レイフ・GW・ペーション『許されざる者』などのスウェーデン・ミステリの翻訳で活躍されている久山葉子さんの初めてのエッセイ『スウェーデンの保育園には待機児童はいない――移住して分かった子育てに優しい社会の暮らし』が刊行されました。
 本書は、1歳児の娘の理想の子育て環境を求めて東京からスウェーデンに移住された久山さんが、ご自身の子育てと移住の経験を綴ったエッセイ集です。
――と聞くと、緻密な計画に基づいて北欧へ移住されたかと思いきや、実際はかなり急で、春先に移住案が浮上し、6月末に移住先が決定、年明けに引っ越し(しかもご自身の職は何も決まっていない)というものでした。
 今回は、そのかなりスリリングな移住劇を綴った第1章を、期間限定でまるごと公開いたします。
 書籍ではこのあと、移住先での新生活、保育園への入園、スウェーデンの子育て事情、そして本当にスウェーデンは住みやすいのか? というテーマについて綴っていきます。
 楽しく気軽に読めて、いろいろと考えさせられる『スウェーデンの保育園には待機児童はいない』、まずはこの第1章だけでもぜひお読み下さい。


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第1章 スウェーデンに移住を決める


東京での共働き生活

 2008年に子供が生まれたとき、わたしたちは東京23区でも特に「子育て世代に優しい」と評される区に住んでいた。子供が1歳2ヶ月を迎えた4月、無事に公立保育園に入園することができたのは、たまたまそういう区に住んでいたからだった。
 当時から正社員であっても認可保育園に入れるという保証はなく、当然仕事に復帰するつもりでいるママたちにとっては、それが自分の力ではどうにもならない大きな障害だった。働く女性は皆そうだと思うが、これまでお金と時間をかけて必要な教育を受け、スキルを身に付け、結果を出す努力をしてきたのだ。最初に入った職場で長くがんばっている人もいれば、勇気を出して転職してキャリアアップをしてきた人もいるだろう。なのにその努力が、保育園に入れるかどうかという運任せのような要因で水の泡になる可能性があるなんて──。保育園内定の結果を待つあいだは、足が地に着かない気分だった。
 幸い娘は保育園に入ることができ、わたしは3ヶ月の産休と1年の育児休業を経て職場に復帰できた。ただ、これはわたしの努力の成果ではなく、単に住んでいた自治体の保育園の空き状況によるものにすぎない。
 勤め先では、産休に入る前にすでに5年間働いていた。日本とスウェーデン間の貿易を促進する団体で、貿易コンサルタントの仕事だった。高校時代に1年間の交換留学をして以来スウェーデンの虜になっていたわたしは、その仕事に就けたときは夢かと思うほど嬉しかった。
 しかし無事保育園に入れたら入れたで、また別の闘いが始まった。初めての保育園生活は親子とも慣れないことだらけ。子供は急激な環境の変化のせいで精神的に不安定になり、平日の夜や週末はわたしにくっついて離れず、始終おっぱいにぶらさがっているような状態だった。わたしが働き出したからといって、夜中にきっちり3回起きて母乳を飲む習慣は変わらない。平日は朝なかなか起きてくれないのに、土日祝日になるとなぜか必ず午前5時に爽快に目覚めてくれる(1歳児になぜ曜日がわかるのか、本当に不思議だった)。睡眠時間は人生で最短、自分の時間は1秒もなく、毎日なんとか生きているという状態だった。最初の半年は、月に1週間は関西の実家から母に手伝いに来てもらって、やっとのことでしのいでいた。
 どんなに疲れていても、出社すればデスクでコーヒーを飲めたりランチ休憩が1時間もあったりして、まるで天国のようだった。やっぱり自分は専業主婦にはなれない、子供には悪いけど、家にいるより働いているほうがずっといいやと内心思ったものだ。
 一方で、職場での居心地は激変した。職場で育児休業を取得したのはわたしが初めてで、復帰した社員ももちろん初めて。わたし自身も勝手がわからないし、周りもわたしをどう扱っていいかわからなかったと思う。復帰後は残業ができなくなったばかりではなく、短時間勤務ということで定時より1時間早く退社するし、子供がしょっちゅう病気になって急に欠勤する。今では状況は異なっているかもしれないが、当時はそんな社員、わたし自身もいまだかつて見たことがなかったし、とにかく自分が迷惑な存在だということに耐え続けるのが仕事、というような日々だった。育児経験のない年配の男性などは、育児休業給付金が雇用保険から出ているということも知らなかったようで、「働かずに会社から給料だけもらって」という陰口を叩かれたこともあった。もちろん同僚の大半はサポートしてくれたが、自分はお荷物な存在なのだという引け目は変わらなかった。
 保育園に送っていくのは夫に頼み、せめて朝だけはと始業時間の30分前には出社した。夕方になると罪悪感を感じながら定時より1時間早く退社して子供を迎えに行くのだが、「まだ1歳なのに、こんなに遅くまで預けっぱなしにしてかわいそう」という思いでいっぱいになった。
 どちらを向いても中途半端で、人に迷惑ばかりかけていて、自己嫌悪に陥る毎日だった。
 スウェーデンでの子育てを経験した今なら、あのときのわたしは何も悪くなかったと自信をもって言える。子供がいたら早く帰ったり急に休んだりするのは当たり前のことであって、迷惑をかけていると感じる必要さえなかったはずだ。ただ、そう感じるような社会に住んでいただけのこと。子供に対しても、「親になっても、自分のやりたい仕事を週に40時間やる権利がある」と断言できる。そう思えるようになったのはやはり、共働きでも2人、3人と子供を育てていて、誰もそれを迷惑だとかかわいそうだとか思わない社会をスウェーデンで体験したからだ。
 うちの子は特に身体が弱いわけでもなかった。それでも、保育園入園後は例にもれず、月に一度は乳幼児特有の病気や風をもらってきては熱を出した。わたしはその看病のために有給を使い果たし、長い連休も子供の看病に明け暮れて終わった。
 ゴールデンウィーク明けには疲れがピークに達し、1ヶ月以上微熱と咳が続いた。時間を見つけて自宅や会社近くの内科に薬をもらいにいったが、全部飲み終わってもちっともよくなる気配がない。それどころか、少しずつ悪化していった。自律神経もなんだかおかしくなってきて、「そろそろ子供じゃなくて自分がおねしょしそう」という予感すら忍び寄ってきた。
 そんなとき、医者になった高校の同級生がイギリス留学から一時帰国し、わたしの職場近くまでランチをしにきてくれた。ずっと続いている咳のことを話すと、「最近結核が流行ってるから病院に行ったほうがいいよ」と勧められた。医者にそう言われるととたんに恐ろしくなって、わたしは気管支専門の病院を探した。結核ではなかったが、肺炎だった。ようやく効く薬を処方され、意を決して会社を1週間休ませてもらった。それでやっと元気な自分に戻ることができた。
 夫のほうはといえば、順調にキャリアアップを重ねていた。勤めはじめたときには東京支社の社員は数名だけだった小さな外資系ベンチャー企業が、いつのまにやら桁ちがいに大きなグローバル企業に買収されていた。東京支社だけでも社員が何十人も増え、夫はマネージャーという肩書きになっていた。外資系だからか残業が多い会社ではなかったが、それでも毎晩8時くらいまでは働いて、帰宅すると9時という生活だ。平日の夜は子供の寝顔しか見られない……とはならず、パパとも毎晩ちゃんと会えていた。保育園で何時間も昼寝をしてくるせいで、毎晩11時くらいまで起きていたのだ。親の疲労度を考えると、子供が早く寝てくれるほうがありがたかったのだが。
 こうやって、保育園入園後は、〝ぎりぎり生きている〟ような状態で一日一日をなんとか乗り切っていた。保育園の先生たちからは「1年目は本当に大変だけど、1年目からはぐっと楽になるからがんばって」と励ましてもらい、わたしはとにかくこの1年をなんとか乗り切ろうと必死だった。ところが夫のほうは、まったく別のことを考えていたようだ。
「やっぱり、東京を離れて海外に住むことを考えよう」
 日本人だがイタリアで生まれ育った夫の目には、仕事と通勤だけで一日が終わってしまう日本のサラリーマン生活が異常なものに映ったようだ。夫の育ったヨーロッパでは、仕事はあくまで夕方までで、加えて通勤時間が短いこともあり、そのあとはいわばその日の〝第2部〟が始まる。家族のある人は基本的には家族と過ごすし、趣味の活動をしたり友達と集まったりすることもある。夫は、親になったからには毎日の第2部を子供と過ごすのが当然だと考えていた。
 日本の生活しか知らなかったわたしは、なんとかここで耐え抜くことだけを考えていた。しかし世の中にはそれとは別の世界があることを知っている夫には、今の状況を〝耐える〟とか〝やりすごす〟という発想はなかったのだ。


移住先はどこに?

 夫はさっそく移住先の選定に入った。普通ならまず「生まれ育ったイタリアに」と考えるところだが、夫はイタリアが嫌いだった。イタリア社会にはびこる〝常に他者を出し抜こう〟とするメンタリティーが耐えられないのだという。そのせいで、高校卒業以来ずっとイタリア以外の国で暮らしてきた。だから「イタリアにまた住む」という選択肢は皆無だった。
 それではどこの国に移住するのか。英語なら2人とも話せるので英語圏、さらに安全で子供に優しく教育レベルの高い国と考えると、まずはオーストラリアとニュージーランドが候補に挙がった。夫の同僚でオーストラリアに移住したスウェーデン人がいたので、彼が出張で来日した際に、夫婦で話を聞きにいった。
「オーストラリアは外国人にも優しいし、すごく住みやすい。海も近いし、最高だよ」そのスウェーデン人はためらいなくオーストラリアをほめちぎった。
 それを聞いた夫は、オーストラリア移住を本気で考えはじめた。しかしわたしのほうは懐疑的だった。というのも、北国スウェーデンの人たちは、〝太陽〟とか〝ビーチ〟というキーワードにめっぽう弱いのだ。それだけで評価が何十パーセントも上がっている危険がある。
 一方でわたしは、どちらかというと夏より冬、海より山が好きなタイプだ。スウェーデン人がどれほど絶賛しようと、オーストラリアやニュージーランドには心がときめかなかった。さらにイタリアに住む夫の家族から、「イタリアから(日本よりも)さらに遠くなるじゃないか」と猛反対され、オセアニアへの移住案はあえなく却下となった。
 その次に唐突に候補に挙がってきたのがスウェーデンである。今となってはよく覚えてはいないのだが、夫が「葉子がスウェーデン語できるし、ちょうどいいじゃん」と軽いノリで言い出したのが発端だったと思う(夫自身はスウェーデン語は一切できなかったわけだから、今思えばすべてをわたしに頼るつもりだったのだろうか?)。夫の家族も「同じヨーロッパなら何より」と俄然乗り気になった。
 わたし自身にはそもそも、外国に住むなんてまったく現実味のない話だった。せっかく復帰した職場を辞めるのか? このご時世に、正社員の仕事をあっさり手放すなんて……。移住した先でまた仕事が見つかるという保証はまったくない。いや、むしろ見つからない可能性のほうが高い気がする。
 手放さなければいけないのは仕事だけではない。飛行機に乗れば1時間で帰れた実家、これまでいろいろな場面でわたしを支えてきてくれた友達。積み上げてきた歴史や安心をすべて捨ててまで外国で再出発するなんて──。
 わたしの実家のほうはというと、反対してくれるかと思いきや、「そのほうが子供のためにいいなら、行ってみたら?」とあっさり賛成されてしまった。両親としては、妹がその少し前まで治安の悪い国に長く暮らしていたこともあり、「それに比べればスウェーデンなら安全だし、まったくかまわない」という考えだったのだ。
 しかしまだこの時点で、わたしは本当に移住することになるとは思っていなかった。移住というのは、飛行機に乗ってその国に到着すれば完了という話ではない。スウェーデンの場合、フルタイムの仕事を確保し、それに対する就労ビザが発給されたうえで初めて暮らすことを許される。夫は海外育ちとはいえ、日本での労働経験しかなく、ましてやスウェーデン語は話せない。そんな状態でいきなりスウェーデンで就職するなど無理に決まっている。就職先を探すだけで何年もかかるにちがいない、内心そう思っていたので、「まあスウェーデンならいいんじゃない?」なんて適当にあいづちを打っていたのだった。
 ところが驚いたことに、スウェーデンが移住先として浮上した翌週には、夫はスウェーデンでの正社員の仕事を確保してきた。夫が勤めていた会社は、別の国の企業に買収されたとはいえ、もともとはスウェーデンが本拠地だった。今でもスウェーデンに品質保証部門の拠点があり、夫はこれまでにも出張でそこに行ったり、本社出張の際にスウェーデン支社の人たちと顔を合わせたりしたことがあった。気心の知れたスウェーデン支社のチームリーダーに「そっちで雇ってくれない?」とメールすると、あっさり「いいよ」という返事が来たのだ。
 よくよく訊いてみると、スウェーデン支社はちょうどスタッフが1人辞めるところだったらしい。その会社で長年働いて商品を熟知している夫は、先方としても後任として願ったり叶ったりだったようだ。それにスウェーデン語ができなくてもなんの問題もないという。本社も外国にあり、クライアントも世界じゅうにちらばっているから、スウェーデンにいても仕事の大半は英語で行われるのだ。
 わたしにしてみれば、「えっ、そうなの?」と驚いているあいだに、何もかも決まってしまった。「わたし、一度でも移住に合意したことあったっけ?」といまさら思う始末。日本で生きていく人生しか想像したことのなかったわたしは、いきなり移住決定と言われても、「わたしにはそんなの無理」と思うばかりだった。でも、普段から可能なかぎり家事や育児をしてくれている夫が、「もうこの状態で暮らすのは嫌だ!」と言うなら、それに従うしかなかった。夫のサポートなしでは、とてもじゃないが子育てはできないのがわかっていたから。


高まる移住への不安

 スウェーデンは首都ストックホルムですら、東京と比べると〝何もないうえに、物価は高い〟場所だ。昔留学していたからこそ、わたしはそれをよくわかっていた。しかも夫の会社があるのはストックホルムですらなく、スンツヴァルというスウェーデンで21番目に大きい地方都市だった。いや大きいというよりは、日本の感覚だと小さな街だ。
 移住先となったスンツヴァルは、わたしが足を踏み入れたこともないノルランドという地方で、スウェーデンの北半分を占める広大な地域。スウェーデンの大都市やガイドブックに載っているような観光地は南半分に集中していて、北半分にはほとんど何もない。いちばん上の北極圏まで行けば、オーロラの観光地があるくらい。ノルランドは面積こそ本州とほぼ同じだが、人口はたったの百万人強。どれほどの田舎なのか、わたしには想像もつかなかった。
 これまで出張で何度かスンツヴァルを訪れている夫に、どんな街なのかを尋ねてみる。
「きれいな街だったよ。絶対に住みやすいと思う!」
 その〝絶対〟という自信はどこから来るのだろう。疑問に思ってさらに問いただす。
「会社の人に連れていってもらったタイ料理がおいしかったな」
 そんな説明ではさっぱりわからない(しかも移住してみると、そのタイレストランは火事で焼失していた)。どちらにしても、たいして娯楽も刺激もない場所であることは間違いなかった。
 定期的に友達と話題のレストランに行ったり、ブランド・ショップのファミリーセールで買い物をしたり──そんな華やかな東京での日々が走馬灯のように駆けめぐった。その一方で、子供が生まれてからは外食もショッピングもままならないし、通勤時間が長いばかりで、大都市に暮らすメリットを享受できていないというのも事実だし、むしろデメリットばかりが目につくようになっていた。
 もうひとつの不安材料は、経済的なことだった。夫は仕事が決まったとはいえ、マネージャーからヒラのエンジニアへのキャリアダウン転職。こぢんまりしたスウェーデン支社にはそもそもマネージャー職が存在せず、いちばん上でもチームリーダーだ。それ以外は全員平社員。夫の場合、もちろん東京のときよりも給料が下がるが、それでもこれまでの経験を加味して、支社内ではいちばん高い給料をもらえることになっている。つまり今後の昇給への期待は捨てたほうがいいということだ。さらにスウェーデンは税金が高いので、手取りはこれまでの半分になる。
 わたしのほうはもっと深刻な状況だ。正社員を辞めて、見知らぬ土地で一から──いや、語学力やその国での職歴がないこと、すでに30代半ばであること、小さな子供がいることを考えると、マイナスからの出発だ。スウェーデンで仕事が見つかる保証はない。スウェーデン語が少々話せるといっても、ネイティブのスウェーデン人にはとてもかなわない。スウェーデン人でも失業中の人はたくさんいるのに。
「そこまでのリスクを冒して、移住するの? 本気なの? 本当にいいの?」
 うん、もちろんするよ──と自信満々に答えたあのときの夫。あの自信はなんだったのだろうか。今となっては「移住して本当によかった」と言い切れるが、あのときの夫の確固たる自信にはなんの具体的根拠もなかった。神のお告げのようなものだったのだろうか。もっとも、人生における重要な決断やターニングポイントというのは、意外とそんなものなのかもしれない。


東京を引き払う

 わたしの不安などお構いなしに、日本を離れる日は刻々と近づいていった。夫の仕事が決まって就労ビザの申請をしたのが2009年の6月。8月末にはビザが下りた。夫の新しい仕事は9月開始だと申請したので、書類上はもういつスウェーデンに渡ってもかまわない状態だった。
 とはいえわたしも夫も職場に突然「今日で辞めます」と言うわけにはいかない。クリスマスを夫の実家のローマで過ごすことにし、年明けにそのままスウェーデンに渡ることにした。数ヶ月で仕事を辞め、東京のアパートを引き払う。いきなりすべてが現実味を帯びはじめた。
「もう日本に住むことはない」という夫のいさぎよい一言で、持ち物はすべて処分するかスウェーデンに持っていくかの二択になった。送料などを検討したうえで、食器やシーツなど、段ボール箱に入るサイズのものだけをスウェーデンに送ることにし、家具や電気製品は人にあげたりネットオークションで売ることにした。特に家電は電圧がちがうから、持っていく意味がない。スウェーデンに送るものは最小限にしようと思いつつも、結局船便で70箱程度送っただろうか。船便だと10キロで7,000円程度だったので、中身をすべてスウェーデンで買い直すことを思えば、それでも安かったと思う。
 わたしも夫も東京のアパートを引き払う数日前まで働いていて、荷造りはまったく順調に進んでいなかった。わたしが働いていなかったとしても、家に1歳児がいてはあまりはかどらなかっただろうが。最後のほうは関西の実家から母や弟に助っ人に来てもらって、子供を見てもらいながら作業を進めた。ついに退居日前夜となり、わたしは予定どおり娘を連れて実家に帰るために羽田空港へと向かった。アパートを退去してからイタリアへ移動するまでの1週間は、実家で骨休めをすることになっていたのだ。夫のほうは翌朝最後のごみ出しをして、車でわたしの実家に向かうことになっていた。しかしまるで悪夢を見ているかのように、アパートの中にはまだまだたくさんのものが残っていた。1LDKの賃貸アパートになぜこれほどたくさんの物が……。ここまでの作業ペースを考えると、あと2、3日はかかりそうな量だ。
「これはどう考えても明日退去するのは無理なのでは?」
 そう思いつつも、わたしは予約した飛行機に乗るためにアパートをあとにした。悪いが、あとは夫になんとか奇跡を起こしてもらうしかない。
 そして奇跡は起きた。夫には思いやりのある同僚がいたのだ。夫が助けを求めると、同僚5人(上司もいたかも)が即座に駆けつけてくれて、朝までかかってすべてを箱に詰めてくれたのである。彼らのおかげで、無事東京を引き払うことができた。いや、全然無事ではないか。周りにこんなに迷惑をかけて、恥ずかしいかぎりだ。
 もうひとつ日本にいるうちにやっておかなければいけなかったことがあった。それはオートマ限定の解除講習に通うことだった。運動神経が鈍いうえに、海外で暮らすことなど想定していなかったわたしは、大学時代にオートマ限定の免許しかとっていなかった。日本で暮らす分にはそれでなんの不自由もなかったが、海外ではオートマチック車は少ないと聞く。そんなわけで、あわてて教習所にも通った。平日は働いているので、通えるのは週末だけ。案の定、実技のテストで一度落とされ、東京を離れる最後の週末にぎりぎり合格することができた。なんでもぎりぎりセーフの人生だというのを実感せざるをえない時期だった。
 そんなこんなで、なんとか東京を引き払い、しばらく実家で骨休めをさせてもらった。住民票もいったん実家に移し、そこから海外転出届を出した。そして1週間後にはローマへ移動し、夫の家族と一緒にクリスマスとお正月を過ごした。それまでは両方の実家から離れた東京に家族3人だけで住んでいたので、関西とローマで久しぶりに親戚とゆっくり過ごすことができたのは嬉しかった。
 年が明けると、いよいよ家族3人だけで見知らぬ街へと旅立つ日がやってきた。