題名の意味を理解した時は、
これぞファンタジーの醍醐味!
と唸らざるを得ませんでした。


河野 聡子 Satoko KONO



 ようこそ、オロンドリアへ。ここは北に山岳地帯、東には遊牧民の住む荒野と砂漠を抱える広大な帝国です。さらに北方には異民族ブログヤーの国があり、西方はニシア、南西の海にはスパイスの産地である紅茶諸島。帝都ベインはきらめくドームと巨大な港を抱えた都市で、周囲には美しい砂浜が広がっています。その沖合の〈浄福の島〉には聖なる町ヴェルヴァリンフゥ、巨大な図書館や宮殿の尖塔がそびえます。
 オロンドリアはいくつもの国家が統合されて誕生した国です。作者ソフィア・サマターによって作られた、中世から近代初期のヨーロッパやアラビア半島をいくらか連想させる世界ですが、独自の文化風俗、言語、神話をもち、帝国の領土は時代によって拡大と縮小をくりかえしています。北の国境付近で長いあいだブログヤーと争っていますが、現在の帝国貴族の主たる関心は次の王位が誰に継がれるかということにあります。国民の人気を一心に集めるアンダスヤ王子こそが次の国王だと目されていますが、王子は新興の〈石〉の教団を庇護する現国王に反逆し、古いアヴァレイ信仰をおおっぴらに支持している有様です。そんなアンダスヤ王子はある日ついに反乱を起こし、帝国は大きく揺れ動きます。

 本書『翼ある歴史 図書館島異聞』は、以前刊行された姉妹編『図書館島』の終盤で触れられた“王子の戦争”の顚末を、四人の女性の語りをつらねて物語った作品です。『図書館島』では“王子の戦争”は〈石〉の教団と旧来のアヴァレイ信仰の対立をきっかけとして描かれますが、本書ではこの反乱はオロンドリア帝国に統合された各国の独立戦争でもあると判明します。
『図書館島異聞』と副題をつけられているように、本書には『図書館島』を裏側から見たような側面があります。そちらをお読みになっていない方のためにそのあらましを紹介しておきましょう。『図書館島』の主人公はジェヴィックといい、文字の存在しない紅茶諸島で生まれた青年でした。彼はオロンドリアから来た家庭教師によって文字と読書の喜びを知り、やがて商人である父親の跡を継いで憧れの都ベインを訪れた際、この世界で“天使”と呼ばれる存在――死んだ少女の幽霊に取り憑かれてしまいます。オロンドリア帝国では〈石〉の教団が国王の庇護のもとで権力を握っていました。ジェヴィックは古いアヴァレイ信仰に味方する者とみなされて警備隊に捕らえられ、いつのまにか新旧の信仰の対立に巻きこまれてしまいます。その一方、ジェヴィックに取り憑いた天使は夜になると自分についての“本”を書くよう要求し、ジェヴィックを苦しめるのでした。なぜなら天使の言語には文字がなく、ジェヴィックはそれを“書く”ことができなかったからです。

 ――といった具合で進行するのが『図書館島』というお話なのですが、ここには辺境の青年の眼で外部から見た、ひとつの大きな“オロンドリア帝国”が描かれていました。しかし本書『翼ある歴史』では、帝国の領土内に生まれ育った人物、それも章ごとに立場の異なる女性の視点で物語が進行します。最初の「剣(つるぎ)の歴史」の語り手であるタヴィスはアンダスヤ王子の従妹ですが、女性でありながら軍人となる道を選び、さらに自身のルーツを、オロンドリア帝国を構成する三つの民族のひとつ、ケステニヤ人に求めます。ケステニヤ人は遊牧の民で、本来の言語や法慣習はオロンドリアのものと異なる民族でした。その次の「石の歴史」の語り手は『図書館島』にも登場した、〈石の司祭〉イヴロムの娘、ティアロンです。この章では彼女の生い立ちや『図書館島』以後彼女に起きた出来事について、父イヴロムの人生や〈石〉の教団の由来とともに明らかにされます。次の「音楽の歴史」は「剣の歴史」の語り手タヴィスの恋人となった詩人セレンの語りで、詩人=音楽家が見たオロンドリアが描かれます。最後の「飛翔の歴史」はタヴィスの姉シスキの視点による物語で、政略結婚の駒として翻弄された彼女とアンダスヤ王子の関係が明らかになります。
 四人の女性の語り口はすべて異なっていますが、これらの章の終わりには「われらの共通の歴史より」と名付けられた正史が挿入されています。章を追うにつれて、時間とともに進行する事態とこの世界で生きる人々についての詳細がよりはっきり見えてくるでしょう。
 全体を通じて迫ってくるのは、複数の民族が混合した“オロンドリア帝国”の歴史の中に生きる人々の感情のもつれあいです。すでに『図書館島』をお読みになっていれば、かの本に登場した人々についてより掘り下げられて描かれた部分も見えるにちがいなく、両者をくらべて楽しむこともできるでしょう。特に「石の歴史」では、語り手であるティアロンについて『図書館島』の主人公が得た印象とは異なる側面が読みとれるかもしれません。

 ところで、架空世界を舞台にしたファンタジーといえば、独自の神話や魔術が登場するのが定番でしょう。『図書館島』では“天使”と呼ばれる少女の幽霊と主人公ジェヴィックのロマンスが魔術的な要素を伴って物語の重要な軸となっていました。対して本書で重要な軸として存在するのは、オロンドリア帝国それ自体がもつ神話的、魔術的な由来です。ここからアンダスヤ王子がこの戦争をはじめた理由や、この戦争がオロンドリアの“歴史”において持つ意味につながります。
 章の終わりに挟まれた「われらの共通の歴史より」によると、この帝国は最初からこんなに巨大であったわけではありません。オロンドリアはケステニヤやネインといった複数の国が統合された結果できた連邦国家のようなものです。オロンドリア前史においては、ラスという民族国家が他の国を統合するために〈言語戦争〉と呼ばれる戦争を起こしました。こう呼ばれる理由はこの戦争の結果として複数の民族が話す複数の言語がひとつに統一されることになったからです。
しかし戦争の終盤にはドレヴェド、ドレヴェディ、あるいは吸血鬼と呼ばれる異形の者があらわれ、混乱によって統合を遅らせました。さらにその後も、オロンドリアには時々異形の特徴を持つ者が生まれるようになります。そして言葉を話さないドレヴェドはオロンドリアの歴史において“混乱”の象徴となります。
 言語の混乱が異形の者の登場によって起こる。これにより本書はより幻想的な空気をはらむようになります。『図書館島』では私たちの現実世界と同じようなものに見えなくもなかったオロンドリアの世界に、異なる次元の奥行きがあるとわかるのです。ラストにいたって『翼ある歴史』という題名の意味を理解した時は、これぞファンタジーの醍醐味! と唸らざるを得ませんでした。

 本書でも『図書館島』でも作者の一貫した“言葉”への関心が窺えますが、追究の対象は多少異なっているようです。『図書館島』で通奏低音のように響いていたのは、文字のない辺境の島出身の青年が巻きこまれた、新興の〈石〉の教団による“文字で書かれた信仰”と、オロンドリアに古来存在するアヴァレイ信仰という“語られる信仰”の対立でした。この対立は同時に書き言葉と話し言葉の対立でもあり、節制の称揚(文字にもとづく信仰)と豊穣の神(身体にもとづく信仰)の対立でもあります。それを反映してか『図書館島』には作中に千夜一夜物語のような、声と記憶で伝えられる物語が多数登場し、主人公は天使が自分に“語る”言葉の扱いについて悩むことになりました。
 語り部の声によって伝えられる物語や歴史の大きな特徴は、その柔軟さ、可変性にあるといえるでしょう。対して書かれた言葉、本に著され石に刻まれた言葉は変更がきかず、修正したり新版を作成すれば、その痕跡が残ります。そして痕跡それ自体も“書かれたもの”として読み解かれることになります。
 本書『翼ある歴史』にも“書かれた言葉”と“話された言葉”の対立は窺えないことはありません。ですがこちらで焦点となっているのは“書かれた言葉”であり“これから書かれる歴史”のようです。四つの章を語る四人の女性はちがった形で“書かれた/書かれる言葉”にこだわり、問題にしているからです。『図書館島』で描かれているのが“文字が存在しなかった言語にいかにして文字が導入されたか”だとすれば『翼ある歴史』で追究されているのは“文字で書かれた歴史=物語はどのようにして生まれるのか”であるとでも言えましょうか。

 ソフィア・サマターの略歴については『図書館島』の訳者あとがきに書かれていますので割愛しますが、影響を受けた作家としてトールキンやルグウィンといったファンタジー作家のほか、マルセル・プルーストやマイケル・オンダーチェがあげられているのは非常に示唆的です。架空の神話や文化とそれにまつわる言葉の創造に優れているのはもちろん、記憶や情景を生き生きと蘇らせる描写にもサマターの圧倒的な力量を感じます。今後も作品が翻訳されるのを楽しみにしています。


■河野聡子(こうの・さとこ)
1972年福岡県北九州市生まれ。詩人、書評家。ヴァーバル・アート・ユニットTOLTA代表。刊行詩集に『時計一族』『Japan Quake Map―Sapporoによるヴァリエーション』『WWW/パンダ・チャント』 『やねとふね』『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』。書評や論考、エッセイを文芸誌、新聞等に寄稿。実験音楽のユニット「実験音楽とシアターのためのアンサンブル」でも活動している。