今回は推したい作品がたくさんあるのだが、まずは、私立探偵小説に画期をもたらす(かもしれない)作品として、ジョー・イデ『IQ』(熊谷千寿訳 ハヤカワ文庫HM 1060円+税)を挙げねばなるまい。IQとは、主人公の黒人青年アイゼイアのあだ名だ。彼は、ロサンゼルスで探偵をしている。


ある事情からまとまった金が必要になった彼は、腐れ縁の相棒の口利きで、大物ミュージシャンのカルの仕事を請け負う。それは、巨犬を使ってカルを狙う殺し屋の正体を暴け、というものだった。2013年を舞台にした現在パートは、このカルの仕事を中心に組み立てられる。その合間に、2005年のパートが、アイゼイアの兄の死と、なぜアイゼイアが探偵になったかを語る。

犯罪多発地域にして人々の欲望が渦巻く大都市ロサンゼルスらしく、登場人物は貪欲であり、成り上がりを夢見ている。紳士淑女など一人も出て来ず、ギャングあるいはちんぴらめいた態度の人物がほとんどだ。それでいてみんな頭は悪くない――どころかむしろ良いので、当意即妙(とういそくみょう)の受け答えが連発される。加えて、作者は、カル殺害計画およびIQの過去という本筋にあまり関係がない要素や出来事も、肉付けとばかり、矢継ぎ早にぶち込んでくる。その勢いの良さたるや、まさに奔流(ほんりゅう)である。

しかし、これだけなら、本書は「よくある」良作の一つに過ぎなかったはずだ。本書の決定的勝因は、主人公アイゼイアの性格にある。彼は常に冷静沈着で、他人とは距離を保ち、馴(な)れ合う素振(そぶ)りは見せない。しかし孤独ではなく、会話相手には恵まれているし、話し出すと饒舌(じょうぜつ)だ。それに情が薄いわけでもない。実入りがない仕事であっても、縁故をたどって来た仕事ならば、彼は請ける。それどころか、オフであっても犯罪を見たら、放っておけずに犯人を追い詰める。こういった行動には実は一本筋が通っており、キャラクターとしての奥行がしっかり用意されている。2005年のパートは、その詳細と理由を明らかにする役割を担っているのだ。

アイゼイアの特徴は人格・性格のみならず、探偵手法にもある。彼は、推理にかなりの力点を置いているのだ。ホームズよろしく初対面の人間の事情を推知し、現場に残された物的証拠と状況証拠から、ロジカルに真相を看破する。これは、本格ミステリの名探偵の手法に極めて近い。

しかし残念ながらここは犯罪都市ロサンゼルスである。そういった論理的推理は、誰にも尊重してもらえない。聞き流されたり反発されたりしてお終(しま)いである。納得もされない。説得材料にもあまりならない。探偵に求められるのは、真相解明ではなく、事態の打破なのである。このような状況において、名探偵の推理力を持つ探偵は、どう動くのか。その今風の答えが、本書には、はっきりと刻印されている。

というわけで、『IQ』は傑作であり、アンソニー賞、シェイマス賞、マカヴィティ賞といった新人賞を当たり前のように総なめにした。本国では既に昨年、続篇が刊行されている。翻訳が待ち遠しい。

『IQ』だけでかなり紙幅を使ってしまったので、残りは駆け足で行く。とはいえ、キャサリン・ライアン・ハワード『遭難信号』(法村里絵訳 創元推理文庫 1380円+税)は、個人的な好みから言えば『IQ』よりもしっくり来た作品である。


アイルランドで脚本家を目指しているアダムは、ようやく自作がハリウッドで採用されかけていた。しかし同棲中の恋人サラが、バルセロナに出張すると言って出かけた後、連絡が取れなくなってしまう。友人曰く、サラは以前から他の男と付き合っており、出張云々は嘘だった。そして「ごめんなさい――S」と付箋(ふせん)がつけられたサラのパスポートが郵送されてくる。それでもなおサラを追うアダムは、地中海クルーズ船にサラが乗ったとの情報をつかんだ。

サラの失踪が徐々に不穏な色を濃くするのをじっくり描きつつ、事態の急転を随所に用意する。謎の人物の怪しい動きを別視点で随時挟む点も含め、構成自体は常套(じょうとう)的ではある。しかし全てが丁寧に作られており、読者の興味を惹(ひ)きつける。

ポイントは本書の読み口だ。それはただひたすらに切ない。主人公アダムは30歳の夢追い人である一方、1歳下の恋人は海外出張も可能なキャリア持ちである。しかも二人は付き合って既に10年、アダムが自分の夢を追う間、生活費はサラが負担していた。客観的にはアダムはサラに見捨てられても仕方がないと思う。

実際、アダムは友人からそういった言葉を投げられる(やめてあげて!)。だがその諦念、疑念、そして自己嫌悪を乗り越えて、アダムは自分の知るサラを信じて行動を起こすのだ。この味わい深い切なさは、物語の通奏低音となって、物語の雰囲気を決定づけている。

なお、豪華客船における失踪を扱った作品としては、前号でとり上げた、セバスチャン・フィツェック『乗客ナンバー23の消失』が記憶に新しい。似たテーマながら、同書と本書とでは切り口が全く違うので、読み比べもまた一興かと思う。

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■酒井貞道(さかい・さだみち)
書評家。1979年兵庫県生まれ。早稲田大学卒。「ミステリマガジン」「本の雑誌」などで書評を担当。