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 1946年に募集された第2回EQMMコンテストにおいて、特別処女作賞が新設され、R・E・ケンダル、ジャック・フィニイ、ハリイ・ケメルマンの三人に与えられたこと、以後、素晴らしい才能を処女作特別賞が輩出していったことは、前にも触れました。それは、EQMMという雑誌が、新人の登竜門となっていくきっかけでもありました。最初の処女作特別賞の3編は、コンテストのところで読みましたが、ハリイ・ケメルマンだけは後回しにしておきました。というのも、ケメルマンの登場には、もうひとつの重要な意味があったからです。その受賞作「九マイルは遠すぎる」とは、どんな短編だったのでしょう。
 のちにシリーズとなる、この連作のフォーマットは、いたって単純でした。元大学教授で郡検事に転身した「わたし」は、かつての同僚である英文学教授ニッキイ・ウェルトと、頻繁に食事やチェスをともにする間柄です。やや年上で、しかし、それ以上に自分のことをも生徒を扱うようにあしらうことのあるウェルトに、「わたし」は頭があがりませんが、ふとしたきっかけで事件のことを話すと、些細な手がかりから、ウェルトが謎を解きほぐしてみせるのです。いや、ニッキイ・ウェルト初登場の「九マイルは遠すぎる」は、事件の話を始めたわけでさえなかったのでした。
 ある小さな出来事をきっかけに、推論というものは、どんなことからでも可能であって、しかも、たとえ、その推論が論理的には理屈にはあっていても真実ではないことがあると、ニッキイが主張する。つまり、推論など空理空論だと言っているのです。それを証明すべく、十語から十二語程度の短文をくれれば、そこから可能な(しかし事実とはまったく無関係な)推論を引き出してみせようと豪語します。そこで「わたし」が思いついたのが「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、ましてや雨の中となるとなおさらだ」という文章でした。ニッキイは、さっそく、そこから推論可能な事実を引き出していきます。その話し手はうんざりしている。彼は雨が降ることを予想していなかった。彼はスポーツマンや戸外活動家ではない。といった分かりやすい手近な推論から始まって、やがて、九マイルという距離に着目することで、推論はどんどん具体的で限定的になっていく。この部分のわくわくする感じは、パズルストーリイのもっとも人を高揚させるところでしょう。そして、状況は驚くほど狭まり、絞り込まれ、ついには、ある犯罪を推定させるに到るのです。
 1947年発表の「九マイルは遠すぎる」を皮切りに、ケメルマンは断続的にニッキイ・ウェルトを主人公とする短編のパズルストーリイを八篇発表します。そのうち二作目の「わらの男」が第5回コンテストの佳作、六作目の「おしゃべり湯沸かし」(アデルフィの壺)が第13回コンテストの選外作に入っています。そして1967年に「梯子の上の男」を発表し、同年それらを一冊にまとめた短編集が編まれます。無論、クイーンの定員に選ばれました。約二十年間で八編というのは、寡作としか言いようがありませんし、もともと「九マイルは遠すぎる」が、最初の着想から十四年後に完成したものだと、ケメルマン本人が序文で明かしています。
 続く「わらの男」は、誘拐事件の脅迫状――雑誌からの切り抜き文字を貼り付けた例のヤツです――に、どういうわけか、明瞭な指紋がついているのはなぜか? という謎が設えてありました。ニッキイは、まず、それが故意であることを論証していきます。そこの部分は面白いのですが、犯行の真相とその解明には、それほどの魅力がありません。「わらの男」が示したこの弱点は、この作品だけにとどまらない、このシリーズの弱点であるように、私には思われます。「10時の学者」「時計を二つ持つ男」の、犯行時に何が起きたのか?という推論は、「九マイルは遠すぎる」の十二語の文章や「わらの男」の指紋のついた脅迫状から成される推論のダイナミズムに欠ける。こういう可能性の場合に、犯行はなされうるという推論は、解決のための辻褄あわせにしか見えないものです。むしろ「エンド・プレイ」の机上のチェスボードの写真から推測されることは、論理のアクロバットと言えなくもない盲点をついた推論ですが、それだけで一編を支えるのは、いさかか軽い。「おしゃべり湯沸かし」の蒸気音からの推理は、強引というものでしょう。
 こうしてひとつひとつ見ていくと、『九マイルは遠すぎる』の収録作品は、必ずしも推論の面白さを十全に展開しているわけではありません。むしろ「九マイルは遠すぎる」だけが、端然とした推論の物語として、他の作よりもかけはなれて秀れている。その正体は、一編の最後のサゲにあります。ニッキイは、そもそも、推論とはあらゆるものから可能ではあっても、事実とはなんら関係がないことを証明しようとしていた。このアイロニーがあってこそ、「九マイルは遠すぎる」は、パズルストーリイのひとつの本質的な側面を、作品自体が体現した端正な結晶体となったのでした。

 いまでこそ、『九マイルは遠すぎる』は、アームチェアディテクティヴという形式を完成させた短編集として、ジェイムズ・ヤッフェの『ママは何でも知っている』とともに、日本でも評価が定まっているでしょう。しかし、その評価は最初からあったわけではありません。そもそも、その収録作品は「時計を二つ持つ男」を例外として、すべて、本国での短編集出版ののちに、初めて訳されました。ニッキイ・ウェルトとママの両シリーズで安楽椅子探偵ものが完成したと評する都筑道夫は、しかし、その在任中に、このシリーズを日本語版EQMMに載せることはありませんでした。
 謎解きミステリの魅力の核は、名探偵の展開する推論にある。エラリイ・クイーンが強く意識し、持ち込んだ、このテーゼを、分かりやすく結晶化してみせたのが「九マイルは遠すぎる」でした。第二次大戦直後といえば、アメリカの謎解きミステリが、名探偵が困難を知的に脱出していく物語に傾斜する一方、日本の謎解きミステリが、作者の仕掛けるトリックを読者が見破れるかという物語に傾斜するという、異なった展開をしているときに、パズルストーリイの魅力の核は、そのどちらにもないと主張したようなものでした。都筑道夫が、自身の謎解きミステリ観を一度立ち止まって見つめ直し、モダーンディテクティヴストーリイという概念にたどり着いたのは、それから二十年以上が経った、60年代の終わりから70年代の初めにかけてのことです。そのころ、アメリカの短編ミステリは、すでに趨勢としてはクライムストーリイに傾き、ヴァラエティ豊かな作品群を産み出していました。日本においても、謎解きミステリは優勢とは言えませんでした。土屋隆夫、鮎川哲也といったわずかな例外――本当は、鮎川哲也の評価は、80年代後半からの再評価ほど高くはなかった気がしますが――を駆逐するような勢いで、のりと鋏でデッチあげたような、本格ミステリの出来損ないとでもいうべきものが跋扈していたのも事実です。しかも、アメリカと異なるのは、短編ミステリのヴァラエティに欠けていました。
 早川書房の世界ミステリ全集第18巻『37の短篇』の巻末座談会――かねがね思っているのですが、早川は18巻分の座談会をなぜ一冊にしないのでしょう――を読んでみてください。石川喬司、稲葉明雄、小鷹信光によって1973年に行われたものですが、小鷹信光の孤立ぶりは、当時としても目立っていました。37編のうちパズルストーリイが15編を数えることに「やはりまだ多いんですね」と感想を持ち――これは、奇しくも、EQMMコンステト一席作品に、ディテクションの小説が多かったことに関する、クイーンの感慨と一致しています――自分が37編からベスト5を選ぶと、その15編の中からは作品が、1~2編しか入ってこないと言うのです。石川喬司がベスト5に入れた「九マイルは遠すぎる」については「ぼくはだめです。“頭の体操”としては認めますが」と、にべもありません。にもかかわらず、ミステリといえば、名探偵が論理によって謎を解く小説としか解されない。それはおかしなことではないか? 小鷹信光の主張はそこにありました。それは、正しかったのか? ミステリが推論による謎解きミステリからクライムストーリイへと進む、そういう不可逆的な展開が、あるべきミステリの進歩であったのか? 正しくないとしたら、どこが正しくなく、また、正しくないなりに耳を傾けるべきところはなかったのでしょうか?

 ジェイムズ・ヤッフェの初期作品については、以前に触れましたが、十代でのデビューは珍しくはあっても、作品は凡庸でした。ママ・シリーズを書くことで、ヤッフェは一流作家の仲間入りを果たします。第一作めの「ママは何でも知っている」は第7回コンテストの第3席作品として――「アデスタを吹く冷たい風」の年でした――52年に発表されました。続いて「ママの春」が第9回コンテストの第3席、「ママは祈る」が第10回コンテストの第2席に入りました。
 ケメルマンの短編が60年代後半に訳されたと書きましたが、ヤッフェのママ・シリーズの日本でのあつかいは、さらに極端です。「ママは祈る」が二年おくれで、「ママの春」が十年後に、それぞれ日本語版EQMMに翻訳されましたが、それ以外の作品は1967年の一年間に集中的にミステリマガジンで紹介され、68年発表の「ママは憶えている」が72年1月号に翻訳されたのです。奇しくも、1967年は『九マイルは遠すぎる』の原著刊行の年でした。以後の数年で、ケメルマンのニッキイ・ウェルトものは紹介されていき、ポケミスに『九マイルは遠すぎる』が入った71年末発売のミステリマガジンに、「ママは憶えている」が載ったのです。これらの作品紹介の立役者が太田博(各務三郎)であったろうことは、容易に推測がつきます。そして、日本では根強いファンがついていたママ・シリーズは、本国よりも20年先駆けて77年に短編集としてまとめられました。日本語版EQMMに掲載された二編も改訳され、小尾芙佐の個人全訳です。のちに長編のママ・シリーズを東京創元社が出したとき、担当の松浦正人をして、短編集の改訳出版をする気にさせなかった、不動の人気シリーズでした。唯一の瑕疵は、原著が存在しない(雑誌掲載しかテキストがない)ことからくる、デイヴィッドが自分の細君の学歴をうろ覚えなこと――けしからんですな――で、97年になって、ようやく、シャーリーはウェルズリーで心理学と社会学を専攻し家政学の授業も取ったと確定しています。もちろん、小尾芙佐には、いささかの瑕疵もありません。
『ママは何でも知っている』については、ハヤカワ文庫版の法月綸太郎の解説が行き届いていて、つけ加えることがありません。とくに、最初の二作は犯人あてに主眼が置かれているけれど、三作目以降「事件の謎解きがママの人生や家族観とオーバーラップするような仕立てになって、物語の奥行きが深くなる」という指摘は重要です。ニッキイ・ウェルトのシリーズとの違いは、その点が大きく、また、それに尽きるとも言えます。ママの推理は、初期のミス・マープルに似たところがあり、知人の誰それに似ている、誰それがそうだったという言葉が、頻出します。しかし、ミス・マープルよりも、その類似点からスタートする推論の足取りがしっかりしているのが強みです。そのうえで、ママの推理が、いささか強がりなママの真の姿を浮かび上がらせる。そこらの女私立探偵より、よほどハメットに近いのではないかと考えることが、私にはあります。「ママが泣いた」「ママは祈る」「ママは憶えている」など、そういう意味で逸品というほかありません。また「ママ、アリアを唄う」は、オペラファンというクローズドサークルでは通常人とは別の論理が働くという点で、のちのクローズドサークルのパズルストーリイの行き方を、先取りしていました。
 40年代から50年代にかけて、ケメルマンとヤッフェが書き続けたふたつのシリーズは、ディテクションの小説はクライムストーリイにとって代わられるのではないかという不安――クイーンでさえ感じていた不安――を、わずかずつではあっても払おうとする試みでした。しかし、それが大きな潮流となることはありませんでした。寡作であることの長所も短所も、このふたつのシリーズにはあったのです。ふたりののち、たとえばシオドー・マシスンの『名探偵群像』のような、歴史上の著名人がただ一度だけ名探偵ぶりを発揮するというコンセプトだけが先行し、魅力的な謎も魅力的な推論もない、事件と解決の残骸のような、謎解きミステリのシリーズさえ現われました。同時代のヒュー・ペンティコーストの伯父さんのシリーズは、数歩力が及ばず、しかし「子供たちが消えた日」という抜群の副産物ならば、産み落とすことが出来ました。
 60年代の末、このふたつのシリーズは遠くはなれた極東の地で、知己を見出し、各務三郎をして「無限に広げうる推論の楽しみ、の勝利」と絶賛させ(『ミステリ散歩』)、都筑道夫をしてモダーンディテクティヴストーリイの実践を通して、退職刑事のシリーズへ向かわせました。しかし、それは先の話であって、両シリーズを最後に、短編のパズルストーリイの命脈はつき、クライムストーリイへの移行は不可避であるという、小鷹信光のような考えは、説得力を持つようになっていったのでした。


※ EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)