人ごととはとても思えないロイスの物語。
歌うパン種のお話? 絶対読みたい!

池澤 春菜 Haruna IKEZAWA 



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 地球の裏側に住んでいる友人と、お互いワンフライトで行けるところで落ち合おう、といって選んだサンフランシスコ。二〇一八年の三月のことでした。
 路面電車(トラム)に乗り、ギラデリのファクトリーでアメリカンなチョコの甘さに震え上がり、モダンなモロッコレストランで世界一美味しいかもしれないラムを食べて呆然とし、モントレー湾で野生のラッコを見て、水族館でオイスター柄のマグカップを買い、ゴールデンゲート・ブリッジの向こう側まで行って絶景を堪能。サンフランシスコを全力で楽しみました。その中で、幼少期の十年近くをサンフランシスコにいた友人が食べたいと強固に主張したのが、名物のサワードウとクラムチャウダーでした。
 サワードウ? 酸味のあるパンだよね? 「夢にまで見た」ってほど美味しいもの? クラムチャウダーも好きだけど、シアトルのパイク・プレイス・マーケットでも食べられるしなぁ。と、テンション上がりきらぬまま連れて行かれたのが、フィッシャーマンズ・ワーフにある老舗。大混雑の店内では、誰もがくりぬかれた巨大なパンの器になみなみ入ったチャウダーをいただいています。大きい、絶対食べきれない、と内心絶望しながら齧ったパンの蓋部分……あれ、なにこれ?
 みっちりしっとり、爽やかな酸味。日本で好まれる、お餅みたいなねっちりしたパンとは違う、どっしりした柔肌。ふかふかじゃなく、滑らかで、光沢のあるうつくしい気泡。クラストは好みのガリガリ加減。そして酸味! すっきりと、キレのいい、心地よい酸味。もったり濃厚なクラムチャウダーの後味を見事にまとめてくれる。なにこれ、めっちゃ好き、めっちゃ好き!!
 店内では様々な形をしたサワードウも売られていましたが、旅行者ゆえ買えず。こうなったら、作るしかない。帰国してすぐに発酵種となるサワードウ・スターターの起こし方を調べ、見よう見まねでチャレンジしてみたのです。
 結果、見事に失敗。
 スターター、うまくいったらふくらんでぶくぶく言うはずなのに、うんともすんとも言わず! レーズンを入れてみたり、ヨーグルトを入れてみたり、二週間ほど頑張ったけれど、頑として静まりかえったままのスターター。ダメ元で焼いたパンは、ねっちりずっしり、鈍器みたいな何かでした。「ザナドウちゃん」って名前までつけたのになぁ。
 温度? 小麦粉の種類? 粉と水を追加するフィードの頻度? それともうちにいる常在菌が相性悪かった? ああ、あの時にこの本を読んでいたら!

 ということで前置きが大変長くなりましたが、わたしにとって人ごととはとても思えないロイスの物語。歌うパン種のお話? 絶対読みたい!
 この物語に出会ったのは、二〇一九年の「東京創元社 新刊ラインナップ説明会」でした。白状すると、どうしてもすぐ読みたくて、書店さん用に用意されたゲラを懇親会会場から一部こっそり持ち帰ったんです。そしてその晩のうちに一気読み! 次の日、たまたま東京創元社に立ち寄った時に「読みました!!」と報告したわたしの鼻息が買われて、今回解説を書かせていただけることになった次第。
 サワードウ・スターター起こしには失敗したけれど、実はわたしも普段、よくパンを焼いているのです。売っている日本人好みのモチモチではなく、雲のような口溶けのイングリッシュマフィン。美味しいオリーブオイルをたっぷり使った色々なフォカッチャ。発酵バターとゲランドの塩を使った禁断の塩パン。
 材料を量り、ホームベーカリーにセットし、一次発酵が終わったら取り出して、ベンチタイム、成形、二次発酵、焼成。同じ手順、同じ材料で作っているのに、毎回ちょっとずつ違う出来上がり。
 パン作りってね、化学と魔法の融合なんですよ。強力粉に含まれる灰分(かいぶん)を0.1%単位で見比べてブレンドし、発酵の温度と時間の組み合わせを試行錯誤。それこそパン作りフォーラムでは、日々考察と実験が繰り返されています。ここまでは化学。でもその化学では計りきれない最後の決め手、そこは魔法。
 うぃんうぃん、どすんどすん、ぐっぐっぐ、と勤勉なホームベーカリーの働く音。
 蓋を開けて、粉と水とその他もろもろが、見事にパン種になっている不思議。
 温かく滑らかでうっとりするような手触りのパン種に触れる喜び。
 大きくなれよ、と四十度に設定したオーブンに二次発酵に送り出す時の母のような気持ち。 
 焼き上がって、オーブンの扉を開ける時の期待と不安。
 そしてもちろん、出来上がったパンを食べる最高の瞬間!
 心が疲れてしまった時に、ただただ無心でパンを練り練りする時間の癒やし効果たるや。ロイス、あなたがパン作りにはまった気持ち、よーくわかります。
 このテクノロジーとマジックの融合は、ロビン・スローン作品の特徴の一つ。
 本作でも、化学(&科学)を否定して自然回帰を提唱するでもなく、かといって謎を解明して世界中の飢饉を救うビッグプロジェクトを立ち上げるでもなく、なんとも軽やかで意外性に満ちたエンディングを描いてくれました。前作『ペナンブラ氏の24時間書店』でも、本という古くからあるものと、インターネットなど今のテクノロジーを両立させつつ、科学と魔法に満ちた素敵な物語を楽しませてくれていたし。
 その秘密がどこにあるのかなぁ、と思っていたら、二〇一七年に来日した際のインタビューに、このような答えが。

 ――(前略)この小説でいちばん印象的かつユニークだったのが、例えば活字の本と電子書籍、印刷技術とコンピュータの最新デジタル技術といった、古いものと新しいものが両方出てくるとき、どちらか一方に肩入れするのではなく、フラットな視点で書かれていることでした。この点も意識されて書かれたのですか。
 スローン うん、それは完全に意図的にやったことだね。こういうテーマについて議論すると、どうしても「伝統技術VS最新テクノロジー」、「紙の書物VS電子書籍」のような二項対立になりがちだけど、僕は常々、そういう「戦い」のような捉え方は違うと思っていた。本当はすべて共存することができるし、みんな全部を楽しめるはずだと思っていたので、そのことをこの小説の中で見せたかったんだ。
                  

 NPOのジャーナリスト養成学校やTV局に勤め、プログラマ、映像作家としての顔も持ち、そして現在もソーシャルメディアに関わる仕事をしているスローン氏。
 紙の本として出版されたのは、前述の『ペナンブラ氏』と今作だけですが、どちらもなんとも魅力的(電子書籍ではホラーなミステリ中編Annabel Scheme、そしてAjax Penumbra 1969という若き日のペナンブラ氏のお話があります。公式サイトには『ペナンブラ氏』の短編版なども!)。
 サンフランシスコという町を愛し、限りなく現実に近い今を舞台にした物語を描きながらも、少しの魔法で世界の見方を変えてしまう。軽快で、ユーモラスに満ちているけれど、押しつけがましくなく、味わい深い。言うなれば、栄養補給はできるけれど無味乾燥なスラーリーやジャイナ版レンバスではなく、食べると幸せになれるスパイシースープやサワードウのようなお話。改良版スラーリーはマンモスタンク一つで二千人のお腹を満たすことができるかもしれないけれど、物語は何十万何百万の人の心を満たすことができますものね。
 次にロビン・スローンがどんな物語を生み出すのか、とても楽しみです。

 この文章を書きながら、わたしがしているもう一つのこと……イエス、もちろん新たなスターターを仕込みました!
 今度はライ麦の全粒粉を用意して。マズグの音楽はかけられないけれど、鼻歌くらいは歌ってみようかな。スパイシースープも、自己流でレシピを考え中(ガンボと、ハンガリアングーラッシュと。ベースはたぶんチキンストックで、手に入るならフレズノ・チリをたっぷりと!)。
 あ! 今見たら、スターターに気泡が三つ生まれてる! 夜中に歌ったり光ったり仮足を伸ばしたりしてもいいから、今回はちゃーんと成功しますように。


■池澤春菜(いけざわ・はるな)
声優、女優、エッセイスト。芸能活動のかたわら読書エッセイを執筆。著書に『乙女の読書道』『SFのSは、ステキのS』『最愛台湾ごはん』『はじめましての中国茶』 『おかわり最愛台湾ごはん』がある。