過日、連城三紀彦の傑作集を全二巻で編んだ。創元推理文庫から刊行された『六花の印』『落日の門』が、その二冊だ。各巻には長めの解説をしたため、編纂の方針にもふれてある。編者というより黒衣の心づもりだったから、あとは読んでくださったかたの声に耳をすましていたいところだが、ふりかえってみるとくだんの解説文には、いつになく個人的な想いがにじんでいる。もちろん、十代のころから親しんできた作家の傑作集をこしらえるという望外のチャンスをいただき、その作品の魅力について書くのだ。肩に力がはいらないはずがない。だが、それだけではない。連城三紀彦については忘れられない悔恨がいくつかある。今回の仕事は、僕にとってかつてのいたらなさを、あらためてかみしめる苦くてありがたい機会でもあった。

 連城作品とはじめて出会ったのは、探偵小説専門誌《幻影城》の一九七八年五月号。当時の僕は中学三年にあがったばかりで、この雑誌のことを知ってはいたものの、定価七五〇円の月刊誌を購読する勇気がもてずにいた。同号はしかし、《幻影城》出身作家の競作企画にくわえて、泡坂妻夫特集が組まれ、〈なめくじ長屋捕物さわぎ〉論や、郷原部長刑事もの三部作を中心にした結城昌治論もありと、かなりの賑やかさで、とうとう買いもとめる決心がついたのだった(なにぶん四十年ほどまえの話だ。評論二本は読んでみたら感銘をうけたので印象に残っている、ということだったかもしれない)。
 どういう順で読み進んだか明確な記憶はないが、『11枚のとらんぷ』『乱れからくり』(ともに創元推理文庫)をすこぶる楽しんでいた僕が、泡坂特集にまず手をつけたことは想像に難くない。競作の短編を読んだのは、そのあとだろう。竹本健治や筑波孔一郎(のちに耕一郎と改名)に目をとおし、あとは掲載順に読んでいったのではないかと思う。連城にかんしては、第三回幻影城新人賞を受賞した「変調二人羽織」が七八年一月号に載っていたのを横目で見ていたくらいで、特段の関心はいだいていなかった。競作特集のなかにあっても、発表された作品は、題名といい、挿し絵といい、書き出しといい、ぴんとくるたたずまいではなかった。わくわくさせてくれそうな気配がなかった。
 あとから思えば、期待も予備知識もなしにその作品にとりかかったのは僥倖だったというほかない。その作品――「六花の印」は、なにも知らずに読むのが最高の調味料となる種類の特別料理であり、期せずして特上の体験を僕はすることになったのだから。中身について、ここで詳述するつもりはない。とにかく、衝撃と余韻に心底うちのめされた。
 興奮したのは僕だけではなかったのだろう。連城がつぎに《幻影城》に登場したのは、六・七月合併号をあいだにはさんで八月号のことだが、このときには新作短編が三作同時に掲載される異例の待遇だった。編集発行人である島崎博の力のいれようがしのばれるというものだ。しかも、うち「藤の香」は、〈花葬〉シリーズの幕開けとなった一編で、十月号の「菊の塵」、七九年一月号の「桔梗の宿」、同年五月号の「桐の柩」、六月号の「白蓮の寺」と書き継がれた連作を楽しみにしていた《幻影城》購読者はたくさんいたと思う。僕は、そのなかのほんの一人だった。当時いちばん感嘆したのは「桔梗の宿」だが、独創的なものが生み出されていく現場にたちあう喜びを教えてくれたこの時期そのものに、いまも格別な想いが残っている。ノスタルジーの一語ではとうてい説明がつかない。それは特別な時間だった。念のためことわっておくと、《幻影城》における〈花葬〉シリーズの進展のみがこうした時間をもたらすのだとは思わない。当然だ。それぞれの時代、それぞれの場所に、胎動がある。ただ、言わせてほしい。僕にとっては連城三紀彦の創作活動が、その大切なひとつだった。
 幸運なときは、しかし、いつまでもつづかない。前兆はあった。「桔梗の宿」が載ったあと、《幻影城》は三か月連続で休刊している。情報の手にはいらない大阪の一少年にしてみれば、ひたすら心細かった。復刊がなった五月号で「桐の柩」を堪能してひと安心したものの、それもつかのま、七月号を最後に雑誌の刊行はとまってしまった。版元が倒産したのも知らず、またの復活を心待ちにする日々がつづいた。願いはかなわなかった。

 時計の針を進めよう。
 高校二年にあがるまえの春休み、僕は連城三紀彦にファンレターを出した。住所を教わったのは泡坂妻夫からだった。
 ――いったい、どうしたらそんなことになるのか、書いておいて説明に窮するが、いまも昔も気が小さいわりに軽はずみな僕は、ミステリ作家に手紙やはがきを出すことがあった。版元に転送していただいたり、本の著者紹介欄に現住所が記載されていた場合には、そちらへ直接送ったり。猪突猛進と形容したら、猪から文句を言われかねない。
 泡坂さん(と書かせてください)のときにどうしたかは記憶していない。消印を確認すると、返事のはがきをいただいたのは七九年の年の瀬だ。往信で《幻影城》のことを尋ねたらしく、七月号で倒産、終刊となった旨が書き添えられていた。そして第二信。タイミングからして新作『花嫁のさけび』(河出文庫)の感想をしたためた便だろう、僕は、連城さんの連絡先をこんどは訊いた。個人情報とかなんとか以前に、ファンレターでそれはない、と思うのだが、泡坂さんは咎めるふうもなく、八〇年の春休み直前の返信で教えてくださった。きっと苦笑なさっていたに違いない。当時の大人から自分はずいぶん大目にみられていた。まったく頭をさげるしかない。
 僕の手紙に対する連城さんの返信は、高校二年の一学期が始まるころ届いた。こちらがたどたどしく書いたことを丁寧にひろいあげながら、闊達に率直に、そして達者な筆跡でしたためられた手紙は便箋八枚におよんだ。僕はすっかり仰天してしまった。もちろん、うれしかった。それにしても敬愛する作家が、ざっくばらんな態度でことばをかけてくれることが信じられなかった。照れ屋でいらしたはずなのに、なぜああした手間暇をかけてくださったのだろう。塾講師の経験があった連城さんとしては、世間知らずな年少のファンのことがいささか心配になったのか。……わからない。
 ともあれ、手紙やはがきの往き来がこうして始まった。あらためて読み返してみると、僕が大学受験をまえにしているのを知った連城さんが、勉強にお励みください、学業、頑張ってください、としきりに書いてくださっているのが懐かしく面映ゆい。そのほかの内容については、トリックの話があけすけに出てくること、また、それなりに註解を要することを鑑みて、あれこれ紹介するのはひかえるが、大まかな印象を記すなら、連城さんはご自分の作品、文章に一貫して辛口だった。それはもう、問答無用といえそうなくらいに。応対のしようがなくて困ったことを憶えている。
 ご本をいただいては感想を書いて送るこの時期、連城作品に対する評判は着実に高まっていった。しかし、連城さんの態度は変わらなかった。たとえるなら、いつもこちらの近くにやってきて、気軽に語りかけてくださった。それにくらべると、こちらはいかにも情けなかった。大学になんとかすべりこんでミステリ研にはいった僕は、二、三度じかにお目にかかる機会があったにもかかわらず、挨拶すらうまくことばにならなかった。そもそも話をするのが得意でなかったせいもあるだろうが、考えるに、当時の僕がなんとか口にできた唯一の話題は、作品の感想だったのだと思う。だがそれは、すでに手紙で一生懸命につたえている。では、ほかになにを? 経験と想像力が圧倒的に不足していた僕は、呆然と立ちつくすのみだった。
 そして、大学三年の夏がやってきた。八四年、連城さんは『恋文』(新潮文庫。現在は『恋文・私の叔父さん』と改題)で上半期の直木賞を受賞した。これを機に、ミステリに興味のない読者にも人気がひろがった。表題作が映画化されたこともあり、連城さんはマスコミにひっぱりだこになった。けれども、渦中のご本人は、やはり変わらなかったような気がいまはする。僕はあまりいいとは思わないんだけど、と独りごちながら対応されていたと推測するのは、ロマンティックな願望のなせるわざとばかりもいえないだろう。
 うけとめきれなかったのは、この僕のほうだ。同書に収録された「紅き唇」がとても気にいったものの、表題作のよさが当時わからず、そちらばかりをもてはやす世間の空気から取り残されていた。自分の大好きな作家が手のとどかないところへ連れていかれるような不安に取り憑かれていたのかもしれない。それやこれや、心の整理がつかないままに手紙を書きだしたのがいけなかった。すなおに、おめでとうございます、のひとことが出てこず、すごくいやな調子で連城さんのこれからを皮肉るようなことばを書きつけてしまった。それをまた、そのまま投函したのだから弁解のしようがない。
 こちらの混乱を察してくださったのだろうか。連城さんからは、賞をとっても舞いあがらないようにします、といった趣旨のはがきがとどいた(まさかフロイト的な抑圧が作用したわけでもあるまいが、このはがきが発見できず、文面については記憶で書いている)。以後も二年ほどはご本をいただいていたものの、居心地が悪そうにしている僕の様子が文面からつたわったのだろう。やりとりは、遠慮をするようにいつしか跡絶えた。

 結局、連城さんにはお詫びを言わずじまいになってしまった。八六年に東京創元社に就職して編集者となったので、いつか機会があるかもと考えていたが、自分から動かない人間にそんなチャンスはめぐってこない。二〇〇〇年代にはいって、体調がすぐれないらしいと耳にするようになり、よほど謝罪の手紙を出そうかと思ったときにも、かえってご迷惑ではという懸念が消えず、蛮勇をふるうことはできなかった。そして一三年、連城さんが亡くなった。どんなに後悔しても手遅れだ。そう骨身にしみた。
 心残りはもう一点ある。『六花の印』の巻末に書いたので詳しくはそちらを見ていただきたいが、一九八〇年代後半以降、未読の作品をたくさんつくってしまった。それが、ずっと気にかかっていた。どんな仕事をなさっていたか興味がないのか、とりにいく宿題があるだろう、と感じていた。
 二〇一四年の晩秋に、連城三紀彦の傑作集を編む気はありませんかと、すでに退職して久しい古巣から打診されたときに、すぐにこれらのことを思い出したわけではない。だが、ひきうけて短編を読む作業をすすめるにつれ、これは恩返しだという気持ちは深まっていった。かつて熱狂したものも、勘どころのつかめなかったものも、等しくいまの自分の目で読みなおすこと。そして、地図をもたずに初読の作品群のなかへ散策におもむくこと。それはつまり、連城さんとの来しかたを見つめなおすことにほかならない。そうして更新された思い出をかたちにできて、はじめて連城さんにお詫びをつたえはじめることができる。
 いうまでもなく、できあがった『六花の印』『落日の門』は、まずなによりも読んでくださるかたのための本であってほしい。連城三紀彦という作家の本領がすこしでもつたわるしあがりになっていたら、不肖のファンにとってこれ以上の喜びはない。
 連城さんはそれでもやはり、僕はそんなにいいとは思わないけど、とおっしゃるかもしれないけれど。