解説
堺三保 Sakai Mitsuyasu


 いかなるジャンルにおいても、そのジャンルに決定的な影響を与え、その後の作品に多大な影響を及ぼした記念碑的な作品というものがある。たとえば、本格推理小説におけるクリスティの『アクロイド殺害事件』、ハードボイルドにおけるハメットの『血の収穫』、異世界ファンタジーにおけるトールキンの『指輪物語』等々……。
 本書『重力への挑戦』も、まさにそのような一冊である。本書によってハードSFにおける異世界構築の方向性が決定づけられたのだ。
 本書の舞台、惑星メスクリンは木星の十六倍もの質量を持ちながら、木星のようなガス惑星ではなく、地球や火星のような固い地面を持っている。そのくせ一回転に地球時間で17・75分という驚異的な自転速度のため、赤道に近づくにつれて地面は遠心力によって外へと引っ張られ、惑星全体がまるでソロバンの球のような扁平な形状となっている。そして両極付近では700Gという高重力でありながら、赤道付近ではたった3Gなのである。
 このあまりにも異様な異世界を探査するために訪れた地球人たちは、極地方に住む知的生命体を発見する。メタンとアンモニアに覆われた高重力の世界にも、その地に適応したさまざまな生命が繁栄していたのだ。低緯度地域を移動していたとある商船とのコンタクトに成功した人類は、メスクリン人クルーの協力を得て惑星上の探査に乗り出した。だが、重力と遠心力とがせめぎあう赤道付近には、メスクリン人たちさえ驚きの声をあげるほどの、驚異に満ちた風景が広がっていたのだ……。
 本書の特長は、一にも二にもこの驚異的な異世界の説得力あふれる設定と描写にある。地球上のどこにも存在しえない不思議な情景を、あくまでも科学的な考察を積み重ねていくことでつくりあげていくこの手法こそ、のちの多くのハードSFの規範として、半世紀も前に本書が確立したものなのだ。誰もまだ見たことのない、ただし、もしかするとどこかにありうるかもしれない、(そしてその存在可能性が科学的に裏づけられている)もう一つの世界。それは、このような手法を持つSFだけが生み出しうるものであり、惑星メスクリンこそ、そのスタンダードとしてSF史に燦然と輝きつづけるユニークな異世界なのだ。
 本書の作者ハル・クレメント(ハリー・クレメント・スタッブス)は、1922年5月30日、アメリカのマサチューセッツ州ソマーヴィルで生まれた。天文学の学士号をハーバード大学で、さらに修士号をボストン大学で、さらにシモンズ大学で化学の修士号を取得している。こうした科学的バックグラウンドが、クレメントに本書のようなハードSFに対する関心と、それを書きあげる力とを与えたのはまちがいない。
 1943年にハーバードを卒業後、米陸軍航空隊に召集され、第二次世界大戦中には第八航空団に予備役として入隊、B24戦略爆撃機の現役パイロットとして35回の作戦に参加した。また、51年には再び召集されて、ボウリング空軍基地で編隊指揮官を8ヶ月、サンディア空軍基地で技術教官を16ヶ月務め、76年に大佐の位で退役した。こうしてときおり軍務につく一方、クレメントは87年まで40年間にわたって化学の教師として高校に勤めていた。
 作家デビューは、1942年に〈アスタウンディング〉誌に掲載された短篇“Proof”で、最初の長篇は50年に発表された『20億の針』である。以降、クレメントはあくまでも兼業作家として、軍務や教職のかたわら悠然としたペースで一貫してハードSFを書きつづけたが、2003年10月29日、マサチューセッツ州ミルトンの自宅で、睡眠中に息をひきとった。享年81歳。
 アメリカのSF作家、とくにハードSF作家には、兼業作家は珍しくない(たとえばグレゴリイ・ベンフォードやデイヴィッド・ブリン、また、亡くなってしまったチャールズ・シェフィールドとロバート・L・フォワードなどがそうだ)が、クレメントはそのさきがけであり、執筆ペースも他の作家たちとくらべてずいぶんとのんびりしている。あくまでも趣味の延長線上の創作に徹しつづけたその姿勢は、翻訳家の小隅黎氏をして「ファン・ライターの最高峰」と言わしめているほどだ。
 したがって、作家としての活動期間の長さにくらべると著作数はかなり少ない(結局、教職を引退して専業作家となったあとも長篇を三作発表したにとどまっている)。作風もデビュー当時から一貫していてほとんど揺るぎがない。この確信に満ちたワンパターンさもまた、「ファン・ライター」の長所であり短所であると言えるだろう。
 さらに小隅氏は『アイスワールド』の訳者あとがきで、「(ハル・クレメントのSFは)つねに宇宙におけるふたつの知性種属の接触を基本設定としている」とも喝破しておられるが、既訳の長篇は、地球を異星人が訪れる話(『20億の針』『一千億の針』『アイスワールド』『窒素固定世界』の四作)と、異星を地球人が訪れる話(『重力への挑戦』『テネブラ救援隊』『超惑星への使命』の三作)の、二つのパターンに分類できる(ちなみに、地球人が異星を訪れるパターンの三作はすべて同じ未来史に属する作品である。『テネブラ救援隊』は本書の25年後、硫化物まじりの濃厚な大気が一瞬にして金属類を溶かしてしまうという厄介な惑星テネブラの調査に向かった地球人とドロム人の混成チームが、テネブラ人と接触するものの、同行していた子供たちが遭難してしまい救助に苦戦するという話。そして『超惑星への使命』では、それからさらに25年後、本書に登場するメスクリン人のバーレナンやドンドラグマーたちと、『テネブラ救援隊』のある登場人物を含む地球人たちが、突如として気候が変動するというこれまた風変わりな惑星ドローンの探査をおこなうこととなる。また、さらにこの未来史シリーズには、二作の短篇、“Lecture Demonstration”〔1973〕と“Under”〔1999〕も含まれている)。
 ただし、実はこの二つのパターンには大きな共通点がある。いずれも主人公たちが未知の世界を探検する〈秘境探検もの〉とでもいうべきストーリーになっているのだ。つまり、本書で地球人のラックランドたちがメスクリンを探検するように、『20億の針』『アイスワールド』などでは、異星人たちが地球を探検する様子が描かれているのである。視点人物が地球人であれ異星人であれ、自分たちの常識とは違う異質な風景に遭遇するという点では、両者はまったく同じ〈物語〉なのだ。
 これまでクレメントの作品は、「異星人たちの心理描写が人間のものと似すぎている」ことがハードSFとしては致命的な欠点であると常に指摘されていた。しかしクレメントの作品すべてが〈秘境探検もの〉であるならば、異星人たちのメンタリティが地球人と酷似していることも、ある程度計算のうちだったのではないかと筆者は考える。すなわちクレメント作品の眼目である「異質な風景に遭遇した驚愕」を効果的に読者に伝えるには、それを感じた主要登場人物のメンタリティが読者と同じ、つまり地球人と同じであることが重要なのだ。
 では、なぜそこに異星人を配するのか。地球を舞台にした作品の場合、われわれが日頃慣れ親しんでいる地球の環境は、まったく違う環境で育った生命からはどう見えるかという異化効果を狙っているためであり、異星を舞台にした作品の場合は、地球人がそのままでは立ち入れない高重力や高温などといった過激な環境を設定しているため、そこを探検できるような知性体が必要だからである(自分たちの母星ではないドローン星の探査で苦労する『超惑星への使命』のメスクリン人たちは、まさにその典型だといえよう)。クレメント作品の主眼はあくまでも〈異星人〉より〈異世界環境〉にあり、そこに登場する〈異星人〉とは、読者に代わって過酷な環境の異世界を探検してみせる代理人なのだ。
 SFファンのあいだでは、クレメントの後継者として、中性子星上での知性体の進化と地球人とのコンタクトを描いた『竜の卵』のロバート・L・フォワードの名前がよく挙がっていたが、このような観点でクレメント作品を眺めてみれば、そのもっとも忠実な後継者には、『リングワールド』『インテグラル・ツリー』などで奇抜な異世界を次から次へと構築してみせたラリー・ニーヴンのほうがふさわしいかもしれない。
 もっともニーヴンの考案する世界が、どれも大スケールで派手なビジュアルイメージを持つのにくらべて、クレメントの描く異世界は微妙でデリケートなところが特徴であり、そのぶん地味だと思われかねないところがある。たとえば、本書の中盤で、探検隊が断崖絶壁を乗り越えて大爆布へと至る場面がある。断崖だ爆布だといっても、実はたかだか二十メートルほどの高さしかない。ビジュアルを想像してみるとまったく冴えない光景なのだが、3Gという高重力のせいで地球人の目には一見たいしたこともないように見える崖が、とんでもない難所となって一行の前に立ち塞がっているという事実にこそSF的な驚きが込められているのだ。そして、その崖の先にある滝は、これまたたいした高さではないのに猛烈な勢いで水が落下しており、さらには飛び散る飛沫からその猛スピードは推し量れるのに、滝口に広がる波紋からはそれが見てとれないという、地球の常識からはかけ離れた不思議な光景を見せてくれる。これぞ、まさにセンス・オブ・ワンダーの極(きわみ)ではないか。
 本書には、このような一見地味でありながら驚きに満ちた光景が、至るところにちりばめられている。ぜひとも一行ごと一字一句ごと噛みしめるように、この考え抜かれた異世界を堪能していただきたい。

(2004年5月、2018年11月加筆)

■ 堺 三保(さかい・みつやす)
1963年大阪生まれ、関西大学卒。在学中はSF研究会に在籍。作家、翻訳家、評論家。SF、ミステリ、アメコミ、アメリカ映画、アメリカTVドラマの専門家。


20億の針【新訳版】 (創元SF文庫)
ハル・クレメント
東京創元社
2016-05-21


一千億の針【新版】 (創元SF文庫)
ハル・クレメント
東京創元社
2016-06-22