12

 新月の負った怪我は幸いにして長引かずに済んだ。
 頭から大仰な包帯が消えたころ、ふたたび彼は動きだした。
 手始めの行動は早見篤を訪ねることであった。
 藤江恭一郎と思われる鉄仮面の男は御殿山付近の雑木林に隠棲していた。白石光はそれを知っていた。最近になって気づいたのかもしれないし、あるいは最初から承知していたのかもしれない。早見篤はどうだろう。藤江恭一郎とのつながりは保たれているのか。稲村ガ崎の事件から今日までの十年、藤江恭一郎を中心とした輪のなかで、その男はいかなる位置にいるのだろう。
 祖父の代から続く府中本町の写真館。情報はそれだけだったが、しもたやと違って捜しだすのは容易かった。
 新月がそこを訪ねたのは、十二月十一日の午後であった。
 勝手な先入観とは裏腹に、早見写真館は現代的な店構えをしていた。ガラス張りの明るい店内は家電量販店の一角と見紛うほどで、軽快な音楽が流れ、クリスマスの飾りつけもありきたりながら賑々しい。気軽に立ち寄りやすい雰囲気のその代わり、老舗写真館ならではの歴史を感じ取るのは難しかった。
 この不意討ちの訪問に、特別な詭計を弄する気はなかった。素性を明かし、正面から堂々と向き合うつもりでいた。
 カウンターに女性従業員を見つけてまっすぐ歩み寄った新月は、彼らしい明朗爽やかな調子で早見篤に会いたい旨を伝えた。女性はこちらの名を確認したあと、カーテンで仕切られたバックヤードに首だけ差し入れて「専務」と声をかけた。ほどなく、真っ赤なトレーナーを着た眼鏡の男が姿を見せた。
 白石光と同様、小柄で細身の男であった。目線が新月とどっこいどっこいだから、背丈は一六三、四といったところだろう。細身ではあるが、白石光のように不健康な感じはしない。肌は浅黒く、濃い髪を後ろに撫でつけ、鼻下にひげを蓄えている。
 だが、そうした外見の特徴以上に強く印象づけられたのは、顔を合わせた瞬間に相手が示した反応であった。早見篤は新月の姿を認めるなり、あからさまな驚愕の表情を見せたのだ。メタルフレームの眼鏡越し、細い目は大きく見開かれ、苦悶に喘ぐように顎が上下した。新月と女性従業員の視線の前で、彼は硬直したように立ち尽くしていたが、すぐにわれに返って体裁を繕うと、この場合、ほかにいいようもなかったであろう、一言、「何か」といった。
 新月はもう一度名乗って、能登七海の弟であることを告げた。
 これに対する反応はすぐには返ってこなかった。無言でこちらを見据える男から、先ほどの狼狽は嘘のように消えていた。いま新月の前にいるのは、相手を値踏みするような目をした、あまり人好きのしないふてぶてしい男であった。
 早見篤は脇の従業員に一言したあと、新月を促して店外へ出た。連れて行かれたのは馴染みらしい近所の喫茶店で、向かい合って腰を落ち着けたところでようやく会話が成立することとなった。
 ――能登七海の弟といったね。うちの店を誰に聞いた?
 ――白石光さんに。
 そう答えると早見篤は意外そうに眉を上げた。
 ――白石に会ったのか。いつ。
 ――先月です。当時のことを詳しく教えていただきました。
 ――当時のことというのは、例の事件のことか?
 ――ええ。
 ――何でまたいまごろになって……。
 まるで気がなさそうに早見篤はいった。
 ――あれからどのぐらい経ったっけな。
 ――今年がちょうど十年目です。
 ――十年か……。それで、藤江にも会ったのか?
 この問いは返答に迷った。会ったといえば会った。が、あれでは会ったうちに入らないともいえる。結局新月は黙ってかぶりを振るにとどめ、すぐに訊ね返した。
 ――早見さんはお二方とのご交流は?
 ――ない。
 何ともすげない返事だった。それもこちらの言葉尻にかぶせるような答え方だったため、いささか新月は面喰らった。
 ――どうしてです?
 ――どうしてだろうが君には関係ないんじゃないか?
 相手は皮肉な調子を露骨に表した。
 ――君はいまいくつだ? 学生時代の関係が大人になってからも続くなんてむしろ稀だと思っていい。或る一時期、たまたま同じ場所にいただけだ。巣立ったあとは各々新たな人間関係のなかで生きることになる。過去はもはや別世界なのさ。
 ――では、近況はまったくご存じないのですね。
 ――藤江は芸術家になったろう。白石は編集者だったな。さすがにそのぐらいは知っている。もっとも最近のことはさっぱりだ。あの二人はまだ付き合いがあるのかな。
 運ばれてきたコーヒーが置かれるのを待って新月は訊ねた。
 ――藤江さんが事故に遭われたのはご存じですよね?
 ――事故って、何の事故。
 眉ひとつ動かさずに発された予想外の言葉に、新月は口ごもった。うっかり失念するような話ではないはずだ。本当に知らないのだろうか。仮にそうだとしても不自然とまではいえない。なぜなら工房の爆発事故は三年前の出来事なのだから。とはいえ、何か意図があってそら惚けているようにも取れる。腹の底が見えない男だ。新月はあっさりと話を変えた。
 ――黒耀座の舞台に藤江さんを誘ったのは早見さんだったそうですね。
 ――黒耀座?
 ――高校時代、藤江さんが一度だけ出演した劇団ですよ。
 ――ああ。
 間延びした声を出して、早見篤はコーヒーを啜った。
 ――それこそ古い話だ。当時の俺は餓鬼のくせに演劇マニアでね、藤江に限らず手当たり次第に観劇に誘ったもんさ。
 ――黒耀座の舞台で藤江さんが着けた衣裳を憶えていますか。
 ――黒装束に鉄仮面だろう。藤江は自分で仮面を作ったんだ。
 ――稲村ガ崎に泊まった翌朝、同じ風体の人物が目撃されたことも?
 互いに視線を逸らさぬまま、ここで短い沈黙が生じた。また一口コーヒーを啜って、早見篤は淡々といった。
 ――もちろん憶えている。藤江によく似た体格だったらしいな。しかし俺たちは話に聞いただけで実際に目撃したわけじゃない。本当にそんな奴が徘徊していたのかどうか、いまとなっては怪しいものだな。
 ――藤江さんに夢中遊行の癖があったことはご存じでしたか。
 ――まさか。白石がそんなことをいったのか? 俺は初耳だ。
 ――廃屋のなかの姉を最初に見つけてくださったのはあなたでしたね。
 ――そうだ。
 ――お一人で?
 ――ちょっと待て。
 矢継ぎ早に放たれる質問をとうとう相手は遮った。
 ――君は何をしに俺のところへ来たのかまだ説明してないな。いったいこれは何の真似だ? あの事件を洗い直すために、目ぼしい関係者に当たろうとでもいうのか?
 ――そんなところです。
 感情を交えず答えると、早見篤は椅子を軋ませてふんぞり返り、文字通りこちらを見下した。
 ――十年も経って犯人捜しか。おまけに初対面の相手を容疑者扱いとはね……大人を舐めるなよ。白石がどういう応対をしたか知らんが、あいつと違って俺を怒らせたら損だぜ。
 新月は詫びもしない代わり反駁もせず、黙って視線の先の口ひげを眺めていた。無関心を決めこまれるよりは感情を出してくれたほうが好都合だ。このまま立ち去るのだけは勘弁願いたいが……胸の内でそう呟いたところで、相手はぶっきらぼうに言葉を継いだ。
 ――君の姉さんが死んだのは深夜だったはずだ。
 ――ええ。
 ――死体を発見したのは早朝、俺が小屋を覘いたのはたまたまだ。遅かれ早かれ誰かが見つけていただろう。
 ――姉は「黒百合番太郎」という名前を血文字で記していたそうですね。
 ――ああ、黒百合ってのは藤江のことだ。当時、そのせいであいつはずいぶん疑われたらしい。
 ――黒百合番太郎が犯人だと見做されたわけですね。しかし、それならばなぜ姉は素直に藤江さんの名を書かなかったのでしょうか。
 ――そんなことを俺に訊くなよ。
 ――誰が姉を殺したのだと思いますか。
 背もたれに反り返ったまま早見篤は苛立たしげに膝を揺すっていたが、そう問われるとぴたりと動きを止めた。
 ――白石にもその質問をしたのか。
 ――ええ。
 ――あいつは何と答えた?
 ――あれは殺人ではなく事故だと。
 ――事故か……。
 ぼそりと呟いて黙ったあと、早見篤はにわかに不敵な笑みを見せていった。
 ――俺も同意見だね。
 冗談めかしたわざとらしい口調だった。
 ――では、犯罪はなかったというのですね。さっきまでは事件と称していらっしゃったはずですが。
 ――事故だって事件だろう。何がおかしい。俺たちにとっちゃあれはとてつもない大事件だったよ。
 不機嫌な顔の貧乏ゆすりがふたたび始まった。
 ――事故じゃ不満か? どんな答えなら満足する。君が求めているものは何だ?
 ――ぼくは……。
 といいかけて、ふいに新月は、自分の心がこの場から遠ざかっていく奇妙な感覚に襲われた。目の前の俗な男に対する興味は急速に薄れ、いつしか彼の意識は冥界じみたあの漆黒の雑木林をさまよっているのだった。
 立ち枯れた樹々の彼方で青白い鬼火が消え入りそうに揺れている。あれは三角屋根の洋館の灯だ。吸い寄せられるように歩みだした彼のほうへ、向こうからも誰かが近づいてくる。顔だけが宙に浮いて見えるのは、黒衣が闇と同化しているせいだ。灰色の顔。見上げるほどに背が高い。帰りの遅い弟を迎えにきた……あれは十七歳の姉だ……。
 ――ぼくは……仮面の下の素顔を確かめたいのですよ。
 虚ろな声で怪しげな言葉を口走るのを、早見篤は気味悪そうに凝視していたが、空咳を一つ挟んで、
 ――もういいか。仕事がある。
 口早にいったそばからすでに卓上の伝票を掴んでいた。
 レジに向かう通路で、新月は赤いトレーナーの背中に訊ねた。
 ――さっきお店に伺ったとき、ぼくの顔を見てずいぶん驚いていらっしゃったようですが、あれはどういうわけでしょう。
 ――知らん。勘違いだろう。
 早見篤は振り向きもしなかった。
 負傷癒えた新月の最初の行動はこうして終わった。
 新たな情報を手にしたとはとてもいえない。相手は食えない皮肉屋で、十年前の事件については通り一遍の返答に終始した。もっともそれを責めることはできない。いきなり押しかけていって、初めて顔を合わせた今日の今日では、時間を割いてくれただけでも御の字といわねばならないが、一つはっきりしているのは、最後の質問に関して早見篤が嘘をついたことだ。写真館のカウンター越しに面と向かった瞬間、不用意に曝けだした激しい動揺。勘違いなどではない。こちらの顔を一目見ただけで、あの男には何かピンと来るものがあったのだ。


    13

 現在のところ食うには困らぬ恵まれた身分の新月だが、その住まいときたら、酔狂と評すほかない何とも変わった一室であった。
 それは五階建ての貸ビルの最上階にあった。ビルといっても築面積はごく手狭で、四階までは各階とも二部屋ずつ、正面から見て縦に並んだ細長い建物である。一階には店舗のテナントが入り、二階から四階までは住居として貸しだされているが、いまは半分埋まっているかどうかも疑わしい。
 最上階の五階に関しては、階下よりも広めの部屋が一間きり、どういう意図があったものか、奥から手前に天井が傾斜した妙な構造で、ここには竣工当初から、或る歯科技工士が仕事場を構えていた。オーナーの身内というこの男はずいぶん前によそへ移ったが、室内は流しを中心に技工所に適した特殊な作りになっていたため、彼の退去後には大掛かりな改修工事が入った。もっとも、壁、床、天井を綺麗さっぱり剥きだしのコンクリートにしたところで故あって作業は中断を余儀なくされたが、ひょんなことからこの使い途のない空き部屋を借り受けたのが新月であった。
 彼は数点の家具……机やベッドや応接セットをいそいそと運びいれると、コンクリの床にそのまま据えて暮らしはじめた。水道、ガス、電気の設備は生きていたので不便はなかった。ただし冬はめっぽう寒く、暖房すると結露がひどい。極度に傾いだ天井は実際よりも部屋を狭くしていたが、ユニークなところが面白かったし、大きな天窓もいたく気に入っていた。
 運びこむべき家具のなかに応接セットなんぞ選んだというのは、いずれ彼はそこで探偵事務所を開くつもりだったのである。
 十二月十三日、府中本町に早見篤を訪ねた翌々日の夜更けのこと、部屋の中央に置かれた革張りのソファに腰かけ、宙を見つめて黙考する新月の姿があった。
 ガラステーブルの灰皿は吸殻で溢れ、室内は白く靄っていた。
 この二日、自分が何を追いかけているのか、どのような物語のなかを動きまわっているのか、だんだん新月はわからなくなっていた。一方には十年前の姉の死があり、もう一方には仮面の藤江恭一郎をめぐる謎がある。彼はいっぺんに二兎を捕まえる気でいたが、じつはこの二つは、同じ役者が演じるまるきり別の物語なのかもしれない。
 白石光や早見篤のいうとおり、姉の死が不運な事故であり、藤江恭一郎は顔面に負った怪我を契機に(それは損なわれた外見上の理由か、それとも芸術家生命に関わる後遺症でもあったのか)隠遁しているだけだとすれば、いまさら掘り起こすべき犯罪はどこにもない。ただ新月一人が鼻をひくつかせ、火のないところに煙の匂いを嗅ぎまわっているばかりだ。まさしくそれは、平和な街角の翳りから翳りへと、残酷でインモーラルな秘密を求め徘徊する猟奇者の行動そのものである。
 所詮、猟るべき怪奇は頭蓋のなかの蜃気楼に過ぎないのか。
 だが、ともすれば湧き上がるそんな考えを押しこめるのが、先ごろ目の当たりにした鉄仮面の存在であった。
 類稀なる才能が甦らせた能登七海の容貌。それをみずからの顔に貼りつけて生きる男。彼の心に宿るのは、敗残者の哀れな追憶、それだけのことなのか。否、そうではないと新月は思う。あの男があの仮面をかぶりつづけているのには、抜き差しならぬ理由があるのではないか。
 御殿山の先、雑木林の奥に潜む家。あれはいつごろ建てられたものなのだろう。工房の二階で寝起きしていたころか、それとも爆発事故で重傷を負い、長期入院しているあいだか。前者であれば、藤江恭一郎は負傷どうこう以前から、密かに人目を避けた暮らしを企図していたとも取れる。
 ここで忘れてはならないのが、ほかでもない、能登新月襲撃事件である。ああした強硬手段を選んだこと自体、あの邸が暴かれたくない秘密を抱えていることの証になりはしないか。ただ、いくら考えても腑に落ちないのは、殴られて昏倒した自分が、生きて井の頭公園のベンチに運ばれたことだ。
 あの襲撃には少なくとも二人の人間が関わっている。最初に庭の闇間で遭遇した沼田欣児を想起させる男と、続いて邸のなかから現れた男。後者は藤江恭一郎と断じて間違いなかろう。実際、逃げる自分の後ろから、沼田らしき男が邸に向かって「藤江!」と叫んだのを新月は聞いており、それに呼応するように鉄仮面の男が姿を見せた。
 あのとき新月は藤江恭一郎に窮地を救ってもらうつもりで駆けだしたが、冷静に考えれば、彼らはグルであると見るのが自然だ。
 やがて相対した鉄仮面の男と新月。互いに黙したまま、時が止まったかのごとき数秒間。そこへ背後から強烈な一撃が来た。
 いまになって新月は思う。もしもあのとき沼田らしき男が暴挙に出なければ、藤江恭一郎は自分に何を語っていただろうか。また、自分が昏倒したのち、彼らのあいだにはどんなやりとりが交わされたのだろう。暴力に訴えたのははたして共に諒解済みの計画だったのか。もしかすると、あれは沼田らしき男の独断だったのではないか。藤江恭一郎は肚を割って自分と対峙するつもりで、だからこそわざわざ自邸へ招いたのではなかったか。
 そう考えると、たんこぶ一つで命拾いしたことにも説明がつくものの、今度は彼ら二人の関係がわからなくなる。
 襤褸をまとい、極彩色の仮面を着けた狂気の象徴、影百合。あの登場のタイミングは、あらかじめ植えこみの陰で待ち伏せしていたとしか思われない。十時に新月が来ることを伝えたのは当然藤江恭一郎だろうし、「藤江!」と呼びかけられてすぐさま姿を見せたのは、相棒が庭に潜んでいるのを知っていたからに違いない。影百合……沼田欣児を想起させるあの男は何者で、どんな役割を担っていたのか。
 ここで新月は白石光のことを思いだした。ひどく疲れきった様子の窶れた小男。いまにして思えば、あの男にはまといついた孤独の影に締めつけられて疲弊したような印象があった。一日の夜、藤江恭一郎の邸で起きた出来事を、彼は知っているのだろうか。
 白石光に連絡先を聞いておかなかったのは凡ミスだ。だが、訊ねたところでどうせ教えてはくれなかっただろう……と、そこまで考えて、新月は弾かれたように棚の置き時計を仰ぎ見た。日付が変わって、小一時間が経とうとしていた。
 彼はしばし時計の針を見据えていたが、やにわに立ち上がると、財布と携帯電話を手にふたたび元の場所へ腰を落ち着けた。それから、財布から一枚の紙片を取りだして、記載された番号へ電話をかける。そろそろ店じまいを始めていたであろう老マスターが出て、ごく短いやりとりののち、新月は電話をテーブルに投げだした。期待はしていなかったが、やはり白石光は、藤江恭一郎からのメッセージをマスターに預けた日を最後に、姿を見せなくなっていた。
 新月はまた黙考に入る。
 十年前の事件。なぜ姉は死にぎわに「黒百合番太郎」という言葉を書き残したのか?
 新月の思う単純かつ明快な答えは、犯行時、犯人が鉄仮面と黒衣を身に着けていたからというものである。これ以上説得力のある解釈はないだろう。つまり、犯人は「藤江恭一郎」ではなく「黒百合番太郎」なのだ。むろん「黒百合番太郎」イコール「藤江恭一郎」と真っ正直に受け取ることもできる。だが、考えようによっては、仮面と黒衣さえあれば別の人間が「黒百合番太郎」を演じることも可能なのだ。
 ただし、ここで障壁となるのが身長の問題である。仮に犯人が小柄な人物だった場合、姉は仮面と黒衣の扮装だけを頼りに「黒百合番太郎」と記しただろうか。それはありえないように思う。なぜならその場合、仮面の下の人物が藤江恭一郎でないのは明白なのだから。自分が「黒百合番太郎」と記したことで、藤江恭一郎に嫌疑がかかるのはほぼ確実なのだから。いくら仲違いしていたとはいえ、みずからの死の直前、恋人を陥れるような真似を姉がしたとはどうしても思えない。
 となれば、やはり犯人は藤江恭一郎か、あるいは藤江恭一郎と見紛うほど長身の何者かということになる。後者の条件に当てはまるお誂え向きの存在が沼田欣児なのだが、事件当時沼田は大阪にいた……。
 いずれにしても、この問題の中核は、犯人を名指しするのに「黒百合番太郎」なるかりそめの名を用いたという事実だ。ひょっとすると、姉はその人物が何者なのか判断できなかったのではないか。もし扮装の中身を知っていたなら、素直に当人の名前を書いたはずだ……。
 最後の煙草を唇に咥え、パッケージを握りつぶしたとき、テーブルの携帯電話が鳴りだした。ディスプレイに目をやると、最近では珍しい公衆電話からである。新月はかすかな予感めいたものを感じた。
 ――能登新月くんだね。
 ひどくくぐもった男の声だった。
 ――あなたは?
 新月の誰何を無視して、聞き取りにくい声はいった。
 ――いまからこの前の邸に来てくれないか。
 ――この前の、というと?
 ――雑木林の奥だ……悪いがタクシーでも使ってくれ。
 物騒極まりない怪しげな真夜中の招待に、この晩ずっと精彩を欠いていた新月の表情は、不安に曇るどころかみるみる喜色を帯びていった。彼はめまぐるしく考える。敵はどうやってこちらの電話番号を知ったのだろう……ああ、わかったわかった、あのときだ、殴られて気を失っているときに違いない……。
 新月の脳裡に二つの仮面のイメージがまざまざと甦った。
 ――これはこれは。頼まれなくともいずれ伺うつもりでいましたよ。ですが、前回の教訓がありますからね、こちらも多少は用心深くなっています。なにしろ危うく死にかけたんですから。
 ――知っている。すまなかった。だが、もう君に危害が及ぶことはない。それに、今夜が最後だ。今夜、君は何もかも知ることができる。
 ――何もかもですって? それは具体的にどういうことです。
 相手の沈鬱な声に比して、新月の言葉はどんどん軽薄な調子を強めていった。しゃべりながら彼は、先ほどテーブルに置いた是璃寓のショップカードを手に取っていた。電話中に誰もがする無意識の手遊【てすさ】びである。
 カードの表側は、藍鼠の地に店のロゴだけを白抜きで刷った、シンプルだが洒落たデザインだ。裏を返すとこちらは白地で、片隅に住所と電話番号が載っている。その裏面の余白に「白石光」という名が殴り書きされていた。探偵社で先輩だった川上の字である。
 そう、思えばすべてはこの一枚の紙片から始まったのだ……。
 電話を耳に当てたまま、新月は見るともなしに拙【まず】い筆跡を眺めていた。と、ふいに奇妙な着想が脳裡に閃き、見る間に表情が引き緊まった。
 ――来ればわかる。玄関は開けておくから勝手に上がってくれ。廊下のいちばん奥の部屋……。
 相手の言葉は聞こえていたし理解もしていたが、それは街なかでたまたま耳に入った赤の他人の声のように響いた。
 ――わかりました。
 棒読みの科白めいた返答を聞き届けて電話が切れると、いっとき新月は石化したふうに動かずにいた。やがて彼は先日と同様、革ジャンを着て財布と携帯電話を掴み、勢いよく部屋を飛びだした。外へ出ると小雨がぱらついていたが、かまわず小走りで大通りへ出て、タクシーを捕まえた。
 走ったせいか車内では頭の傷痕が疼いた。シートの振動に身を任せながら、新月はまたもや是璃寓のショップカードを取りだして、薄闇のなかで凝視した。乱暴な筆跡の、いまではすっかり身近になった名前。姉が死にぎわに残したとされる「黒百合番太郎」の名も、同じように乱れていたらしい。
 新月は革ジャンの内ポケットからボールペンを抜き取ると、カードに記された名前の前に「黒」、後ろに「太郎」という字を書き並べた。それから「白」に横棒を足して「百」に、「石」を「合」に、最後に「光」の上下に「ノ」と「由」を加えて「番」という字に作り変えた。
「白石光」を元に出来上がった「黒百合番太郎」……否、「黒百合番太郎」のなかに潜み隠れた「白石光」……完成した新たな名前を見つめながら、新月は軽い満足の吐息を漏らした。
 だが、依然としてわからないことはあった。



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