リング・ラードナーは1885年生まれ。デイモン・ラニアンのひとつ年下です。高校を出てから新聞記者になったといいますから、記者としての活躍の時期も、同じころになります。やはりスポーツ記者ですが、事件ものも手がけたラニアンと違って、スポーツ専門だったようです。1919年にニューヨークに移り、親交のあったフィッツジェラルドの勧めで、24年に最初の短編集を出しました(それまでは、作品をまとめるという気がなかったらしい)。ラニアンより、小説に手を染めるのは早かったわけです。33年には亡くなっているうえに、最晩年は劇作に関心が移っていたようなので、ラニアン同様、小説を書いていた時期は、案外短く、一方で、同年代であり、似たようなキャリアであるにもかかわらず、小説を書いていた時期は、それほど重なっていません。おおざっぱに言えば、ラードナーは20年代の作家で、ラニアンは30年代の作家ということになります。
 もっとも、この差が大きいだろうことは、日本人にも容易に察せられることで、ラードナーについての文章で、フィッツジェラルドやヘミングウェイといった作家が引き合いに出されるのは、作品の質とか題材といったものもあるのでしょうが、なにより、20年代というアメリカの特殊な時期を表象するという点で、共通していると考えられているからでしょう。
 ラードナーは野球を題材とした小説で、まず名を成し、さらにスポーツを題材にした小説をたくさん書きました。その多くは、特徴としてユーモラスな口語の語り口を持っていました。ただし、その点は功罪相半ばして、おかげで、通俗的なスポーツ小説としてのみ読まれたというのが、ラードナーを文学的な面から支持する人たちが、共通してなげくことです。1970年代前半に、加島祥造が自身の訳で、3冊の短編集(『微笑がいっぱい』『息がつまりそう』『ここではお静かに』)にまとめたときも、そのことには触れられていて、野球ものを書いたのちに、ラードナーは市井の人々、おもに中流階級を、ときにいささか辛辣に描いたと指摘しています。
 野球ものは、いまあげた三冊の中でも「弁解屋アイク」「当り屋」「ハリー・ケーン」「ハーモニイ」「相部屋の男」と訳されています。「ハーモニイ」は、ラニアンの「サン・ピエールの百合」に影響を与えたのかしらと思わせる、ちょっと毛色の変わった話です。野球を描いたものとしては、世評の高い「弁解屋アイク」よりも「当り屋」の方を、私は買います。試合そのものを面白く語っているからです。もっとも、ラードナーが主として評価されているのは、一人称の話者の語り口の多様性と巧妙さなので、試合の場面が面白いからという評価は、おそらく少数派になるのでしょう。




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