2種類のベストテンを作ったことを「西洋のベスト表では、純本格の優れたもの(手品趣味の最も極端なものは「完全脱獄」)と非本格の奇妙な味で優れたもの(最も本格に遠い一例は「ジョコンダの笑み」)とがゴッチャになっていて、どうも同じ物差では計りにくい」ので「別々のベスト表にして見たのである」と説明しています。「完全脱獄」というのは「十三号独房の問題」の、最初の邦訳題名です。
 この「私の二種のベスト・テン」は、『世界短編傑作集1』の序文をはじめ、引用言及されることが多いのですが、以下の補足は往々にして略されるので、要注意です。すなわち「ポーの場合などはちょっと分けにく」くて、「ドイル、チェスタートンなどの場合も同様」とした上で「ポー、ドイル、チェスタートンの三人は、短篇探偵小説最高の作家と考えているので、一方だけに入れるのでは気がすまず、多少無理をしても両方に入れたかったわけである」と書いているのです。したがって、「奇妙な味」とはなにかと考える場合、この三人の作品は、ちょっと脇にどけておいた方がいいようです。
 その上で、乱歩は「奇妙な味」という言葉について解説していきます。この文章の後半を成す「所謂『奇妙な味』について」という一節なのですが、それは次のように始まります。
「一年ばかり英米の短篇を読みつづけて、トリックのメモを取ったほかに、どんな収穫があったかというと、その一番大きなものは、従来気づかなかった『探偵小説の奇妙な味』というものが、ハッキリ分かったことであった」
「奇妙な味」という概念は、のちに「トリック類別表」に結実する作業に次いで、大きな収穫だったと言っている点に注意してください。「探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれていく径路の面白さを主題とする文学である」と考えていた乱歩が、この定義からはずれているとは言わないまでも(しかし、もしかしたら、はずれているかもしれません)、それとは別種の魅力や美点をも、欧米の読者は短編ミステリに見出していることに、気づいたのです。そして、そのことに、大きな意義を見出しているのです。私は乱歩のなにが好きかといって、こうしたときの態度の、公平さ謙虚さが大好きで、乱歩に一番に学ぶべきは、その点だとさえ考えています。
 脱線しました。まず、乱歩は「奇妙な味」の実例を列挙します。「オッターモール氏の手」「放心家組合」、オルダス・ハックスレー「ジョコンダの微笑」、H・C・ベイリー「黄色いなめくじ」「二壜のソース」、ドロシー・セイヤーズ「疑惑」「銀の仮面」「夜鶯荘」「爪」
 そして「黄色いなめくじ」と「放心家組合」は本格ものと言えるが、他は非本格だとしています。本格ミステリの形をとっているかどうかを問題にするなら、私は「二壜のソース」は微妙なところにあると考えますが、それは、いまは無視しましょう。何度めかの指摘になりますが、ここでは、「奇妙な味」と本格ミステリは、必ずしも対立する概念ではないことを、押さえておいてください。
 乱歩は「西洋の探偵小説愛好家が選ぶ非本格作品には、一つの共通した性格がある」「この共通した性格を私は『奇妙な味』と云う」と主張します。「奇妙な味」は本格であることを拒まないが、非本格(ですぐれた作品)には共通して現われるというわけです。ただ、それがどういうことかというと「どうも一口では説明出来ない」のです。乱歩は懸命に説明します。当時邦訳のあった「放心家組合」「二壜のソース」では、後者を「テーマが異常すぎて必ずしも適例でない」とし、前者を「適例」としています。「奇妙な味」とは、テーマの異常性とは区別されるものなのです。そして「放心家組合」の「詐欺師の手先の青年外交員が、素人探偵に詐欺を看破され面詰されても、まるで馬鹿のように無感動に、平然として、ヌケヌケとした嘘を云う、あの辺の会話のやりとりに、私の所謂『奇妙な味』が最も濃厚なのである」と書きます。乱歩は「放心家組合」をドイルの「赤髪連盟」の類型としていますが、「赤毛組合という着想のヌケヌケしさに、やはり奇妙な味があり」として、「ヌケヌケ」という言葉が共通して出てきます。また、「奇妙な味を最もよく備えている作品」としてウォルポールの「銀の仮面」をあげ、「あどけなく、可愛らしく、しかも白銀の持つ冷ややかな残酷味」と、その魅力を表現するのです。「放心家組合」は「一種あどけない残酷味が漂っている」としていますし、「二壜のソース」は「平然としてあどけなく、ユーモラスに行われる極悪、原始残虐への郷愁」、チェスタトンの短編の全体を通じて見られる特徴として「ヌケヌケとした、ふてぶてしい、ユーモアのある無邪気な残虐」があると指摘しています。
 乱歩は「奇妙な味」を総括して、本格の持つ意外性が作為のものであったのに対し、「無作為」の意外性をめざした結果出てきたのではないかと、仮説を提示して、文章を終えています。この仮説は、いかにも苦しいし、その後、この部分の論旨を発展させた人もいないようです。私もこの仮説を採る気にはなれません。

 乱歩が「奇妙な味」として取り上げた作品群を、私なりに読み返してみると、共通してある感じは持つことができるので、それが「奇妙な味」なのだろうとは思いますが、それを踏まえた上で、それぞれが異なってみえることの方が大切に思えます。
 たとえば、「放心家組合」が収められている『ユージェーヌ・ヴァルモンの勝利』について、エラリイ・クイーンは「ロバート・バーが意図したものはフランスおよびイギリス両国の警察機構における国家的差異の風刺だった」と書いています(クイーンの定員)。それがどういう風刺なのか、私には分かりませんが、「放心家組合」の結末、私立探偵の勝手な行動は、訴追の妨害になり、犯人を利することになるという風刺が、この時代のものとは思えないほどシャープなことは確かでしょう。ミステリ作家が、実作にあたってそのことを意識するようになるのが、約半世紀後の警察小説の時代から。およそ1世紀経った現在、犯行現場に残ったものを、しろうと探偵がいじろうものなら、リンカーン・ライムに怒鳴り倒されてしまいます。私は、放心家組合という詐欺の仕組みと同じくらい、この皮肉に魅力を感じているのです。
 またH・C・ベイリーは、ここにあがっている「黄色いなめくじ」「豪華な食事」がクイーンによると「二粒の真珠」だそうです。ともに、子どもに対する苛酷な状況が隠されていることを題材にした作品で、その点での先見性を認めることはできます。しかし、謎ときミステリとしての創意に欠けているので、評価する気になれません。「黄色いなめくじ」における、乱歩のいう「奇妙な味」にしても、この場合は、謎ときミステリの形であるがゆえに、描ききれていないように私には思えます。
 乱歩は、ウールリッチの「爪」やクリスティの「夜鶯荘」にも、奇妙な味があると言いますが、私は首を傾げるばかりです。おそらく、これらの作品の奇妙な味の奇妙さは、広まりすぎて当たり前のものになったのでしょう。ただし、読み返してみると「爪」は平凡なオチの捜査小説ですが、「夜鶯荘」は第1回にも書いたように、再読に耐えるサスペンス小説でした。
 とはいえ、乱歩が「奇妙な味」と称えた短編群は、いずれも一読の価値があるものばかりです。20世紀後半の短編ミステリの進歩は、尋常なものではありませんから、20世紀前半の作品は、古びて見えることはあるでしょう。しかし、少なくとも、進歩の始まった地点をそこに読み取ることは可能です。また、乱歩の示した価値観を咀嚼し発展させることは、貴重なことでもあるでしょう(たとえば、瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』「悪くて無邪気で」)。しかし、なにより大切なのは、探偵小説という混沌とした世界の中に、「奇妙な味」としか呼びえなかった魅力を発見した乱歩の姿勢に倣うこと。「奇妙な味」とはなにかを定義することよりも、その方がずっと重要なことのように、私は考えます。


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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