続く『カジュアリーナ・トリー』は、佳編揃いの短編集で、充実の一冊です。中では「手紙」の評価が高く、また、この短編は、かなりミステリに接近しているのですが、私には、大騒ぎするような作品とは思えません。主人公はマレー半島のイギリス人弁護士で、ある夫人の正当防衛による殺人事件を抱えている。誰もが被告無罪を信じているこの事件に、突然、出来事の見方を百八十度変えてしまうような手紙が存在することがわかって……というものです。モームがミステリとして書いていないことは百も承知で、しかし、私はこういう話はミステリとしての魅力がなければ、小説としてもつまらないと思うのです。モームはおそらく、被告の女性を描きたかった、とりわけ企みが発覚し、夫にそのことを知られたのちのそれ、とりわけ結末のそれを描きたかったのでしょう。しかし、そこのところを生かすのは、中盤の事件を追っていく展開と、そこで直接間接に描かれる伏線としての夫人像のはずです。そこが凡庸では、ミステリ的部分がつけたしのように見えてしまいます。
 そのことは、やはり秀作の誉れ高い、そして、今度は私もそれに賛同する「園遊会まで」と、比較すれば分かります。モームの南海ものには珍しく、この話はイギリスでのガーデンパーティの直前という時間設定です。夫を亡くしボルネオから戻ってきた娘を迎えての園遊会を間近にして、どうも、その娘の様子がおかしい。そこへ妹が、ボルネオを訪れたことがある教会監督から、義兄の死が喉を掻ききっての自殺であったことを聞き込んできます。家族は遠隔の地でなにが起きたのか、娘の重い口を開かせます。
「手紙」同様、この作品でも、読者は事件の真相には、じきに思い当たるでしょう。しかし、ここで肝心なのは、読者とは比べ物にならないほど、その真相に気づきたくはない、娘の家族たちが、気づきたくがないゆえに、読者よりも後にゆっくりと真相に気づいていくこと、気づかざるをえないことを描くのが眼目だからです。のろのろとした足取り(そのなんとサスペンスに満ちたことか)で、なにが起きたかに到達した家族たち。その果てに父親が軽く腹をたてたように言うのが、「実に身勝手な女だよ」という言葉だった。画龍点睛とはこのことでしょう。
「環境の力」は、自らの差別感情に気づいた(気づかされた)女性の話で、「悪いのはあたしです」と言いながら、己が嫌悪感をどうすることも出来ない。正確にいうと、差別感情だけでもない、もう少し混沌としたものなのですが、現代の目でみて貴重なのは、突然それに気づかされた人間の戸惑いが描かれているからでしょう。現代の差別感情は、まず教育されることがありますからね。とりわけ日本やアメリカでは。
 モームが南海もので描いたのは、アジア太平洋から逆照射されたイギリス人ですが、その背後のイギリス社会に、結婚という制度が、強固な束縛をもって存在する――女にとっても男にとっても――ことを示しています。しかし、まあ、これはミステリとは無関係。
 三番目の短編集『アー・キン』の巻頭にあるのが「密林の足跡」です。前述したとおり、『黄金の十二』に一票入っていますし、ちくま文庫版の惹句にも「推理小説としても傑れている」と紹介されています。しかし、私には買えません。話全体が、一人称の語り手である作家が、警察署長から過去の事件の話を聞くという体裁です。捜査小説としては平凡で、最後のサゲのアイロニーが眼目でしょうが、そうだとしても、事件の部分がつけたしに見えてしまう。そうなるのは、結末の眼目の部分と照応するものが中盤に欠けているからでしょう。
「手紙」「密林の足跡」と読んできて、私が不満に感じるのは、弁護士や警察官といった人たちが、話の中心となっている場合でした。彼らは謎の手紙や正体不明の犯人と向き合わざるをえませんが、その部分が、小説の眼目となる部分を招くためだけの機能に終わっているという点に不満を感じたのです。ミステリ的な部分がつけたしに見えるというのは、そういうことです。一方「園遊会まで」の家族は、一家の社会的存在がかかってしまった、ボルネオでの事件の経緯を説明する娘の話に、(読者同様、いや、それ以上に)かたずをのんで耳を傾けます。ここには、謎を解こうとする人間はいませんが、解かれる謎のもたらす結果が切実な人々が存在するのです。

『アー・キン』では、それまでの三人称小説から脱して、一人称の作品も書くようになっていますが、「密林の足跡」といい「書物袋」といい、一人称の語り手が、過去の事件を聞くという形式が、必ずしもうまくいっていないように感じます。『カジュアリーナ・トリー』『アー・キン』の間に、モームは『コスモポリタンズ』の諸編を書くわけですから(ただし『コスモポリタンズ』がまとまるのは『アー・キン』の3年後の1936年)、この人称の変化には、その影響を見たくなります。『コスモポリタンズ』はほとんどが一人称小説です。では『コスモポリタンズ』はつまらないのか? そんなことはないんですね。
 1924年からおそらく1929年にかけて、アメリカの雑誌〈コスモポリタン〉に掲載された掌編を集めたものが『コスモポリタンズ』です。アメリカの雑誌の常識であった、巻頭ページに冒頭を掲載し、以降を雑誌の末尾付近にダラダラと載せる形を避ける。すなわち、見開きにイラスト込みで収まる枚数という制限が課されたのです。これをもってショートショートの始まりとする説を読んだことがあります。その苦労と効能は、序文にモーム自身が書いています。書名は掲載雑誌から取ったことは一目瞭然ですが、同時に、世界じゅういたるところに住む人々のポートレイトという内容を、このうえなく適切に示しています。
 おそらく内容からの要請と思われますが、この短編集は、ひとつだけ毛色の変わった作品(「審判の座」)をのぞいて、すべて一人称小説です。書籍の掲載順と発表順が一致するのかどうか、調べがつきませんでしたが、単行本前半は、単純なポートレイトが多いのに対して、後半にいくにしたがって、ヴァラエティが出てくるところから、発表順に近い並びではないか。ヴァラエティの正体は、自他ともに認める面白い話作りの達人ぶりを、短い枚数の中で取り戻したということではないかと、推測しているのです。
 私は「ルイーズ」という一編を、『コスモポリタンズ』中の白眉と考えています。この作品は、タイトルロールであるルイーズという女性の造形に、もちろん、その魅力を負っています。しかし、もう一点忘れてはならないのは、語り手の「私」の活躍ぶりです。単なる語り手を超え、聞き手、観察者といった立場も超え、ルイーズと対決してしまう「私」は、まるで名なしのオプのようにも思えます。編中の他の「私」が、そうした領域に踏み込んでいないだけに、さらに効果があがっています。サキのときとは違った、一人称の効用がここには見られ、それが、作品後半をどれだけサスペンスフルにしていることでしょう。私はモームからひとつと言われれば、躊躇することなく、この掌編を採ります。

 モームとミステリの関係については、彼自身が逆説的にではありますが、説明しています。「(物語に耳を傾ける)楽しみが損なわれずに現存していることは、推理小説の流行で証明される。最高のインテリでも推理小説を読む。むろん多少低く見ているのだろうが、とにかく読む。これはきっと、インテリが好む心理小説、教養小説、精神分析小説では、物語を聞きたいという欲求が満たされないからに違いない」(『サミング・アップ』行方昭夫訳)モームが自らの得意技と信じる、〈面白い物語〉を受け継ぐ可能性があるのは、ミステリだと言っているのです。
 モームの側から見れば、これだけで充分なのでしょうが、ミステリの側からながめると、ことはもう少し厄介です。なぜなら、面白い話の面白さを解説することに、モームはあまり具体的には踏み込みませんが、ミステリは手法や形式にことのほか自覚的だからです。モームはただ書いていればよかったのですが、ミステリは「これはミステリだろうか?」と自問することを余儀なくされるからです。少なくとも、なにかに憑かれたように書き上げたのち、現代の作家は、おそらく一瞬そう考えるからです。別に、書きあがった結果、それがミステリでなくても、何の問題もありません。それでも、そう自問することに変わりはないでしょう。「私はいわゆる『落ち』があるのを恐れなかった」とモームは胸を張れましたが、現代の作家は「いわゆる本格であることを恐れなかった」とか「いわゆるハードボイルドであることを恐れなかった」と胸を張るわけにはいきません。そこに、ある種の不幸を私は見ますが、しかし、まあ、これはモームとは無関係。


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。