アメリカ合衆国大統領ジョナサン・ダンカンは、テロリストに便宜を図ったと疑われ、弾劾(だんがい)の瀬戸際にあった。しかし彼は、経緯を説明しない。実はアメリカに国家的危機が迫っており、被害を食い止めるためには秘密裏に行動しなければならず、何も言えない状況だったのである。そして事態打開のため、ダンカンはホワイトハウスを密かに脱出することになる――。

 このような筋立てのビル・クリントン、ジェイムス・パタースン『大統領失踪』〈上下〉(越前敏弥訳 早川書房 各1800円+税)はアメリカ合衆国第42代大統領ビル・クリントンが共著者で、話題性は抜群だ。おまけに、現大統領ドナルド・トランプとクリントン夫妻の関係を考えると、トランプへの一種の当てこすりとも解釈可能だ。しかしそれら全てを無視してもなお、『大統領失踪』はミステリとして高く評価できる。



 まず、大統領を取り巻く環境と、大統領自身の感慨が、細部に至るまで実にリアルなのだ。もちろん、大統領や首相、国王などを主人公に据えた小説は、古今、作例が山とあり、「SPやスタッフに常に囲まれているから息が詰まる」程度の描写なら、他の作品でも読める。しかしながら、火急の事態で地下道(シェルター)をダンカンが一人歩く時にいくばくかの解放感を抱く、なんて妙に具体的で細かい描写は『大統領失踪』でしか読めない。こういう場面が続出するのだ。

 また、大統領ダンカンが徹頭徹尾、国家のリーダーとして活動しているのもいい。この種の物語では、大統領などの国家リーダーが、何らかの事情で権威・権限を使えなくなって、最終的には個人の力量で問題を解決する展開を迎えることが多い。また、個人的事情(たとえば家族)よりも国家の大事を優先せざるを得ず、お涙頂戴(ちょうだい)の話になるケースもよく見かける。というわけで、私も最初は、『大統領失踪』が、主役がピンチに陥って大統領としての仕事が事実上できなくなり、やむなく失踪して個人プレーに走るんだろう、などと予想していた。

 しかし、実際には全然違うのである。《失踪》の前も後も、主役ダンカンは大統領として存分にその権限を振るう。危機回避のためにアメリカ行政機構を有効活用する。それも、適正な手続きに則って。本書はテロとの戦いをミステリ仕立てで描くが、同時に、合衆国大統領の業務を詳細に描くお仕事小説でもあり、ダンカンが物理的に単独行動をとっていても、主役はあくまでも大統領であり続ける。大統領といえども一人では何もできない、元首の力は行政機関があってこそ。作者のそのような考えが反映されているかのようだ。

 ダンカンの性格設定もいい。彼は完璧ではなく、弱気になって動揺したり、冷酷さを見せたりもする。しかし常にユーモアを忘れないのは偉とすべきで、力強くリーダーシップを取らんとする。甘いだけではない点も含め、民主党系の大統領らしい大統領である。クリントンが自らの理想像を託した側面はありそうだが、魅力的なのは否定できない。これに加えて、謎解き要素も満足の行く出来なのだから恐れ入る。特に黒幕(?)の動機には唸(うな)らされた。元大統領にこれほどの作品を書かれると、今後、大統領や王侯貴族を主役に据える小説は、ハードルが上がってしまうのでは……。