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 ジェラルド・カーシュには、カームジンというシリーズキャラクターの他にも、どうやらレヴァント人らしき酔いどれ新聞記者のボヘムンド・レイモンドが出てくるシリーズがあります。のべつ酔っぱらっていながら、タイプライターを打ちまくり、予言のような記事を書き上げてしまう。日本語版EQMMに「呪われたタイプライター」「ピンクの象事件」のふたつが訳されています。東方のエキゾチズムを奇異なキャラクターの拠り所としている点は、カームジンと共通しています。この二作では、よりホラのスケールが大きく、タイプライターに細工をするというアイデアが愉快な「呪われたタイプライター」が読ませます。
 前回、私がカーシュを知ったのは、旧・奇想天外のカーシュ特集だったと書きましたが、それ以前の、ミステリマガジンで読んでいたようでした。最初は71年9月号の例のショートショートフェスティヴァル――難解な作品が並んだことで、中学生だった私を圧倒しました――の中の「胸のうち」で、カーシュもひとつはそういう作品を書いていたのでした。以後、ショートショートはいくつか訳され、また奇想天外の特集も、ショートショートが混じっていました。「恐怖の人形」は腹話術師と人形というひとつの定型を拡張させたものでしたが、アイデアとしては、それよりも平凡だけれど「たましい交換」の方が、結末に余韻というものがありました。アイデアとしてはさらに平凡な作品ながら「肝臓色の猫はいりませんか」の、捨てても捨てても帰ってくる猫のしつこさの方が、小説として非凡なことは、留意した方が良いかもしれません。カーシュのショートショートの中で、私がひとつ選ぶなら「わかるかい?」になるでしょう。女にはジョークがわからないという、語り手の独断から話は始まります。同じ汽車に乗り合わせた、黒髪の美女は、心配事でもあるのか。神経質そうにしている。男は話しかけ、やがて、その日執行された死刑囚の話題になります。冒頭で語り手があげた、女にはジョークがわからないという例が、男の身勝手なものであったように、同じような男のひとりよがりが、行きずりにすれ違った彼と彼女の間に、波をたてる。ユーモアというものの持つエゴイスティックな側面を切り取ってみせた、いかにもショートショートという一編でした。
 異色作家短篇集の21世紀版のアンソロジー第19巻『棄ててきた女』に採られたのが「水よりも濃し」です。遺産をたてに、暴君のようにふるまう伯父とその甥というのは、イギリス小説の定番と言ってもいい設定ですが、どこかの誰かの話ではなく、甥自身の語りになっているところが、むしろカーシュらしからずと感じます。植物的で覇気に欠ける甥(恋人からはへなちょこと言われる)に、男らしさや自己主張、果ては自分への反逆をさえ期待する伯父さんが、自分の顔色ばかりうかがう甥の態度に対して、いちいち援助の年額を増減させるのが面白く、甥が自分のことは棚に上げて、愛人のダンサーに芸術のためには、自ら要求し主張しろとたきつけるのが、また、よろしい。前半ははなはだ快調です。ただし、後半のクライムストーリイになってからは、アイデアに魅力を欠き、しかもいつものホラ話めいたところがない分、リアリズムに接近した筆が、逆に説得力を失わせていました。似たようなことは「狂える花」にも言えて、こうした疑似科学的な装いのアイデアは、カーシュには向かないのではないでしょうか?
 カーシュの本領は「黄金の河」のような、誰ともしれない人間が、どこともつかない異郷で、なんとも言いようのない経験をする話を、また聞きのまた聞きのようなナレーションで語ってみせるところにあります。「壜の中の手記」は、そういうカーシュの特徴が良く出た一編であると同時に、誰ともしれない人間にアンブローズ・ビアスを持ってくるという、一度かぎりのハッタリめいたアイデアを付加することで、MWA賞を射止め、カーシュの代表作と――少なくとも、もっとも著名な作品、カーシュの名があがるときに引き合いに出される作品となりました。同時に、それはカーシュがイギリス流の奇譚の末裔であり、その血が現代のクライムストーリイにも流れていることを示してもいたのです。

 さて、「決断の時」以後の、スタンリイ・エリンの足取りについて、見ておきましょう。翌56年に「専用列車」という、エリンにしては平凡なクライムストーリイをひとつ書いて、同じ年の「ブレッシントン計画」は二度目のMWA賞をエリンにもたらしました。第二短編集の表題作となった(邦訳は『九時から五時までの男』となっていますが)、エリンの代表作のひとつです。組織的な殺人組織から勧誘の話が来るというのは、ひとつのパターンとなっているでしょうが、組織が近代的なビルにオフォスとファイルキャビネットを構えている――そのことに、主人公が少々驚く――というのが、ほぼ同時期の『第八の地獄』にも共通する、同時代のアメリカを観察するエリンの眼が光るところです。ビリイ・ワイルダーの映画「アパートの鍵貸します」のオフィスのようなイメージでしょうか。胡散臭い探偵稼業も、秘密結社めいた殺人組織も、企業化されるという発想が、そこにはあります。主人公を誘惑する男が、自分たちすべての存在が機械だと言い切ってしまうところも、そして、そのことに主人公が異をとなえられないことも、ヴェトナム戦争直前のアメリカ社会を映しているように思えます。話そのものは、先にも書いたように、ひとつのパターンかもしれませんが、不安定な心理状態のままに置かれた主人公が、自分だけはあてはまらないと信じることだけに慰安を求める。そこまでの射程を持つのが、エリンならではでした。
 続く57年の「神様の思し召し」と58年の「いつまでもねんねえじゃいられない」は、宗教による治療と、犯罪被害者が被害者であるがゆえの二次被害に苦しむ――しかも、事件解決という大義名分の下に、被害者自身も自らを責めるという、同時代ないしは現在でも通じるモチーフをあつかっています。前者が宗教ビジネスとしての企業化――またしても――を視野に入れているのは当然ですが、信仰もあり治癒の経験もあるがゆえに、宗教による治癒を一片も疑っていない主人公の一人称で書いたところがミソでしょう。これは意外に珍しいことなのですが、スタンリイ・エリンは、キャリアの初期から一人称と三人称の使い分けが出来たのみならず、かなり巧みに使いわけています。後者は、いささか警察の捜査が強引な気がしますが、当時のスタンダードはこういうものかもしれません。しかし、真犯人の在りようは、この形がいいのかどうか疑問なしとしません。ただし、眼鏡のエピソード――主人公と現実を隔てる小道具になっている――に短編巧者の面目躍如で、したがって、ラストはこうなります。
「神様の思し召し」に始まる、特異な個性の語り手という手法は、「蚤をたずねて」では、まだ珍しい職業(蚤のサーカス)に憑かれた男といった程度ですが、「倅の質問」になると、親の代からの死刑執行人――本人いわく電気椅子係――が、息子に跡をつがせようとして……という話。死刑執行人のどこが悪い、有罪を決定する陪審員や死刑を決める判事と、電気椅子のスイッチを入れる人間の間に、差はあるのかと、読者に迫る語り口は迫力があります。瀬戸川猛資は、この短編をエリンのベストと評価しています。私はユーモアに欠けるのが残念で、かつ、この結末はこの短編を活かしていないように思い、佳作ではあるものの、瀬戸川猛資ほど買う気にはなれません。
 異色といっていいのは59年の「運命の日」です。小市民と言っていい主人公の「私」は、その朝、抗争の果て殺されたギャングの記事を新聞に見つけます。写真の中の死体は、35年前――12歳のときを最後に二度と会うことのなかった幼なじみのものでした。ふたりはブルックリンで育ち、主人公がマンハッタンに引っ越すことで疎遠になったのですが、その引っ越しの前日に、事件が起きていたのです。近所にパッカードを乗り回す派手な男がいて、これはギャングと読者には分かりますが、一度、車に近づこうとして怒鳴られたという伏線がある。その日、ふたりは、その男が諍いから別の男に暴力をふるうのを目撃してしまう。主人公はさっさと家に帰りたいのですが、幼なじみは警察に行くといってききません。仕方なくふたりで警察に行くと、ろくに取り合われませんが、男の名前を出すと、巡査部長の態度が変わって――ここ、巡査部長が問題のギャングとつるんでいると暗示させるのが巧みです――問題のギャング本人と、幼なじみの父親のふたりが呼び出される。告発した男の子は孤立し(ギャングからは車のことでかつて怒られた腹いせだと言われる)、父親も味方になってはくれません。
 無邪気な子ども時代の終わりの一日を、ブルックリンの細かな描写(エリンの実体験が反映しているのでしょう)いっぱいに描いて、暴力沙汰を警察に告発した少年が、それゆえに35年後にギャングとなって抗争の果てに死ぬという道筋を歩き始めるに到る。その直球のほろ苦さは、意外とエリンらしからぬものですが、今回読み返して、もっとも心に残ったのは、この一編でした。

 64年の「ロバート」は初出がEQMMではなく、そのせいか邦訳も遅れました。アンファン・テリブルものの逸品で、定年まであと二年という女教師を、巧みに挑発するのが、見事です。授業中に注意散漫になっていたロバートに「なにを考えていたの」と尋ねると「先生が死ねばいいのに」と思っていたという不穏な答えです。ところが、これが校長先生の前では、彼女に「あなたの考えていることはちゃんとわかっていますよ。わたしが死ねばいい、わたしを殺してやりたいと思っているんでしょう?」と言われたと、正反対の証言をするのです。彼女の言動をことごとく逆用して、教師の妄想の被害者ロバートが完成します。そして、結末で、さらにその恐ろしさに奥行きが与えられます。
「不当な疑惑」「七つの大徳」は、軽妙に書かれていて、私は落語を連想しました。「不当な疑惑」は兄弟が共謀して、遺産目当てに富豪の伯父を殺すというもの。一方がまず逮捕され、その裁判の中で、他方が犯行を自供する。次に、自供した方の裁判で、今度は最初に逮捕された方が自供する。まあ平凡なアイデアですが、やられてみると、法律的にどう咎めるかは難しい。ということを利用して、サゲが愉快な一編に仕立て上げていました。「七つの大徳」は、ある大企業の幹部候補生が、入社にあたって、七つの大罪こそは奨励されるべき徳だという経営方針を聞かされます。思わず頬もゆるむホラ話ですが、軽快に運んで、これまたサゲの面白さで勝負していました。
「九時から五時までの男」は、これが日本語版の表題作に選ばれたのも納得できるという、いかにもエリンらしい短編です。物品販売業を営むキースラー氏の一日の仕事ぶりが描かれるだけの話ですが、その仕事というのが……。前半の何気ない、妻とのやりとり――彼の妻は人が好くて、親戚につけこまれ、どうやら仕事のない甥を雇ってくれと頼まれているらしく、それに対して物品販売業なんて「生活費を稼ぐだけで精一杯」と愚痴る――や、クリーニング屋から上着を取ってきてと頼まれるエピソードが、効果抜群です。「ブレッシントン計画」ほど大がかりではなく、またアメリカ社会を直に反映しているわけではありませんが、「九時から五時までの男」も、アメリカの社会で生きていく主人公の細心のあがき――目立たぬようにという努力の涙ぐましさ!――を微細に描いて、その集中のほどを伝えるのが、クリーニングを受け取り忘れることだったという見事な結末でした。
『特別料理』に収められた作品に比べて『九時から五時までの男』の諸作品は、語り口に多様性が出てきており、また、ときに軽妙さを前面に押し出すこともありました。「運命の日」「七つの大徳」「倅の質問」といった作品は、ミステリから離れていっているようにも見えます。それでも、人間のちょっとした瞬間が示すニュアンスや無意識を巧みに描き出す腕前は、依然、健在でした。

※ EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)