国際宇宙実験施設L2から地球に戻ったネルスは、地元グリーンランドの離島にある北極圏大学の大学院で、指導教官や人工知能と共に、知性定理の研究を進めていた。そのとき北極海の運行システムが不調になって――「ランドスケープと夏の定理」に続く第2章「ベアトリスの傷つかない戦場」。どうぞお楽しみください。
『ランドスケープと夏の定理』刊行に合わせて、期間限定Web公開です。
■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。2016年『ゼーガペインADP』SF考証、『ガンダム THE ORIGIN IV』設定協力。〈Webミステリーズ!〉でエッセイ「想像力のパルタージュ」を連載中。twitterアカウントは @7u7a_TAKASHIMA 。
ベアトリスの傷つかない戦場
Battlefield Where Beatrice Never Gets Hurt
自分の肉体が、北極海の流氷に囲まれた離島の、小さな大学の地下実験室で擬似睡眠状態にあることは知っている。今のこの自意識が、国際宇宙実験施設L2に比べるといささか――いや、実際のところ、かなり心許ない電算室で演算され続けているものだということもわかっている。
情報=演算対。それはぼくの姉、テア・リンデンクローネが開発した意識情報構造だ。 宇宙物理学者の姉は、太陽系から遠く離れた観測機のなかの情報空間で活動したり、情報になって光速で宇宙空間を行き来したりできるようにするため、この技術を十九歳から研究し始めて、ついに去年、二十七歳のときに完成させた。姉は幼少時から有名な―自他共に明らかに認める――天才なのだ。
量子ゼノン技術によって脳の量子状態が固定されると同時に、記憶情報核を取り出され、それに演算機能が付与される。情報演算対として活動したあとは、その記憶を肉体に持ち帰ることで、記憶の連続性をたもつことができる。
脳の状態を固定しておくのは、意識の時間線をふたつに分裂させないためだ。肉体と情報=演算対が異なる経験をしてしまうと、記憶切断面が合致せず、記憶情報をうまく接続できないのだ。その場合は、自我を持った存在が、肉体と情報=演算対の二つ、存在することになる。
そう感じるうちにも情報演算対となったぼくは、いま自らを感じている。自分を感じているように感じさせられている。自らを再帰的に感じられなければ、自らを操作できないからだ。
身体感覚や思考全般の機能がだんだんと足されているのがわかる。
「翠雨(すいう)」
視覚機能が付加される前にナビゲーターを呼び出す。翠雨と名付けた彼女は、一年前に大学院に進学しようと決めたときからずっと育てている人工演算知能だ。
彼女の思考パターンをどうするか試行錯誤していたとき、ぼくはまだ会社員生活を続けていて、彼女のシステムはアイスランドの首都レイキャビクの社員寮の自室にあった。アイスランド島の北西には世界最大の島であるグリーンランド本島があり、ここカフェクルベン島はその北側にある。
ぼくの会社はおおらかな社風なのか、四年目になろうというぼくを出向という立場で大学院に通わせてくれることになった。社員寮の部屋もそのまま使えるのだが、翠雨だけは大学と同じ島にある学生寮の部屋に連れてきたのだった。
彼女には自我があり、知性もあり、状況に応じて身体も構成できる。話し方などに現れる感情表現機能は――円滑なコミュニケーションのために――かなり充実したものを設計したが、その奥にあるべき感情そのものは与えていない。ぼくは疑似人格を作りたいわけじゃないからだ。
――こんにちは、ネルス。今朝も早くから実験しました。ゼノン停止は脳に負担です。
「心配してくれてありがとう。今日はこれで終わりにする。このあとバイトもあるし。で、今夜は早めに眠る」
――そうしてください。バイトというのは、毎週金曜午後六時からの《質疑応答》ですね。
「うん。じゃあ朝の続きから始めよう」
翠雨がぼくの全身体機能の付与完了を告げると、灰色の空間が際限なく広がった。遙か遠方に、絞り出された無数の絵の具のように絡まりながらも混ざり合うことなく浮かぶ立体構造が見える。中央が凹んだ赤血球みたいな形をしている。
理論地図だ。人類がこれまでに発見または考察して蓄積してきたあらゆる知見を図形化し、無限次元の超空間にマッピングしたもので、一つの色が一つの学問領域に対応する。
合図の光点が散って、目の前に翠雨が現れた。
翠雨の知的機能の基礎と外見情報は、姉の共同研究者である楊青花(ヤンティンファ)が作り上げたものだ。姉も青花も、今は地球から百五十万キロも離れた研究施設L2にいる。
制作者に似た翠雨の長い黒髪が、演算処理の優先順位が低いために、一本一本までは計算されずにぼやけたまま靡いている。服はぼくと同じ、白いTシャツに青い長ズボンだ。
情報空間内は、座標を入力することで、自在に移動できる。ぼくたちは理論地図のそばまでいきなり跳んだ。
今のぼくたちにとっては、地図全体は巨大な野球場かサッカースタジアムほどの大きさだ。
理論地図の表面には、水滴のような形をした古代からの命題素――三段論法や真理値といった大小の概念――が繰り返し変形しながら表れていた。言語哲学関連の領域だ。これまで調べてきた結果、ここが近傍の領域にくらべて、情報演算対にとって内部に入りやすいことが判明している。ぼく個人の情報構造に合っているのか、あるいは人間の知性そのものが言語的なのかもしれない。
ぼくたちは拡大率を上げ、つまり相対的に自分たちの体を小さくして、地図のなかに入っていった。観測帯域を深くして、さらに内奥の構造に入っていく。
視覚演算の負荷を減らすため――本来、理論空間は無限次元なのだが――次元数は三に落としてある。
それゆえに余った演算力は、世界中で発表される研究成果のリアルタイム解析に回している。論文の投稿速度や被引用関係を理論図形に反映することで、理論地図全体は刻々と変形し、複雑に拡大していく。ここに描かれ続ける鮮やかな図形の流動性は、そのまま人類の知的活動そのものなのだ。
可視化される理論の個数は、次元数と解像度によって変動するが、現在の設定では数千個の領域に分かれて顕在化させている。
図形をかきわけていくと、徐々に明るくなってきた。
――今朝の探索で発見した空白領域です。接触構造を定義、侵入を試みます。……ダメですね。何もできません。
ぼくは頷き、データを右手に呼び出した。ハンドドリルのかたちをしているが、たいした意味はない。雰囲気の問題だ。
――白色雑音をドリルとして使うのですか?
算術の公理とそのトートロジーからなる、自明の命題集合で作ったドリルの刃の先端には、空っぽの変数だけで作られた無垢なテンソルがコーティングされている。
彼女はドリルに触れて、仕様を読み取る。
――強引すぎるのでは。
「多少はね。用意はいい?」
――私は大丈夫。ネルス、慎重に。
目の前にある空白領域は、量子光学に対応する理論図形に隣接している。量子光学自体は前世紀から盛んに研究されている分野だ。それなのにその近くに、こんなに巨大な空白があるなんて。
空白領域は単なる空虚ではない。表面には透明な膜状構造があり、その広域対称性や速度ポテンシャルから見て、領域内部にも何らかの数理的空間が広がっているようだった。だが、ぼくも翠雨も、まったく入ることができない。理論図形だけがその表面構造に取り付き、わずかに侵入できたとしても、すぐに剥がれて落ちていく。空白領域には、手つかずの論理構造がこの地図のなかでは幾何学的構造として広がっているはずなのに。
今ぼくは、人間の作り出し、見つけ出した理論たちがどのように繋がり合っているかを調べることで、人間の知性そのものの構造を探ろうとしているのだった。その結果、もしかするとぼくたちがこれまで気づかなかったような魅惑的な知的領域も見つかるかもしれない。空白領域はその第一候補だった。
これは、本当は四年前の夏、東京の大学にある姉の研究室でやりたかった研究だった。翌年の春までかけて、ぼくは異なる知性がすべて連絡可能であることを証明した。知性定理だ。しかしそれは文字通り可能性を示しただけで、実際の連絡方法や、複数の知性が形づくるはずのメタ知性については、手つかずのままだった。
それを三年ぶりに大学院で研究しようと決めて、翠雨と共に理論地図を構成したところまでは順調だったのだけれど、空白領域の存在は予想外で、ここ二ヶ月は手詰まりなのだった。
「固いな。ドリルの刃が磨り減りそうだ」
――それは、用意していた命題データがなくなりそうということでしょうか。
「そうそう。比喩表現だよ」
翠雨は、青花の作った機能特化型AIを基にして、ぼくが研究補助用にチューンアップした。感情機能はないから、わかったふりをするような小賢しさなどはまったくない。そのほうが安心して一緒に研究できるというものだ。
直後、本当に命題データが尽きてしまった。大量の数列を流し込んで、空白領域内に勾配や回転を生じさせられればと思ったのだが、情報流は外縁部で散らされて、内部には一バイトも挿入できなかった。
――ネルス。午後五時四十分です。
「仕方ない。続きはまたにしよう。明日とか年末の土曜だけど、ここは使える?」
――指導教官から使用許可は得ていますし、電気設備の点検は先日あったばかりです。問題なく使えます。いつも通り、実験記録はネルスの部屋に、量子ゼノン転送の生体データはL2の青花に送ります。おつかれさま。
翠雨の姿が消え、ぼくの身体感覚情報の供給が止まる。
目を開くと、現実の地下実験室に座っていた。
バイトの場所は同じ理学部棟の一階、屋内のアトリウムと呼ばれる中庭だ。地上三階、地下二階の校舎の中央ロビーからすぐのところにある。見上げると吹き抜け構造になっていて、天井にはガラスの天蓋があり、四隅を丸い柱で支え、四方は廊下を挟んで講義室に面している。正方形の地面には、芝生用に遺伝子操作された苔が一面に張られている。
教員や学生のために、木製の丸テーブルやホワイトボードが置かれていて、いつでも自由に使うことができる。空いたテーブルにバッグを置いて、水筒のコーヒーを飲んでいると、背の高い男子学生が南側の玄関ロビーから現れた。
長い黒髪を後ろで束ねた彼は、ぼくなんかよりも遙かに社交的で、見かけるたびに違う女性と歩いている。
「遅れました?」
「時間ぴったりだよ」
彼はイェスパー・へーガード。ここ北極圏大学の人文学部三年生で二十一歳、哲学と倫理学を専攻している。背負っていた黒革のバッグをテーブルに置き、大学ノートや筆記用具を出して、ぼくの正面に座った。
ぼくはメガネを通して、アトリウムのカメラに《質疑応答》の開始を知らせた。ぼくの指導教官にも通知が送られる。とはいえ、キャンパスには多くのカメラがあり、講義の映像も全世界に公開されている。実験室やアトリウム、廊下のリアルタイム映像も、大学関係者なら誰でも見ることができる。
「今日で四回目だね」
「もうそんなですか。じゃあリンデンクローネさん、そろそろネルスと呼んでも?」
「別に構わないよ。今日はそのことを確認に来たのかな」
イェスパーは大袈裟に笑った。調子のいい男なのだ。
「前回の続きで聞きたいことができたんです。友人として」
「わかっていると思うけど、ここは友人同士が雑談する場所じゃない。ぼくにはバイト代が発生していて、きみだって《質疑応答》の予約枠を取って来ている」
彼はうんうんと何度も頷く。
ぼくがこのバイトを始めたのは大学院に入った直後からだ。指導教官に勧められて、一も二もなく引き受けた。アメリカや日本の大学と違い、北極圏共同体では学費や寮費は一切かからないが、書籍代や文房具代は必要だ。それを週に一度のこのバイトで賄おうと思ったのだ。社会人としてまる三年働いて、貯蓄も少しはある。
《質疑応答》は大学改革後の目玉の一つとして去年から始まったもので、市民と大学を?ぐという、いかにも官僚が考えそうなキャッチコピーと共に、しっかりと予算もついた市民サービスだった。それゆえ時給は悪くないし、研究費の補助も与えられる。
バイト代は大学から出るため、誰でも無料でこの制度を使うことができる。しかし実態としては、わざわざ大学を訪ねてまで大学院生に質問する必要性は、前世紀末からすっかりなくなっていて、やって来るのは彼のような同じ大学の学部生くらいだった。
「この制度には大学院生への生活費給付という目的もあるんですか」
「きみがきちんと利用してくれないと、そういうふうに勘繰る人も出てくるだろうね。ぼくは時給に見合うだけの仕事をしたいと思っているし、しているつもりなんだけど」
彼は急に神妙な顔になり、
「では時間は無駄にできませんね。疑問をリストにしてきたんです」
渡された紙には、ため息が出そうな問題がいくつも並んでいた。
「じゃあ一番上から。『人間は宇宙を理解できるか』か。相変わらずのきみらしい質問だね」
「ということは、相変わらずの解答になるわけですか」
「そうだね。まず確認しておくと、確定した研究結果や研究者の総意のようなものはないと思う。研究者のあいだで意見が分かれていることについて、ちょっとしたアンケートをすることはあるけど、当然意見はまとまらないよね。ぼく個人の見解としては『ノー』というのが、さしあたって誠実な解答になる」
イェスパーは大げさに腕をくんで、
「前から思ってたんですけど、ネルスさんの答えが大抵の場合『ノー』なのはどうしてですか」
「きみの質問にそもそも偏りがあるような気がするんだけど。『最終理論は存在するか』、『タイムマシンはできるか』、『宇宙人は地球に来ているか』こういう疑問にたいして肯定的に答えるためには、かなり多くの補足条件が必要になる」
「その必要な条件が揃えば、肯定的に言えなくもない?」
「まったくその通り」ぼくは青花の口癖で返した。
ここで言う必要条件は、極めて科学的なものだ。
タイムマシン一つとってみても、数式を使った定量的な研究は既に膨大にある。物理学者たちは虚心坦懐、フェアにその実現を追求しあるいはかなりの程度、好意的な態度で研究し続け残念なことに現在のところタイムマシンを作り上げるのは、ひどく特殊な天体や物質が存在しないかぎり、かなり困難であると結論づけられているのだった。誰だってタイムマシンを否定したくなんてない。
「さっき、前回の続きと言ったけど、議論の連続性がいまいちわからない」
「そうですか? 俺はネルスさんの知性定理に関心があってですね、知性の限界について考えたいんです」
「限界ね」
ぼくが三年前、大学の卒業論文として証明した知性定理は、どのような知性であっても相互に?がり合っていて物理的な障壁さえ越えられれば互いに連絡が可能であること、そしてこの宇宙に属するすべての知性はより巨大なメタ知性の一部だと示したものだ。裏を返せば、今の知性とは全く相容れないような別種の知性にはなりえないということで、それを知性の限界と見なす人もいる。
ちょうど一年前の夏、ぼくは姉に呼び出されてL2へ行き、双子の妹ウアスラと一緒に、切り離された宇宙ドメインボールの内部に入った。
ウアスラが生まれたのは四年前――世界最高の頭脳を持つ直後姉が勤める日本の大学における、量子ゼノン転送の最終実験のときだった。あのころはまだ転送機が不安定で、ぼくの脳の量子ゼノン停止が解け、ぼくの情報演算対は情報空間に取り残されてしまった。その情報演算対はぼくと同じ記憶を持ち哲学的あるいは宗教的には議論の余地はあるけれどぼくの自我を持っている。つまりそこで、ぼくは二つに分裂した。姉は今もまだ公表していないが、これは人類史上初の人格のコピーだった。
姉は事態を収拾するために――と言っていたが絶対に面白がっていたに違いなく――情報演算対のほうのぼくを情報空間で安定させ、あまつさえ少し書き換えて妹にしてしまった。
めちゃくちゃだ。それでぼくは三年ほど姉と喧嘩して連絡を断っていたのだが、姉は反省なんてするはずもなく、去年の夏にはボール宇宙を使ってぼくたちを混ぜ合わせようとした。
そのとき、ぼくと妹ウアスラは異なる存在様式になりながら、有り得るすべての宇宙ランドスケープに含まれるすべての知性とぼくたちは会話することができるという結論に至ったのだった。
これは、ぼくたち人間が暮らす宇宙に限定して証明した知性定理を、もっともっと拡張して、ランドスケープ全体に一般化することに他ならない。
そんなことができるかどうかはわからない。足がかりさえない。だけど、できなければ、別の宇宙に残してきた妹と、ぼくはもう会って話すことはできない。
だからこそぼくは地球に戻ってからすぐに会社と交渉し、卒業した大学の院にあらためて入学したのだった。
「俺、ここ好きなんですよね。何だか良いにおいがするし」
「そうだね。たぶん苔のおかげだよ」
「そういえばネルスさんは大手の兵器メーカーからの出向なんですよね」
イェスパーがまた、遠慮する素振りも見せずに質問する。
「電磁障壁メーカーだけどね。もちろん、防衛のための設備も厳密には兵器だから、うん、確かにぼくは兵器メーカーの社員だ。もう一つ厳密に言えば、出向というのは会社の命令で出向くことで、ぼくは会社に頼み込んで休職扱いにしてもらって社会人入学制度を使っているんだけどね」
「なるほど。で、どうなんですか」
彼が急に小声で囁く。アトリウムのなかにも学生はいるが、いちいちぼくたちの話なんて聞いてない。
「どうって何が」
「決まってるじゃないですか。北極海の航路が封鎖された話ですよ」
強力な電磁パルスによって集積回路を破壊する兵器電磁兵器に対抗するため、ぼくの会社では大小さまざまな電磁障壁を製造、販売している。今や、テロでも紛争でも内戦でも、ありとあらゆる争い事のなかに電磁的攻防は組み込まれているのだ。電子機器が使えなくなれば、情報戦が不可能となり、結果として様々な形で命が失われる。
ぼくが籍をおく、アイスランド随一の企業アルマ社――ラテン語の「鎧」――はもともと、義肢などに組み込まれている集積回路が電磁波で誤作動しないように保護する有機金属フィルムを作っていたというが、何代か前のCEOの方針変更のためか、あるいは時勢のためか、今や世界有数の電磁障壁メーカーとなり、取引先のほとんどは北極圏共同体の軍部や軍事企業だ。兵器メーカーと言われても反論の余地は一平方ナノメートルもない。
ぼくがどうしてそこに就職したかと言えば、卒業直前のタイミングで学部時代の先輩が誘ってくれたことが大きかった。数学だけをしていればいいと言われてそれは本当のことだったが少しだけ考えて、あるいはあまり考えず、就職を決めた。防衛のための兵器、しかも電磁兵器に対抗するための兵器は、血なまぐささから何重にも遠いような気がしたのだ。でも、それは言い訳にしかすぎなくて、しかも下手くそな言い訳だった。姉さんは何も言わなかったけれど。
「形而上学(メタフィジックス)から、いきなり形而(フィジックス)の話題に変わったね」
「俺は物理(フィジックス)の話も好きですよ。で、これってもしかしてテロじゃないですか」
数週間前から北極圏共同体が管理する航行システムが不調で、北極海航路が大混雑していると、政府は発表していた。しかし〈圏民〉たちの多くは、十八年前の姉が十歳、ぼくが七歳だったときの北極事変での混乱を忘れてはおらず、そうした政治的発表を鵜?みにするほど素朴ではない。報道には、例によってスキャンダルから陰謀論まですべての予想が出揃っていた。
とはいえ兵器会社に所属しているからといって、しかも今はただの大学院生にすぎないぼくのもとには特に情報も届いていない。かりに知っていたとしても、こんなところでは話せない――そう思うくらいには会社で鍛えられたのだった。
ぼくは彼に遠慮せずに、壁にかかった時計を見た。残り五分。《質疑応答》は、ぼくが属している自然科学系研究科の研究分野に関連したことを議論すべきなのだが、堅苦しいことを言うこと自体が面倒だ。
「アルマ社はシステム関連の仕事をしてないし、ぼくは何も知らないよ」
「そういう問題でもないと思うんですけど。ネルスさん、この島の基地にお知り合いはいないんですか?」
まったく、彼は勘がいい。新入社員のときに研修で北極圏全域の軍事基地へ挨拶回りをした。軍部が商品にどのような性能を求めているのかを聞き取るのは基礎研究を担当する人間にとっても必要なことなのだった。
「何人かはいるけど――戦争の準備をしていますかと尋ねるわけにもいかないだろう」
「準備をしていてもしていなくても、答えはノーでしょうね」
定められた四十五分が経ち、タイマーが鳴った。
「来週は十二月二十六日だから休みなんですよね。来年の予約、してもいいですか」
「もちろん。ただ、ぼくじゃない人のほうが、もしかするともっとラディカルな話をしてくれるかもしれないよ。文系の人とか芸術系の人とか」
「ネルスさんはかなり抑制して俺と話している?」
「意図的にそうしてるつもりはないんだけどね。ただ他の人と比べたとき、おそらくぼくの考え方はかなり穏当な部類に入ると思う」
イェスパーは笑って席を立った。
(※ここまでが第1章です。つづきは書籍でお楽しみください)