2019年2月には、韓国ミステリの傑作長篇が2本、翻訳刊行された。その中からまずはイ・ドゥオン『あの子はもういない』(小西直子訳 文藝春秋 2300円+税)を紹介しよう。

 ユン・ソンイは、刑務官採用の面接の最中にショック症状に陥ってしまった。気絶し目を覚ました彼女の枕元には、強行犯係の女性刑事が立っていた。刑事は訊きたいことがあると語り、ソンイの妹で女子高生のチャンイの行方を知らないか尋ねる。チャンイは、同級生の男子が不審死を遂げたのと同時に失踪したという。警察はチャンイの事件への関与を疑っていた。だがソンイは、妹とは何年も会っておらず、没交渉の期間が長くなっていた。ソンイは、妹が父と同居していると認識していたが、その父も今は行方不明らしい。

 主人公ソンイは、パニック障害を持ち、家族はバラバラだ。家庭環境に問題がありそうなことは容易に想像できる。事実、物語はユン家の問題をじわじわと炙(あぶ)り出す。特に序盤では、虐待(ぎゃくたい)される妹の日記が涙を誘う。しかしここで、本書を、家族の悲劇やら再生やらを描く作品だと決め付けるのは早計だ。すぐに、一段上の不穏な空気が漂い始めるからである。妹が暮らしていた家に父がいた形跡がない上に、仕舞われている服は高校生には似合わない子供服ばかり。困惑しながら妹の行方を追うソンイの前に、不審死した男子高校生の父親が登場し、ソンイと共に事件の解明を進めていく。

 そして折に触れて挟まれる、何か後ろ暗いことを手助けしている女の描写。これらに加えて刑事側の事情も絡み、物語は加速度的に混迷の度を深めていく。様々な登場人物の思惑が交錯して事態が複雑化し、その果てに、どす黒いとしか言いようがない真相が姿を現すのである。

 総じて言えば、予断を許さない展開が本書の最大の売りである。ここでは、それに加えて、クライマックスの描写が執拗(しつよう)であることにも着目したい。なかなか強烈なシークエンスが、駄目押しのように繰り返され、いつ果てるともなく続く。そのことが、本書の真相が持つ闇の力を強調しているように思われてならなかった。

 もう一冊の韓国ミステリ、チョン・ユジョン『種の起源』(カン・バンファ訳 ハヤカワ・ポケット・ミステリ 各1600円+税)も推したい。魅力や完成度は伯仲(はくちゅう)するが、独自性はこちらが上だ。
 25歳の法学部生ユ・ジンは、自宅にて血の匂いで目覚めた。その直後、外泊していた義兄ヘジンから電話があり、夜中に母から着信があったと知らされ、状況を訊かれる。電話を切ったユ・ジンは、自分が血塗れであることに気付き、床の血の跡をたどって階下に向かう。そこでは、母が血を流して死んでいた。昨晩何があったのか?ユ・ジンは当初何も覚えていなかったが、やがて記憶が徐々に蘇(よみがえ)り始める。

 ユ・ジンは幼い頃に10歳の兄を亡くした。父も亡くした。その後しばらく母と二人で暮らしていたところ、思春期に、親友のヘジンが母の養子となったのである。また、将来を嘱望(しょくぼう)される水泳選手になりつつあったユ・ジンは、癲癇(てんかん)の発作に襲われ、キャリアを棒に振ってしまう。持病は母と叔母によって隠され、ユ・ジンは法曹を志(こころざ)すようになり、服薬の傍ら、勉強を続けていた。ただし、彼はしばしば、持病の薬を呑むのを勝手にやめることがあった。

 当書評で粗筋(あらすじ)や設定を紹介するのは、ここまでとしたい。なぜなら本書は、可能な限り予備知識がない状態で読み進めるべきであるからだ。本書は主人公ユ・ジンの意識の流れをそのまま小説にした作品であり、想念があちこちふらふらと当て所なく彷徨(さまよ)う。目の前で《母の異常な死》という事象が生じているけれど、主人公の想いは時空を飛び越える。主人公の精神状態は見るからに不安定だが、一人称による語り口は不自然なほど落ち着き払っている。このアンバランス感がたまらない。

 読者としても、この独特の雰囲気を、骨の髄までしゃぶり尽くすべきだ。物語の中で描かれるあらゆる情景と記憶を、能(あた)う限りリアルタイムの衝撃をもって味わうべきだ。そうでなければあまりにも勿体(もったい)ない。主人公の不安定感、混濁し錯綜する時間線、先行きの不透明感、これらが渾然(こんぜん)一体となって読者を酩酊(めいてい)させてくれる。その酔いは決して心地よいものではない。悪酔い、いやむしろ麻薬による悪夢にすら近い。だがそのバッド・トリップぶりの何と蠱惑(こわく)的なことか。