『犯罪文学傑作選』に収められた「ユーモア感」(「ユーモアのセンス」)は、いたずら好き――それもキツいいたずら――のギャングが、冗談の通じないギャングにいたずらを仕掛けて、それがために生命のやりとりが始まるという、落ち着いて考えると、リアリティがあるのかないのか分からないような話でした。とても存在するとは思えないような、しかし、20年代や30年代のブロードウェイになら、ひょっとしたら存在するかもしれないと思わせるような、ユーモラスなアウトローたち。あるいは、そんな物語を語る名なしの語り手。ラニアンが一貫して描き続けたのは、それらの人物でした。登場する男のたいがいは、酒の密売か賭博に手を出していて、金は持っていたりいなかったり。中間というものがありません。
ラニアンの名を高めた舞台や映画のもととなった「ミス・サラー・ブラウンのロマンチックな物語」では、ザ・スカイという賭博師が、うら若いキリスト教の伝道師サラー・ブラウンにぞっこんになり、彼女が救うための魂を手に入れるために、ギャンブラーたちに、彼らの魂対千ドルで賭けを挑みます。しかも、この行為に怒った彼女が、なんと、あり金全部の2ドルを持って、ザ・スカイにサイコロ賭博を申し出ます。「人の魂が欲しくて賭けをなさるんでしたら自分の魂もお賭けになるべきですわ」。サラー・ブラウンが、父と兄がそれで「身をほろぼした」から、サイコロ賭博のことを少しは知っているというのが、よろしくて、彼女のサイコロの振り方が、しろうとでもくろうとでもないというのが、さらによろしい。
「サン・ピエールの百合」は、宵の口に、グッドタイム・チャーリーの店に野郎どもが集まって、コーラスに興じるという、これまた、そんなことが本当にあるんだろうかというようなエピソードから始まり、コーラスメンバーのひとりが殺されます。ラニアンのブロードウェイものは、常に一人称の語り手がいますが、今度は、彼に向かって犯人が犯行に到るまでの過去の経緯を語ります。この部分が――ギャングと田舎娘の恋愛模様と三角関係――かなりの分量になっていて、ホロリとさせたところで、語り手がもとに戻って、洒落たサゲがキマります。
という具合に、『野郎どもと女たち』の中の、トリとアタマの短編のあらすじを書いてみましたが、落語の人情噺みたいだと思った人もいるのではないでしょうか? 何度も映画化された「マダム・ラ・ギンプ」は、ヨーロッパにいる娘が貴族との婚約が成って、アメリカで大金持ちになっているはずの母親に会いに来るというが、実は母親はその日暮らしで、友人一同計らって、彼女を大金持ちの成功者に仕立て上げる……という、いまや定跡手順(その中で光るのが、夫役の「判事」という人物)といってもいいストーリイ展開です。そうした話を、アメリカ人らしい単純な誇張と冗談とで飾りながら、くだけた口調で一席つとめる。登場人物たちは違法行為をものともしませんから、コミカルなクライムストーリイに踏み込むのは簡単なことでしょう。
「プリンセス・オハラ」のタイトル・ロールとなったのは、流しの馬車をあやつる御者キング・オハラの娘ですが、父親の跡を継いだ彼女の馬が病気で倒れます。彼女のとりまきは、ならばと、競馬場の厩舎から馬をかっぱらって来る。これが時価2万5000ドルの競走馬で、かまわずボロ馬車につないでしまう。馬はゴキゲンで、ギャロップで走るというのがおかしい。そして、彼女の馬車がセントラル・パークから五番街にかけて、客を乗せているところで、ビールトラックの強奪事件に巻き込まれます。
洒落者キティたち3人が、ヨーロッパでの国王暗殺を依頼されるのが「みなさん、陛下に乾杯」(「紳士のみなさん、陛下に乾杯」)です。
ラニアンの小説には、何度も登場する、おなじみの人物がいくたりかいますが、中でも愉快なのが、ブルックリンの三人組、馬づらハリー、チビのイサドー、スペイン野郎のジョンでしょう。この三人が出てくると、ドートマンダーも顔負けというか、さらにズッコケた犯罪小説が現出します。
「ブッチの子守唄」は、3人がホールドアップに失敗し、奪えないまま金庫に眠ってしまった現金をいただくために、金庫破りのブッチの手を借りようとするところから始まりますが、足を洗ってしまったブッチは、その夜赤ん坊の子守りをしています。次につかまればシンシン刑務所で終身刑が待っているブッチは、ジョン・イグネイシャス・ジュニア(という名前なんですね。ということは、ブッチの本名はジョン・イグネイシャス!)の世話があるからと、乗り気ではありません。あれこれ説得し、よい条件を出し、ついには、赤ん坊を連れていくことで、ブッチは金庫破りを承諾します。かくして、赤ん坊にミルクを温めながらの金庫破りが始まります。
「約束不履行」は、怪しげな弁護士の紹介で、金持ちの男から仕事の依頼が3人に来る。近々結婚するので、昔の恋人に送ったラヴレターを取り戻したい。彼女とは貧乏なころからのつき合いで、手紙では結婚の約束などしているから、約束不履行で訴えられるのを、恐れているのです。盗んでくれば1万ドル払おう。荒っぽい彼らは、車で乗りつけて、邪魔する人間は縛り上げ、手紙を奪うという作戦に出ますが、車が門柱に衝突して、いきなり作戦は頓挫します。気がつけば、馬づらハリーは彼女のベッドで看病されています。ちょっと「ボヘミアの醜聞」のパロディみたいですね。彼女はやさしい女性で、執事の老人とふたりで、親身になってハリーの面倒をみてくれる。だんだん、ハリーはほだされてきて、しかも、いきさつあって、目の前で問題のラヴレターを読んでもらうことになる。このあとの展開もよくて、サゲがまた秀逸でした。
「ユーモア感」や「葬儀屋の歌」「片目のジャニー」「ブレイン、我が家へ帰る」といった、殺人の出てくる話でも、陰惨なところはなくて、お伽噺的な雰囲気をたたえています。「夢の街のローズ」「黒髪のドロレス」といったユーモアの少ないクライムストーリイにも、それはあてはまります。どちらも、殺人者の女の肖像を見事に描きだしていました。男のアウトローたちが、どこかコッケイなのに比べて、ラニアンが女の犯罪者を描くときは、ユーモアが後退します。それは「ブロードウェイの出来事」にもあてはまります。そもそも、昔のハードボイルドやノワールには、そういう気分が漂いますしね。
ラニアンでもっとも特徴的とされるのは、その文体です。とくに現在形だけを用いたスタイルは独特のものです。日本語に移す際に、難渋するだろうなと、門外漢の私でも思います。加島祥造は、訳文でも極力現在形のみを使っていて、それがために読みづらくなることも、ないではありません。新潮文庫版は版元の要請である程度過去形を用いたものになおしたとも書いています。ともあれ、「約束不履行」「ブッチの子守唄」「ミス・サラー・ブラウンのロマンチックな物語」などのように、面白く仕上がった場合は、まったく問題がありません。むしろ、おなじみの登場人物、たとえばデイヴ・ザ・デュードの訳語が一定しないことの方が、いまとなっては問題でしょう。少しずつ訳していった結果とはいえ、何度も登場するうちに、読者にそのキャラクターが伝わっていくのですから。
また、ラニアンのブロードウェイものは、一人称の語り手が明確に存在しますが、名前もなければ、ほとんど積極的な役割を持たず、街の傍観者とでも呼ぶべき存在になっています。しかも、厳密には、毎回の語り手が同一人物だという保証もありません。ですが、モームのところで問題にした、なまくら一人称にはなっていなくて、語り手が立ち会わない場面は、ある特定の人物から聞いたという説明が入るか、「サン・ピエールの百合」のように、別の登場人物の語りがはさまる形を取ります。
ただし、一編だけ「きつ過ぎる靴」という、異色作があります。少々融通のきかない靴屋の店員が、賭博師に小さめの靴を売ってしまい、翌日、その賭博師が競馬で連敗したため、店に捩じ込んできます。賭博師に尻を蹴られながら追いまわされますが、店員の尻ポケットには、カール・マルクスのハードカヴァー(!)が入っていて、それが助けてくれる。それでも店はクビ、好きな女性へのプロポーズもおあずけです。失意の店員の前に、金持ちの息子の遊び人が現われて意気投合し、酔ったいきおいで公園でグチとも不満ともつかない演説を始めると、これが大ウケして、あれよあれよという間に、アメリカ社会主義連合という組織を作ってしまう……。
私の手許にあるラニアンのペイパーバックには、この話は入っていないのですが、この小説を一人称というのは、訳文で見るかぎり無理があります。こういう例外もあるのです。
ラニアンの小説を読むと、その思考回路の単純さ野蛮さに、苦笑させられることが多々あります。ただし、それは、いつもユーモアに縁取られていますから、そういう単純さ野蛮さを、ついつい消極的にではあっても肯定させられてしまいます。もともと英米には、学校教育や知性を軽蔑する意識があって、とくに労働者階級には、それが職業において叩き上げるという意識になる場合があります。そうした意識は、少なくとも20世紀中葉までは一般的で(イギリスの例ですが、ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』
■小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』
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