一耕助』
「その金田一耕助に若いころアメリカを放浪させたのは、谷譲次の『めりけん・じゃっぷ』物から思いついたのであろうし、麻薬中毒患者に仕立てたのは、シャーロック・ホームズのコカイン中毒から思いついたものだ(後略)」(「金田一耕助誕生記」
 これにギリンガムの立ち位置と、金田一京助の名前とが加味されているのだから、金田一耕助は実に多種多様な実在架空の人物を混ぜ合わせて生まれたことになる。ここで私が妄想的にもう一人、モデルの人物を付け加えても許されるかもしれない。
 勿体つけてもしょうがない、それは江戸川乱歩のことだ。青年期、探偵小説家を志しても日本では時期尚早だからとアメリカに渡航して英文デビューを夢み、計画倒れに終わって断念した乱歩だが、もし渡米していて探偵作家になる代わりに探偵そのものになって帰国したら……と、正史は考えてもみなかっただろうか。
「つまり乱歩はシャーロック・ホームズなのである。つねにワトソンから「わっ、素敵だ、ホームズ、そいつは素晴らしい考えだよ」と、おだてられて(おだてられて:傍点)いないと淋しくなり、自信を失い、クサり、そして厭人癖におちていくのである」(一九六五年「『二重面相』江戸川乱歩」『探偵小説五十年』所収)
 私はシャーロック・ホームズ研究に詳しくはないのだが、ワトスンの役回りをそんなふうに規定する意見はあまりないのではないか。ギリンガムにワトスン役を務めよ要求されて、相方のビルは確かに「ぼくに手を貸してもらいたいっていうのかい?」と、正史流の解釈で反問している。「ひとのワイシャツの胸のところにいちごのシミがついているのを見れば、ははあ、食後にいちごを食べたんだな、とひと目でぼくにはわかるんだ、おや、ホームズ君、まったく君には驚くな、ちぇっ、ぼくのやりかたは知ってるくせに。……っていう、あの問答式のワトスン(になれっていうん)だね?」(大西尹明訳)
『赤い館の秘密』に出てくるこのやり取りを私はすっかり忘れていたのだが、初めて原稿料をもらったコラムが「シャーロックの強奪」(創元推理文庫『シャーロック・ホームズの栄冠』所収)だというミルンらしい皮肉屋のユーモアを感じさせる。ここを原文で読んだ横溝正史も共感したような気がする。
『新青年』編集者だった正史は、扱いにくい作家乱歩のおだて役に徹し、代表作となった「パノラマ島奇談」「陰獣」をもぎ取ることに成功した。『文藝倶楽部』時代には、乱歩が中途で放り投げかけていた『猟奇の果』を、曲がりなりにも完結に導いている。乱歩が「悪霊」を中絶させたとき正史はすでに編集業を離れていたが、自分がワトスンとして伴走していれば何としても完結させたものをという悔しさゆえ、温厚な乱歩を怒らせるほどの罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐いたようだが、むしろそれは正史が自身に向けた罵倒であっただろう。
 しかし正史は、ギリンガム耕助にビル(=ワトスン役)を与えることをしなかった。レストレード警部役として岡山県警の磯川警部や、由利先生シリーズからスピンアウトさせた等々力警部を用意はしたのだが。岡山のY先生とか砧の御隠居とよばれる人物は、探偵行動をともにすることはなく、耕助から託された事件簿の発表役に留まっている。それでも正史自身は、ホームズにおけるコナン・ドイルではなく、耕助のワトスンを自任し、だから耕助のワトスン役を作中人物に譲れなかったとも思われてくる。