永久物語運動体としての『銀河鉄道の夜』
牧 眞司 MAKI shinji



 語り手の「ぼく」は十六歳、現代の日本に暮らしていた。この「現代」は私たちが生きている世界ではなく、メディア管理庁(通称、メディ管)なる国家機関のもとで極右的な言論統制が敷かれ、青少年を体制馴致する教育がなされている「もうひとつの日本」だ。とはいえ、政府が標榜する「思い出そう、美しい日本」なるスローガンといい、総理大臣の顔を大写しにした意見広告のポスターといい、メディ管がおこなっている文学作品の恣意的な――国家権力に都合のよい――解釈による大衆の誘導といい、民主主義を踏みはずして急速に没落しゆくどこかの醜悪な国家のカリカチュアだ。
 そんな現代から、ぼくは昭和八年の岩手県花巻へと迷いこむ。屋根にトロリーポールを載せた馬面(うまづら)電車、車内は冷房もなく、素肌に浴衣をまとっただけなど裸も同然の乗客がひしめいている。ぼくは即座に、自分がいままで生きてきた世界との異質さに気づく。言葉では説明できないものの、はっきりと「時代の肌ざわり」が感じられる。
 「時代の肌ざわり」とは、じつに言い得て妙だ。一般にTV番組などで過去を振り返るときは、通信機器や普段の持ち物、流行語や意匠、習俗、文化、思潮など、象徴的な事物を取りだしてみせる。しかし、自分の印象として思い起こされる過去は、そうした要素に分解されつくせない感覚の総体としてある。それこそ空気の匂いが違う、世界を照らす光が違う、それが「肌ざわり」だろう。もちろん、それは個別の感覚であり、私には私の、あなたにはあなたの、二〇〇〇年代の肌ざわり、一九九〇年代の肌ざわり、八〇年代の肌ざわりがあるはずだ。人間が面白いのは、たとえ自分が生まれていない時代でも、過去の記録や物語を通じて、その時代の肌ざわりを持ちうるところだ。
 そして、フィクションを読む楽しみも、究極的にはこの「肌ざわり」に行きつく。評論でも感想でもいいが、ある作品の印象を言語化するとき、ストーリーやキャラクターや設定、もしくは構成や文体、SFの場合だったらアイデア、ミステリの場合ならトリックなどの要素を取りあげて語ることになる。しかし、言うまでもなく、読んでいる最中にはそうした要素にいちいち還元するのではなく、作品そのものの総体として感じている。読む行為そのものは、文芸作品ならば目で文字を追い、映像作品ならば視覚と聴覚が働くのだが、読者の印象における作品世界は嗅覚・味覚・触覚もふくめた感覚の総合体として立ちあがる。あなたが相応の読書家ならば知っているはずだ。読書体験の至福においては、あたかも自分が作品世界を生きているように感じられることを。
 本書『カムパネルラ』「プロローグ」は、次の一節で締めくくられる。

これから先はぼくたちの『銀河鉄道の夜』の物語だ。

 ぼくたちとは、もちろん、主人公のぼく自身とぼくがすでに出逢った/やがて出逢うほかの登場人物のことだが、同時に、山田正紀と私たち読者一人ひとりのことでもある。小説家としての山田正紀が発した「いまから宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を再話する」宣言とも取れるし、読者としての山田正紀が朋輩(ほうはい)たちへ向けた目配せとも取れる。後者だと考えると、もともとの『銀河鉄道の夜』で主人公ジョヴァンニが友人のカムパネルラに言った「ぼくたち、どこまでも一緒に行こうねえ」の言葉にも呼応する。作品を能(よ)く読むのは、身をもって作品世界を生きることであり、終点のない旅をどこまでも行くことである。
 この解釈は情緒的すぎるだろうか? 山田正紀が一筋縄ではいかないのは、そうした情緒性を潜ませながら、さりげない手つきでクレバーな仕掛けを施しているところだ。「プロローグ」が終わり、次のページに開幕する新章「ジョバンニ」は、こんなセンテンスから始まっている。

 これは宮沢賢治自身、彼の書いた『銀河鉄道の夜』と、その登場人物たちであるジョバンニに、カムパネルラ、『銀河鉄道の夜』を愛してやまなかった母、それにぼくの物語だ。

 プロローグの結びの文章を、より詳しく繰り返しているだけにも思えるが、フィクションの語りとしてはここになにがしかの段差が設けられている。「プロローグ」は枠であり、「ジョバンニ」以降は枠内に入っているといってもよい。しかし、よほど注意深い読者以外は、段差を意識せず踏みこしてしまい、あとになって「そうだったのか!?」と自分の額を叩くことになる。まあ、気づかずに読んだとしても、なんの支障もないのだけれど。
 ひとつつけ加えておきたいのは、この段差の予兆のように作品の冒頭に配された、天気輪(てんきりん)の柱の鮮烈さだ。ぼくは東北新幹線で出かけようという早朝、空に天気輪の柱を見たように思う。天気輪とは『銀河鉄道の夜』で言及される気象だが、どのようなものか具体的な描写はない。誰も知らない天気輪の柱だが、その印象は忘れがたい。ぼくは、賢治の故郷の花巻が、その天気輪の柱のもとにあると思っている。実在しないものを、作品のひとつのキーイメージとして取りこむ。これは山田正紀の魔術だ。

 さて、『カムパネルラ』の物語は、ぼくが花巻へ向かうところからはじまる。賢治の研究家だった母は、自分の遺骨を、賢治ゆかりの豊沢川に撒くよう言い残したのだ。しかし、駅のホームでふたりの男に呼び止められる。ここまでが「プロローグ」で、物語内のできごとはいったん中断され、つづく「ジョバンニ」では、まず賢治の人生と作品について、そして『銀河鉄道の夜』をこよなく愛した母の追想が語られる。
 「もうひとつの日本」はあからさまな思想統制のほか、私たちの世界と異なっているところがある。それは『銀河鉄道の夜』が第三次改稿版までしか確認されていないことだ。しかし、母は第四次稿の存在を確信し、散逸してしまったであろうその原稿をまとめるため、地道な調査をおこなっていた。それがついに成し遂げられなかったのは、メディ管の横槍が入ったからだ。第三次稿は自己犠牲の精神を高らかに謳った内容で、民衆の管理を目論む政権にとっては都合がいい。その政治利用のためには、『祈り』をテーマにした第四次稿は邪魔になる。結局、母はメディ管に連行され、長期拘留によって健康を害し、そのまま亡くなった。
 新幹線で花巻についたぼくは、タクシーで目的地である豊沢川近くの大沢温泉へ向かう。タクシーを降りてどこかに骨壺を置き忘れたことに気づくが、時すでに遅し。タクシーは走りさってしまい、ぼくは豪雨のなかを走ったあげくに、不思議な体験をする。目の前が明るくなり、天気輪の柱を見たように思うと、激しい音に見舞われる。一瞬意識を失ったぼくが気づくと、そこは昭和八年の世界だった。もちろん、ピッタリと年が特定できたのは馬面電車に乗り合わせた乗客が携えていた新聞の日付を見たからで、それまでは「時代の肌ざわり」が歴然と違うと感じていただけだ。ちなみに、ぼくが元いた現代では、馬面電車、つまり狭軌(きょうき)の花巻電鉄はとうに廃線になっている。
 いまは昭和八年九月十九日。正確な日付を知ったぼくは、すぐにこう考える。歴史的事実として、賢治が肺炎で亡くなったのは昭和八年九月二十一日。先回りをすれば助けられるかもしれない。というのも、賢治の症状が悪化したのは、九月二十日夕方に訪ねてきた見知らぬ男に長時間にわたって応対したせいだと、母に聞かされていたからだ。それを阻止すればいい。
 過去の改変。SFでは繰り返し取りあげられてきた題材だ。もちろん、山田正紀がいまさら、ありふれたタイムパラドックスものを書くはずがない。そこらへんは、作中のぼくも自覚的で、「タイムパラドックスなんか馬に喰われてしまえばいい」とさえ言い放つ。
 物語は思わぬ方向へと進み、常識では説明のつかぬことが立てつづけに起こる。「昭和八年の花巻=こちらの世界」に入りこんで以降、ぼくが遭遇する謎を、以下に箇条書きしてみよう。
 (1) ぼくの染めた金髪を見た者はことごとく、ぼくを「ジョバンニ」だと思いこむ。なぜ、ひとびとはそういう姿の人物をジョバンニと認識するのか?
 (2) ぼくが馬面電車に乗りこむ前、空に閃光を見たが、通りすがりの人は「雨、風だけで、雷がなかった」と証言する。だとすれば、あの光は何だったのか?
 (3) その閃光の光量を頼りに、ぼくは携えていたスマホで馬面電車の写真を撮ったのだが、あとで確認すると、車両の屋根に生首が乗っている。しかし、ぼくは不思議と恐ろしくなく、むしろ懐かしさに似た感情を覚える。どうしてか?
 (4) 駅に電車が到着すると、どこからともなくあらわれた数人の男が、屋根の首を取ろうとする。しかし、やはりどこからともなくあらわれた巡査たちに追い払われてしまう。何が起こっているのか?
 (5) ひとびとが電車の屋根から生首を降ろそうとしているとき、空が急に暗くなり、跨線橋のうえに、全身をぴかぴか光らせた子どもがあらわれる。その姿は、風野又三郎ではないか。なんでこんなところに?
 (6) 宮沢家にたどりついたぼくは、賢治が五年前に亡くなったと知らされる。別な時間線か? ぼくがタイムスリップしたことの副作用のようなことか?
 (7) 今日は賢治の六回忌だともいう。六回忌なんて言葉をぼくは聞いたことがない。話を聞かしてくれた男に訊ねると、彼もそんな習慣は知らないという。ただ、この六回忌は、宮沢家の誰もが「どうしても営まずにはいられない気持ちに駆られて」おこなっている。この不可解な心境は、何に由来するのか?
 (8) 賢治が亡くなっているいっぽう、その二歳下の妹のトシは生きている。歴史的事実によれば、彼女は大正十一年に、二十四歳の若さで他界しているのだが、この食い違いはなぜだろう?
 (9) ぼくが宮沢家の店先(賢治の生家は質屋だった)でトシとやりとりをしている最中、壁掛けの電話が鳴る。聴話器を通して伝えられた話に、トシは青ざめ、慌てて家のなかへ駆けこむのだが、彼女が去り際に呟いた言葉は、ぼくにはこう聞こえた。「カムパネルラは殺された……」。聞きちがいだろうか?
 『カムパネルラ』「プロローグ」「エピローグ」を別にすると、四章構成で、以上に列挙した謎はすべて第一章「ジョヴァンニ」で提示されたもの。
 ちなみに、風野又三郎が姿をあらわすくだりは、ぼくが見聞きしたままを綴った流れのなかで継ぎ目なく語られているが、宮沢賢治「風の又三郎」の文章がまとまってまじっている。山田正紀『カムパネルラ』の空間に、宮沢賢治「風の又三郎」の空間がいきなり融合し、ぼくが嘉助(「風の又三郎」の語り手)に憑依{ひようい}してしまったような、かなり異様なテキストだ。
 第二章「宮澤さそり」に入ってからも、さらなる謎が畳みかけられる。さそりはトシの娘の名前だ(言うまでもなく、歴史的事実ではトシに娘などいない)。人名としては異様だが、『銀河鉄道の夜』のなかのエピソード「蝎(さそり)の火」に由来した命名だという。トシと入れ替わりのタイミングで、ぼくの前にあらわれたさそりは、ぼくを見て「ざしき童子(ぼっこ)のジョバンニでねえか」と訊ねた。またしてもジョバンニ呼ばわり。しかし、ぼくの本名は、物語のどこにも記されていないのだ。
 それにも増してスリリングなのは、「蝎の火」はほんらい、賢治が妹トシの死に触発されて書いたということだ。

 ぼくが違和感を覚えたのは――
 宮沢トシさんが生きているのだとしたら、どうして宮沢賢治はそれを『銀河鉄道の夜』に書き残すことができたろう、ということだ。
 もしかしたら宮沢トシが早逝しなくても『銀河鉄道の夜』それ自体は書かれることが可能だったかもしれない。
 けれどもトシさんの早逝がなければ「蝎の火」のエピソードが書かれることは絶対になかったはずなのだ。そのことは確信をもって言える。

 実際、こちらの時間線でも『銀河鉄道の夜』は書かれていた。ぼくは宮沢家の土間をあがってすぐのところに据えられた本棚に、数冊の『銀河鉄道の夜』を発見する。奥付を見ると出版は昭和六年九月となっている。こちらの時間線では、賢治の死の三年後だ。私家版であり、編纂、宮澤さそりとも記されている。不思議なのは、いま、ぼくの目の前にいるさそりは、どう見ても十二、三歳。つまり、私家版『銀河鉄道の夜』が出たときは、まだ十、十一歳という計算になる。
 山積みになったあまたの謎を、ぼくは、そして読者たる私たちは解かなければならない。そう考えると、かなり複雑なSFミステリーだ。しかし、そうした知的パズルを楽しむ余裕もなく、ぼくは苦境に直面する。トシを青ざめさせたカムパネルラ殺し。その重要参考人として警察はジョバンニを探しているのだ。そして、ここでジョバンニとされているのは、ほかならぬぼくだ。トシに至っては、ぼくを指さして「この人は犯人なのだから」と決めつける。
 そこから先の物語は、怒濤のごとき急展開の連続だ。それまで提示された数々の謎が有機的に結びつき、より大きな謎が立ちがる。
 『カムパネルラ』「風の又三郎」のテキストがふいに混じりいるくだりがあったことは先述したとおりだが、カムパネルラ殺人事件にぼくが関わるにつれて、いっそう微細なかたちで『カムパネルラ』に『銀河鉄道の夜』のテキストが織りこまれていく。このテキストというのが、物語の語り手のぼくが馴染んでいる第三次稿ではなく、散逸したはずの第四次稿のテキストなのだ。ぼくは第四次稿が『祈り』をテーマにしたとだけ母から聞かされているのみで、テキストの子細は知らない。そのズレが違和感をもたらす。
 たとえば、ぼくの知っている『銀河鉄道の夜』では、ジョバンニはカムパネルラと友達になりたがっている設定だった。しかし、この世界でジョバンニとカムパネルラを知るひとたちは、ふたりは幼なじみだったと証言する。これは第四次稿の設定なのだ。
 私たち――つまり山田正紀が『カムパネルラ』という小説を書いたこちらの世界に暮らしている読者――が、普通に手にできる現行本は第四次原稿だ。だから、ぼくが抱く違和感を、読者は逆から感じることになる。

 山田正紀はこれまでも、石川啄木の未発表作品をめぐる『幻象機械』、バイロンやメアリー・シェリーが活躍する『エイダ』、O・ヘンリー「最後の一葉」を隠し味のように用いた『ここから先は何もない』など、実在の文学者や先行作品をモチーフにした作品を発表してきた。また、『神狩り』『神狩り2 リッパー』『宝石泥棒』『螺旋の月 宝石泥棒Ⅱ』のように、たんなる物語上の続編ではなく、相互参照的な対となる構成もおこなっている。さらに注目すべきは、『神獣聖戦Ⅰ~Ⅳ』から『神獣聖戦 Perfect Edition』への大胆な作り替えだ。ここでは、通常の改稿の域をとうに超えてしまっている。
 SFの領域では、H・G・ウエルズの「時の探検家たち」「タイム・マシン」、アーサー・C・クラークの『銀河帝国の崩壊』『都市と星』、フィリップ・K・ディックの『アルベマス』『ヴァリス』などが、有名な異稿(ヴァリアント)として思い浮かぶ。ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」やグレッグ・ベア「ブラッド・ミュージック」など、短編を長編化したケースまで含めれば、枚挙にいとまはない。また、飛浩隆『零號琴(れいごうきん)』のように、雑誌連載を単行本化するときに徹底的な改稿を加えて、まったく違った作品にしてしまう例もある。
 作者がテーマへと向かう姿勢や、創作過程をうかがううえで、異稿{ヴアリアント}の比較は大きな足がかりとなる。文学研究における、考古学や文化人類学のフィールドワークに相当する活動と言ってもよかろう。
 『カムパネルラ』が秀逸なのは、『銀河鉄道の夜』の第三次稿と第四次稿を静的な比較対照としてではなく、動的な場として捉えたことだ。

 『銀河鉄道の夜』という作品がいまも未完であり、はるか無限遠の完成の一点をめざして――だぶん永遠に――運動しつづける、一種の「<u>永久物語運動体</u>」のようなものだからなのだという。
 それだから、何千人、何万人もの少年少女たちの無意識の欲望、尽きせぬ情動を貪欲に汲みあげながら、決壊することもなければ、揺らぐこともない。じつに驚くべきほどの強靱さを誇り、しかも融通無碍の柔軟さに恵まれている……こんな物語世界は他にない。こんなテキストは他には絶対ありえない。

 これは語り手のぼくの言葉であり、だから『銀河鉄道の夜』が特権視されてしまうのだが、多かれ少なかれ作品というのは未完成を運命づけられている。おそらく山田正紀自身が希求するのは「永久物語運動体」としての作品だろう。いや、希求というより覚悟かもしれない。永遠の運動のなか、作者は作品をコントロールする神などではなく、むしろ「永久物語運動体」を駆動させる部品や動力の一部――個々の読者と同等の――として組みこまれてしまう。
 グレッグ・イーガンに「ルミナス」という短編がある。この作品と続編「暗黒整数」では、それぞれ排他的な数論によって成りたつふたつのリアルがあり、互いの数論の不備を証明すべく演算を繰りかえしている。いわば、宇宙の真理の陣取り合戦だ。イーガンが数論を題材に描いたことを、『カムパネルラ』ではテキストでおこなっている。人間はテキストの外側に立っているのではなく、テキストに記述される側だ。ただし、記述内容によってテキストが形成されるので、作中人物は一方的な操り人形ではなく、ほんの細やかな自律性ながらその言動がテキストへと影響を及ぼす。
 語り手のぼくは山田正紀が書きつつある『カムパネルラ』の登場人物としても、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の主人公ジョバンニとしても、テキストとダイナミックに関わっていく。ぼくがもといた世界のメディ管は、テキストを恣(ほしいまま)に改竄(かいざん)しようとするが、テキストに内在する力学によって思うがままにならない。その力学のしたたかな焦点として、ぼくがいる。

■牧眞司(まき・しんじ)
1959年東京都生まれ。東京理科大学工学部工業化学科卒。SF研究家・文芸評論家。書評や文庫解説を多数手がける。著書に『世界文学ワンダーランド』ほか、訳書にマイク・アシュリー『SF雑誌の歴史 パルプマガジンの饗宴』『SF雑誌の歴史 黄金期そして革命』、編著に『ルーティーン 篠田節子SF短篇ベスト』『柴野拓美SF評論集』、また大森望との共編で『サンリオSF文庫総解説』がある。