2

 三輪志津夫は時代小説作家である。或る日のこと、旧知の推理作家、青木謙造から電話で奇妙な依頼を受ける。
「もう一人の青木謙造」がたしかに存在するのか、それとも幻覚か、一緒に見極めてほしい。
 受話器越しの青木の声がいつになく鬱々としているのが気にかかる。奇怪というほかない内容に戸惑いつつも、独り身かつ自由業の身軽さで、翌日にはもう三輪は電車に乗って出かけていく。青木がジョークで人を担ぐような男でないことは承知している。
 三輪と青木は大学の同期生である。さしたる目的意識もなく進学した三輪に対し、青木は見上げた向学心を持った男だった。当時の二人はなかなか馬が合っていた。卒業を機にいったんは交流を失したが、五年前、ひょんなことから互いが小説家になっていることを知った。消息が途絶えてから、じつに十五年の月日が流れていた。三輪が斯道に進んだことを不思議に思うかつての仲間はいないだろう。彼は昔からそういうタイプの人間なのだ。だが、青木謙造が作家になっていようとは、少なくとも三輪には意外な成り行きだった。
 二人は十五年ぶりに再会し、旧交を温めた。やがて、懐かしい時代への郷愁と、同業者ならではの共感と、酒と煙草が彼らの距離を瞬く間に取り払った。ただし、親しみこそあれ、三輪は青木に対しては敬語を用いる。同期とはいえ歳の差があるからだ。昨今はそれほどでもないようだが、あのころは現役合格の難しい学校だった。そのせいで、三輪の周りには年上のクラスメイトが少なくなかった。
 青木の自宅は世田谷区北沢の閑静な住宅地にある。学生時代には訪ねる機会のなかったその大きな日本家屋に、再会後の三輪は幾度か招かれていた。最初の訪問時、三輪は青木が癌で妻を亡くしたことを聞かされた。夫婦に子供はなかった。ひと回りほど歳の離れた妹は稲城に嫁いでおり、青木は寒々しい古びた邸に独り住まいなのだ。三輪は妹の坂井澄子とも顔見知りである。裏山で採れたという筍【たけのこ】を蜜柑【みかん】箱いっぱい送ってもらったこともある。
 二月の半ば、やや風の強い晴れた夜だ。時刻は十時を過ぎている。それが青木の望んだ時間なのだから仕方がない。これでは帰りはタクシーになるだろう。
 ゆうべの電話は陰々滅々としていたが、玄関先で出迎えてくれた青木は思いのほか元気そうだ。久しぶりに顔を合わせるが、相変わらず若々しい。長身痩躯の背後に、暗く冷え冷えとした廊下がまっすぐ奥へ向かって溶けている。体感温度は外と大差ない。それでも、唯一暖かく明るい書斎に通されると、小卓の上には共に好物のバーボンが待っている。三輪の手土産と合わせ、同じボトルが二本並ぶ。卓上にはちょっとした肴も用意されているが、水や氷はない。二人ともストレートでゆっくりゆっくり飲む。合間には煙草。
 部屋の一隅、文机に載った原稿用紙にちらりと三輪は目を向ける。いまどきの作家には珍しく、青木はずっと手書きで通している。あいにく三輪は推理小説というジャンルに疎い。青木が作家活動をしていることを耳にした日、慌てて書店に走って二、三冊の著作を買い求めたのを思いだす。青木の作品を読んだのはそれきりである。
 差し向かいの肱かけ椅子で、改めてここ一か月の状況が語られる。
 鉄仮面のDoppelganger……。
 ひととおり耳を傾けて、三輪はいう。
 ――不思議な話もあるものですね。結局、素顔は見ていないのですか?
 ――うん、それでもあれは俺自身なのさ。
 どこか他人ごとのようにいって、青木は煙草に火をつける。
 ――コートを着込んでいるというのは、やはり冬だからでしょうか。
 ――どうかね。季節に応じて衣替えするなら、あいつは想像以上に人間的だよ。
 ――電話では、見憶えのあるコートだといっていましたね。
 ――長らく着ていない代物だ。ほら、お前も知っている、大学時代の青いロングコートさ。奇抜すぎるといってずいぶん嗤【わら】ったろう。
 ――ああ、思いだしました。あの悪目立ちするコート……懐かしい話ですね。もう二十年になる。あれを着て出てくるんですか。
 われ知らず微笑んで、だが、そこで三輪の頭にちょっとした疑問が浮かぶ。
 ――青木さんはいまもあのコートをお持ちなんですか?
 ――だいぶ前、箪笥のハンガーにかかっているのを見かけたな。その後、処分した憶えもない。
 ――では、問題の人物が出没するようになってからは確かめていないのですね? とすれば、これはけっこう重要な点かもしれませんよ。
 ――重要とは?
 ――だってそうでしょう。もしもコートが箪笥から消えていたら、くだんの人物がこっそり持ちだしていると想像できるじゃありませんか。逆にいまもハンガーにぶら下がっているなら……。
 ――その場合、奴はわざわざ同じコートを用意して行動に及んでいるということか。
 ――そう、出てくるたびに箪笥から拝借して、毎度ご丁寧に返却しているというなら別ですがね。
 ――もしくは、
 と、青木が自嘲気味に笑う。
 ――すべてが馬鹿げた幻覚であることの証拠といえるかもしれないな。
 ――芥川の「歯車」のなかに、レインコートを着た幽霊というのが出てきましたね。あれは黄色いコートでしたっけ。
 ――黄色? 色の描写なんてあったかね。記憶違いだろう。
 ――そうかもしれません。どうです、いまからその箪笥とやらを確認してみませんか。あるはずのコートがなかったら、それこそ幻覚なんかではない、或る意図を持った何者かの存在に信憑性が出てくると思うのです。
 こうして二人はふたたび冷たい廊下を通って、殺風景な一室に入る。三輪が初めて立ちいるそこは、壁ぎわに衣裳箪笥だけが並んだ和室である。長いあいだ交換していないであろう明かりがひどく弱々しい。
 ハンガーを吊るせる箪笥は三棹ある。順に扉を開け、青木が中身を検めてゆく。
 ――ない。ない。やっぱり消えている……。
 思わず顔を見合わせた二人のあいだに嫌な沈黙が落ちる。そうして彼らは無言のまま、重い足取りで書斎へ引き返す。この時点で時計は十一時を回っている。杯を重ね、酔いは着実に深まるが、この夜の三輪はどういうわけかいっこうに身体が温まらない。
 ――そいつが出てくるのは深夜だといいましたね。
 ――うん、だからこんな遅くに来てもらったんだ。何なら今夜は泊まっていってくれ。あとで寝床を作ろう。
 ――何時ごろ現れるんです。
 ――時間は決まっているわけじゃない。まちまちなんだ。
 ――今夜も来るでしょうか。
 ――それは何ともいえないな。せっかくだからぜひお前にも目撃してもらいたいが、ひとつ心配なのは、ひょっとするとあいつは、俺が一人でいるときでないと出てこないんじゃないかということなんだ。
 ――大いにありうる話ですね。
 ――だからといって、いっさいを妄言と疑われたら困る。
 ――こうしてわざわざ参上したんですから、幻であってほしくはないですよ。ところで、もしも今夜そいつが現れたら、どうするつもりです。捕まえますか。
 ――そうだな。いや、しかし、まずはいったん様子見といこう。というのも、お前がいても現れるなら、対決の機会は今後いくらでもあるだろうから……。
 濁った眸の青木の言葉を聞きながら、口には出さないものの、正直三輪は半信半疑である。どういう表現が適当かはさておいて、冷静に考えて、やはりそれは実在しないもの、青木の妄想、空想の産物なのではないかと思う。当の青木自身もそこに幾許かの不安を感じているらしい。それならそれでこの際はっきりさせほうが彼のためだろう。困るのは、青木のいうとおり何ごとも起こらなかった場合だ。そのときは不在者の存在を証明することはできない。ならばいっそのこと、青木にだけ見えて三輪には見えない何者かが現れてくれれば、ひとつの判断材料にはなる。
 ――明かりを消しておこう。
 突然そういって立ちあがると、青木は天井の螢光燈を消し、代わりに坐卓の電気スタンドを点す。それがこの部屋の常態なのだ。「もう一人の青木謙造」は、この薄暗がりにしか現れない。
 密やかな部屋で、赤く燃える首振り式のヒーターだけが懶【ものう】げに動きつづけている。左右の限界まで行き着くと、それはかすかな軋みをたてて逆戻りするのだった。規則的なその軋みが、一段と静けさを際立たせる。時折、はるか遠くで車の走り過ぎる音が聞こえる。ふいに三輪は、あと一時間足らずで自身の誕生日を迎えることに気づく。記憶に残るという点ではなかなか面白い一夜だが、大の男が二人きり、あえて誕生日など持ちだすこともない。
 ちびりちびりとバーボンに口をつけながら、いつしか話題は別のところにも及ぶ。
 徒然に三輪は、繰り返し見る不快な夢のことを語る。どこだか知らない、原因も不明だが、ともかく何らかの災害によって街が破壊され、すべての人々が惨死してしまう夢。昼日中というのに空は暗く、黄砂に覆われたように不吉な色をしている。三輪は人けの絶えた音のない通りを独りぼっちで歩いている。やがて彼は一軒の見知らぬ店へ、商品を掠奪する目的で忍びこむ。店内は明かりが消え、表と同様、物音ひとつしない。三輪は不馴れな犯罪者らしく、罪悪感と警戒心がないまぜになった焦躁の気分で、慌【あわただ】しく棚の品を物色しつづける。と、そこで、店の一隅からこちらを見据える、刺すような視線に気づくのだ。心臓が一拍、飛び跳ねるように高鳴る。手負いの獲物の目つきで闇を見透かすと、暗がりの奥にとうの昔に死んだはずの祖母が坐っており、蔑んだ表情【かお】でじっと彼の行為を凝視している……。
 饒舌とはいかないまでも話は尽きない。知らぬ間に日付は変わり、三輪は四十二歳になっている。それからまもなく、彼は流れこんでくる冷気を頬に感じ、ハッとする。思わず目をそばだてると、霞【かすみ】の向こうに白く浮かんだ障子戸が、たしかに開いている。
 ――来た!
 青木が短く叫ぶが、それは三輪の耳にもようやく届くぐらいの声なき声だ。
 そこから先は、すべてが青木の証言どおりである。鈍色の鉄仮面。暗がりでもそれとわかる青いコート。青木と同じぐらい背が高い。特に目的もない様子で、椅子に腰かけた二人の周りをうろつきまわる。手を伸ばせば容易に触れることのできる距離。壁を蠢く化物のような黒影。そうしていっさいは短時間のうちに終わる。襖を開け、廊下の闇へ吸いこまれてゆく後姿を、三輪は放心状態で見送る。
 こうなっては、もはや妄想では済まされない。いまや、「もう一人の青木謙造」と評した青木の気持ちが、おかしなぐらいすんなりと三輪には諒解される。あれは、青木だ。当の本人がずっと眼前にいたにもかかわらず、たしかにあれは青木なのだ。現れたのが「もう一人の三輪志津夫」でなくてよかったと、心から三輪は思う。
 それぞれの感慨に耽ったまま、しばしの静寂が続く。やがて、ぽつりと青木が口火を切る。
 ――先日来、俺は奇妙な想念に囚われているんだ。
 ――奇妙な想念?
 ――主客の逆転……要するに、Doppelgangerの出没について語るべき真の主体は、俺ではなくあの仮面の男なのではないかということだ。俺はあの男の出現に頭を悩ましているが、実際はこの俺のほうこそが招かれざる闖入者なのではないかとね。あいつはけっしてこちらに目を向けない。奴には俺の姿が見えていないんだ。奴には俺が見えない……ただ、そこに何かが存在しているという気配だけは察知して、それを訝しんでいるんじゃないか。だから奴はすぐにこの部屋を出ていくんだろう。俺が外出しているあいだは、案外のんびりとここに居坐っているのかもしれない。
 ――それは、本気でいってるんですか。
 ――本気だよ。いや……どうだろう、わからないな。
 ――だったら、こうしてあなたと話している僕もまた幻影でしょうか。
 ――お前はさっきから、この世のものならぬ物の怪と会話しているのかもしれんさ。それが証拠に、ふだん俺と目を合わせないあの男が、さっきはたしかにあのくすんだ仮面の奥からお前を認めたようだった。一瞬、意外そうな素振りを見せたのに気づかなかったか? 奴にはお前だけが見えていたんだ。
 いつになく虚ろな青木の声に、三輪は急にうそ寒さを感じて身じろぎをする。
 ――それなら、この家の本当の主【あるじ】は鉄仮面の男ですか。僕はそんな奴と知りあった憶えはないし、たしかにあなた本人から頼まれて、あなた本人を訪ねてここへ来たつもりです。違いますか。
 ――いや、そのとおりだ。
 ――あまり考えこまないほうがいいですよ。妄想の泥沼に嵌【はま】って、お呼びでない物の怪まで呼び寄せることになりかねませんから。
 ――そうだな。それが罠なのかもしれない。いずれにせよ、今夜の催し、予行演習はつつがなく終了だ。大事なのは次回の本番だよ。次こそはこちらから攻めに打って出る。また協力を頼む。
 かくして、決行は三日後の晩と決まる。


   3

 あくる日、明け方に自宅へ帰って昼すぎまで寝ていた三輪は、一本の電話で澱んだ眠りを破られる。相手は青木の妹、坂井澄子である。いわく、このところ兄の様子がおかしいのでずっと気にかかっていたとのこと。頻繁にというわけにもいかないが、時折は生家である北沢の邸を訪ねているようだ。この日、午前中に所用で電話をかけた際、ついでにくだんの気がかりについて問うてみた。すると、これまで何も話してくれなかった兄の口から、三輪が力になってくれるから大丈夫との言葉が出たという。
 ――兄の身に何が起こっているのでしょうか。
 大丈夫どころか、余計に不安が募った様子で澄子はいう。妹を安心させるつもりの青木の返答は、何かしらの問題が発生しているという事実を暗に認めたに過ぎない。
 昨日の今日で、むろん三輪には手に取るように事情がわかる。だが、説明しようにもすぐには上手い言葉が見つからない。都心まで出る用事があるという澄子と、三輪はこの日の夕方、会う約束をする。
 ――兄はこういう差し出口を嫌いますから、私が三輪さんに連絡したことは内緒にしておいてください……。
 電話を切り、煙草をくゆらせているうち、寝起きの頭が冴えてくる。一夜明けて、ゆうべの出来事に対する捉え方もいくぶん変わっている。青木の身を危惧する気持ちが、三輪のなかで徐々に強まりだしている。
 坂井澄子は、楚々とした物腰、和装の似合う美しい人である。
 待ちあわせた喫茶店の片隅で、三輪は簡潔に状況を伝える。誰が聞いても驚くべきその内容は、明らかに相手の想像を超えるものだったようだ。
 ――兄は幻覚に怯えてノイローゼになっているのではないでしょうか。
 小さなハンカチを握りしめながら澄子はいう。
 ――たしかに青木さんはすこし参っているようでした。しかし、厄介なことには、僕もまたその鉄仮面の人物を目撃しているのですよ。僕は正気のつもりです。けっして幻なんかではなかった。
 ――あのように古い家ですから、では、例えば幽霊のようなものでしょうか。
 ――幽霊ですか。これがヨーロッパの古城なら、甲冑騎士の霊が現れても不思議はないでしょうが……過去に何かそのような現象を体験されたことがおありですか?
 ――いえ、私はまったく。
 ――じつは僕もそういったものはいっさい信じていないのです。第一、ゆうべの奴はもうちょっと現実味がありましたよ。まず間違いなく、あれは現世の畳や廊下を踏みしめている人間でしょうね。だとすれば、むしろ幽霊よりもたちが悪いと思って、それで僕は気を揉んでいるのです。
 ――それはつまり、兄が何か悪意ある企【たくら】みに巻きこまれつつあるということでしょうか。
 ――思い過ごしだといいのですが。しかし、いたずらにしてはいささか念が入りすぎていますからね。
 ――明後日……。
 と、思いつめた表情で澄子がいう。
 ――私も同席してよろしいでしょうか。
 ――それは青木さん次第です。ただ、僕としては、今回は遠慮してもらったほうがよいかと思います。なに、鉄仮面は出る気満々のようですから、機会はまだまだありますよ……。
 季節柄、窓の外はあっというまに暗くなる。二人は店を出て、寒空の下を駅へ向かう。歩調を合わせながら、会話はいまさらのように互いの近況に触れる。澄子もまた郊外で寂しい生活を送っているらしいことを三輪は察する。
 ――兄は心当たりについて話しておりませんでしたか。
 その一言で、話題はおのずと本題に還る。
 ――思い当たる節はないようでした。ただ、それを自分の分身、いわゆるDoppelgangerではないかと疑っている様子はありましたね。
 ――自分の分身……。
 つぶやいて、押し黙る。どことなく不自然な気配が漂う。
 ――その口ぶりは、何か思うところがおありですか。
 逡巡の末、澄子の口から語られるのは「もう一人の兄弟」の存在である。それは青木謙造の双子の弟だという。幼少時、神隠しにでも遭ったように家のなかで姿を消した。祖母か両親が殺したのではないか……そんな疑念が兄の胸中に巣くっているのだと、困惑顔で妹は打ち明ける。三輪は唖然とする。これまた異様な話というほかない。
 ――お兄さんとの付きあいは長いですが、いまの話は初耳です。
 ――私もつい先日までまったく知らずにいたのです。兄と私はひと回りも離れていますから、もしそれが本当なら、もう一人の兄とやらは、私が生まれたころにはとっくに行方不明だったことになります。
 ――青木さんは、最近になって突然その告白をなさったのですね。しかし、家族の手で殺されたというのは穏やかじゃない。どういうわけで青木さんはそんな疑いを持つに至ったのか。子供時分に何かを目撃したのでしょうか。
 ――私にはとうてい信じがたい話です。祖父母も両親もとうに他界していますから、いまとなっては確かめることもできませんが。
 ――一卵性の兄弟というのは、考えようによっては分身と呼べないこともないですね。
 何気なくそういったあと、三輪はみずからの言葉にどきりとする。
 ――もしやあなたは、鉄仮面の正体がその行方知れずのもう一人のお兄さんではないかと疑われているのですか?
 この問いには答えず、澄子は自問するようにつぶやく。
 ――仮面……兄とそっくりの鉄仮面……どうしてそんなものがあるのでしょう。誰かが意図して作らないかぎり、存在のしようがありませんわね……。
 そのとおりだ。仮面、仮面、仮面。そこが重要なところだ。何者かの意思。非常に能動的な意思。
 ――双子というと、幼いころのお二人はよく似ていたのでしょうか。
 ――さあ、せめて写真でも残っていればよかったのですけど。
 記憶するかぎり、澄子が目にしたことのある写真は謙造のものばかりだったという。三輪は心密かに青木家のアルバムを想像してみる。数々の写真に写る幼年期の青木謙造。だが、そのうちの何割かは「もう一人の青木謙造」……殺された双生児の弟なのかもしれない。あらぬ妄想を逞しくして、ふと三輪は背筋に薄ら寒さを覚える。
 ――あの鉄仮面の容貌は、青木さんではなく、双子の弟さんを模【かたど】っている可能性もありますね。
 ――まさか……だって、仮面は子供の顔つきではなかったのでしょう?
 ――ええ。現在の青木さんの顔でしたよ。
 幼少時に殺害された(と、青木が信じている)双生児の弟が生きており、成人したいま、やはり青木そっくりの容姿をしているということはありうるだろうか? 例の鉄仮面の正体がその弟ならば、仮面の下にも青木そっくりの顔が隠されているということだろうか。いや、そんな馬鹿げた話はない、と三輪は思う。そもそも、あれほど精巧な仮面が何のために必要なのか。素顔を隠蔽することが目的なら、黒覆面なりマスクとサングラスなりでもこと足りるはずだ。
 行方知れずの双子の片割れ。こんな重要な話をゆうべ青木はなぜ打ち明けてくれなかったのだろう、と三輪は訝しむ。明後日、改めて本人に確かめなくてはと思い、だが、この件については迂闊にこちらから切りだせないと気づく。当面のあいだ、こうして坂井澄子と接触を持ったことは青木には内緒なのだから。
 高架下をくぐり抜けて駅前に出る。行き交う勤め人の灰色の群れに巻かれながら、改札の前で二人は、共に不可解な面持ちでぎこちなく微笑し、別れの挨拶を交わす。



ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーの月刊Webマガジン|Webミステリーズ!