みなさんは、理由が分からないけれど忘れられない記憶、ありませんか?
編集部SF班(妹)です。突然すみません。
記憶って面白いですよね。とくに大きな意味があるとも思えない、なんでこんなことを覚えているんだろう、という光景や出来事がずっと焼きついている……みたいなこと、ないでしょうか。
わたしには、ある部屋の入り口から、部屋の奥にある窓の外を眺めている、という古い記憶があります。
窓の手前には白いシーツの掛かったベッドがあり、誰かがそこに体を起こした状態で座っていますが、顔は見えません。
子どもの頃からずっと覚えている光景でしたが、長いあいだ本物の記憶なのか、映画やドラマで目にしたものなのか、分からずにいました。数年前、家族との会話の中で偶然その話になり、それがいつの、どんな時のものかがはっきりしました。
それは、妹が生まれた時に母が入院していた病室の風景でした。
初めて妹と対面した時のことも、母のお見舞いに行ったことも何ひとつ覚えていないのに、病室の窓から電車が見えた、その光景だけくっきりと覚えていたのでした。

とりとめのない前置きが長くなりましたが、『風牙』の主人公・珊瑚(さんご)の、 「人間は忘れる生き物だ。だからこそ、残っている記憶には意味がある」
という台詞を読んで、ふとそんなことを思い出しました。

本作はそんな、持ち主にとっても不確かで謎めいた存在である〈記憶〉をめぐるお話です。

ひとの記憶に潜行し、本来なら自分自身にしか理解できない、主観に基づいた情報の塊を、他人にも分かるように構築し直す技術が実用化された未来。
記憶翻訳者(インタープリタ)と呼ばれる技能者たち――実は彼らは生まれ持ったある特殊な体質のために、ひとの心に深く寄り添うことができるのですが――のもとには、さまざまな事情を抱えたひとびとから記憶を翻訳してほしいという依頼が持ち込まれます。
珊瑚はそのなかでもエース級のインタープリタとして期待されていますが、じつは彼女にとってひとの記憶と深くかかわることは、自分自身のなかにある埋められない欠落と向き合うことでもありました。
珊瑚は癒えない傷を抱えながら、それでもひとびとの想いの渦巻く記憶のなかに、身ひとつで飛び込んでいきます。

……と内容紹介をしてみましたが、あらすじを読むよりまず、とにかく本を開いて早く珊瑚と出会って欲しい!(話はそれからだ)というのが本音です。
なぜなら、こんなに応援したくなる主人公は初めてだから!
悩み、葛藤することも多い珊瑚ですが、いつもまっすぐで懸命で、周囲を惹きつけるエネルギーを持っています。珊瑚のひたむきさ、ひとの心のいちばん奥の部分に深く共感し寄り添う姿は、いつでも周りの人間たちの心を動かし、勇気を与えてくれるんです。
珊瑚だけでなく、彼女の所属する企業〈九龍〉の面々――珊瑚の恩人でもある社長の不二(ふじ)と専務の眞角(まつの)、物静かな二枚目だけれど底の知れない那須(なす)に、知的なインド系美女のカマラ、気配り上手のエンジニア・ショージ、それから記憶に潜行する珊瑚にハリネズミ姿で同行するサポートAIの孫子(そんし)――も個性豊かで魅力的なキャラクターばかり。読めば読むほど、彼らの物語をどんどん知りたくなるはずです。
SF小説をふだんあまり読まない方にも、本作はぜひ手にとっていただきたいです。そして、珊瑚たちのことを知って好きになってください。

最後に。物語はまだまだ続きます。読み終えた方はどうか、この先の展開を楽しみに、応援していただけると嬉しいです。