エリー・アレグザンダー『ビール職人の醸造と推理』

越智睦/訳者あとがき

 シアトルから車で二、三時間の距離に実在する小さな町、レブンワース。ここは、ドイツのバイエルン地方に似た町並みが広がる、ビールで有名な観光地だ。そこで夫とその両親とともに町一番のビール醸造所兼パブを切り盛りするスローン・クラウス。里親のもとを転々として育った身寄りのない彼女だが、十五年前に夫と結婚して以来、家族仲良く暮らしてきた。ところがある日、夫の浮気が発覚する。そこで、お世話になった義理の両親の店を離れ、心機一転、町に新しくできた小さなビール醸造所兼パブで働きはじめることに。ビールを使ったおいしい料理を提案したり、新しいクラフトビールを開発したりと、経験を積んだビール職人として腕を振るうことで、スローンは夫のことを考えまいとしていた。しかし、大成功に終わった店のグランドオープン翌日、醸造所で死体が発見されて……

 クラフトビールの醸造所を舞台にしたミステリの新しいシリーズをお届けします。本書には、IPAやエール、スタウトなど、さまざまなビールが登場しますが、それに加えて、ビールの醸造所ならではの専門的な設備も出てきますので、まずは一般的なビールのつくり方から簡単にご紹介したいと思います。

 ビールの主な原料は、麦芽、ホップ、水です。まず、大麦を発芽させて麦芽をつくります。次に、その麦芽を粉砕し、温水とともに仕込槽で煮ます。これを濾過して透き通った麦汁をつくったあと、ホップを加えて煮沸。それが終わったら、今度は麦汁を冷やし、酵母とともに発酵槽に移して、発酵の工程に入ります。ここで、麦汁中の糖がアルコールと炭酸ガスに分解され、ビールのもととなるわけです。そのあと、ビールのもとを貯酒槽に移し、低温で数十日間熟成させます。それを缶や瓶、樽に詰めたら完成です。
 いかがでしょう? 意外にシンプルではありませんか? そのせいか、日本よりクラフトビールづくりが盛んなアメリカには、自家醸造者(ホーム・ブルワー)なる、ビール好きが高じて自宅でビールをつくるようになった醸造者も多く、百万人を超えるとのこと。ちなみに、本書の主人公、スローン・クラウスの新たな勤務先である〈ニトロ〉の経営者もそんなホーム・ブルワー出身です。

 本書の魅力は、なんといってもビールでしょう。ビールについての知識が惜しみなく紹介されているうえに、おいしそうなビールが次々に登場します。何を隠そう、訳者はドイツのミュンヘンで開かれるビールのお祭り、本家本元のオクトーバーフェストにも参加したことがあるほどのビール好きなのですが、そんな人間にとって、本書はまさに夢のような本でした。おかげで、翻訳作業は終始、ビールを飲みたくなる衝動との闘いでしたが。
 とはいえ、訳者のようなビール好きでないと作品を楽しめないというわけではありません。作中には、グルメ垂涎のめずらしい料理やデザートが登場します。さらに、新しい店を一からつくる面白さを主人公と一緒に味わえるところも本書の魅力です。スローンは、新たに働くようになった小さな店で積極的にアイディアを出し、店の立ち上げに大きく貢献します。
 そして、そのスローンがまた応援したくなる人物なのです。冒頭で記したとおり、里親のもとで育った天涯孤独な女性なのですが、幼い頃に苦労したせいか、スローンには浮ついたところが一切ありません。ひとり息子を育てる母親として堅実でしっかりしており、好感が持てます。

 著者のエリー・アレグザンダー(別名義にケイト・ダイアー・シーリーがあります)は、本書の舞台と同じアメリカ太平洋岸北西部の出身です。お菓子づくりが趣味で、このシリーズのほかに〈ベイクショップ・ミステリ・シリーズ〉という、焼き菓子店を舞台にしたコージー・ミステリも執筆していて、現在九作目まで出版されています。

 一方、ビール職人スローン・クラウスが活躍する本シリーズは、二作目The Pint of No Returnが本国で出版されており、今度は、オクトーバーフェスト開催中のレブンワースを舞台に物語が繰り広げられます。地元のサクランボを使ったビールの新作がお披露目される中、ドキュメンタリー映画の撮影のためにレブンワースを訪れていた撮影チームのひとりが殺される事件が発生して……という流れなのですが、日本でもご紹介できればと期待しております。

 ビール好きな方はどうぞビールを片手に、そうでない方はコーヒーを片手に、南ドイツのような町並みが広がるレブンワースの物語をぜひお楽しみください。