さて、「開いた窓」には、技法に関わる重要な問題があります。結末の一行です。都筑解説では「サキが現代の作家だったら、この一行は、書かなかったにちがいない」と書いていて、それは確かにその通りなのですが、ちょっと、それだけ言っておしまいにはしてしまえない問題がある。「開いた窓」は、訪問客とその相手をする若い娘の会話から、ある人物の妄執が浮かび上がってきて、その果てに、ありえない奇怪な現実を目撃し、訪問客と読者に驚異がつきつけられます。その驚異は、最後の場面で、別の恐ろしさ不気味さに反転するのですが、ダメ押しするかのように結末の一行がつくのです。「開いた窓」だけに関して言うなら、この不気味さの反転は、結末の一行がなくても過不足なく通じるでしょう。考えオチみたいになりますから、読者によっては、それでは分かりにくいと思う人がいるかもしれませんが、逆に、この一行があるがゆえに野暮ったく感じる人もいるかもしれません。ただ、乱暴に言ってしまえば、こういう場合その一行は省略してしまえというふうになったのが、20世紀の短編ミステリの進歩というものです。
 ところが、あるストーリイが展開していって、その結末が来たところで、それまでのストーリイ展開からは脇役だと思われていた人に、一刷毛入れることで、話のオチにしてしまうというのは、サキのお気に入りの手段でもあるのです。「開いた窓」も、そのヴァリエイションと見えなくもありません。ただ、「開いた窓」は、それまでの主人公である訪問客から、反転した先の人物像が、あまりにも意外かつ鮮明で、また、作品全体が、実はその人物の話だったという構造になっているために、わざわざ一行割かなくても、それを伝えうることになってしまいました。
 たとえば初期の作品「ある死刑囚の告白」と比べてみましょう。これは、ひょんなことから無実の殺人罪で死刑になった男が、その経緯を死の直前に教誨師に話すというものです。おそらくは19世紀に掃いて捨てるほど書かれただろう、告白というパターンの、それだけを取り出せば、新味のない話です。死刑を逃れられなくなるまでのその男の運命は、それなりに奇妙で、ページをめくらせます。しかし、結末にいたって、単なる話の枠組みとして必要なだけのはずの教誨師が、帰宅して書斎の本を開く、その一場面を描くことで、サキは死刑囚の告白が長い前置きにすぎないことを読者に知らせ、小説に仕組むべきはこちらの方なのだと語りかけてくるのです。
 ほかにも「ガブリエル-アーネスト」「ビザンチン風オムレツ」といった作品では、ストーリイそのものが一段落したのちに、後日談ふうの短いパラグラフがサゲの役目を果たしています。クローヴィスものの「ショック戦略」では、ラストの一行でクローヴィスこそが、したたかな主人公であることが示されました。
 先に、技法に関わる問題と書きましたが、それは100パーセント技術的な問題ということではありません。もう少し重い意味があるように思えます。というのは、サキの小説では、事態そのものよりも、その事態を人々がどう受け止めるかが問題であり、それがその小説の命である場合が、往々にしてあるからです。その代表例が「エズミ」でしょう。一連の事件そのものよりも、それを受け止める男爵夫人の受け止め方こそが、この小説をブラックユーモアの逸品にしているのです。「ガブリエル-アーネスト」は超自然的な怪異譚として成立していますが、その怪異は平然と、しかし忘れられることもなく、日常の中に消化されてしまう。ちょうど、「エズミ」の残虐さが、男爵夫人の中では平然と日常として消化されているように。
 この技法というか、サキの作法、小説を構える上での特徴が、もっとも活きていると私の考える傑作が、「セルノグラツの狼」です。
 ハンブルクの富裕な商人のコンラッドは、男爵夫人になっている妹を、セルノグラツの城に訪ねています。男爵夫妻は古城を買い取って住んでいるのです。状況は大陸のように読めますが、当時のドイツやオーストリアで、男爵がどのくらい立派なものなのか、私には分かりません。イギリスでは成り上がりの男爵が粗製濫造されていて、外国を舞台にしても、登場人物は実はイギリス人という、シェイクスピアなんかに見られる手が、ここでも使ってあるのかもしれません。それはともかく、食事の席上で男爵夫人は城に伝わる伝説を披露します。城内で誰かが死ぬと「村じゅうの犬と、森じゅうの獣が、夜っぴて吠える」というのです。しかし、義母が亡くなったときに、そんなことは起こらず、ただのお話だったと男爵夫人は結論します。そこへ、普段はその場にいるだけで口をひらくことのない、シュミットという白髪の女家庭教師が、雇い主である男爵夫人に異を唱えます。誰でも死ねばコトが起こるのではなく、セルノグラツの一族がこの城で死ぬときにだけ、「臨終の前に、おちこちに狼があらわれて、森の端で吠える」というのです。家庭教師ふぜいが失礼なと、コンラッドをのぞく一同は不快感をもちますが、あろうことか、この家庭教師は自分がセルノグラツの一族の生き残りで、祖父はこの城に住んでいたと口走る。彼女が座をはずしたのち、男爵夫妻たちは、口々に彼女の言うことはデタラメだと決めつけ、男爵夫人は、正月のお祝いがすんだら暇をだすと宣言します。ところが、家庭教師は病に倒れ、寝込んでしまうのです。やがて、彼女の死期が近づいてきます。
 男爵夫人たちとは逆に、読者には、彼女がセルノグラツの一族であることは、当然のことのように思えるでしょう。そして、一族が城で臨終を迎えるときの怪異を待ち受けることになります。起こるべきことが、避けようもなく起こってしまうというのは、怪奇小説のひとつの型でもあります。そういう意味で「セルノグラツの狼」は怪奇小説として間然するところがありません。男爵夫人たちは伝説を目の当たりにしますが、信じることができない。少なくとも、もっともな理由をつけて、超自然的な事態ではないと、自らを納得させようとします。心から伝説を信じていないのか、認めることを拒んでいるのかは、分かりません。そして、訳文にして2行の卓抜な結末をサキはつけます。セルノグラツ城の伝説は、かくして男爵夫人たちの日常的な些事の中に取り込まれていくのですが、この小説の素晴らしいところは、そうするためには、男爵夫人たちは家庭教師をフォン・セルノグラツと呼ばねばならなかったという点にあります。ここには伝説の迫力があり、同時に、それに目をつぶり、やりすごすための、卑小な日常の手続きが対置され、その手続きを取り繕うために、また目をつぶる。この短編のほろ苦さの正体は、そんなところにあるのではないでしょうか。

 この稿を書くにあたって、参考書がわりに眺めたイギリスの短編小説史の本では、サキとウッドハウスのペアで1章になっていました。私などには奇異な感じに映りますが、そういうものなのかもしれません。well-madeという言葉でくくっていましたから、人工的あるいはアーティフィシャルな小説だということなのでしょう。もっとも、だから、ミステリとの類縁性を認めうるのかもしれませんね。
 さて、続いてアンブローズ・ビアスについて書くのですが、さすがに、ちょっと長くなりすぎそうです。ビアスはサキよりもやや前の時代の作家で、南北戦争に従軍し、それに題材を取って、小説を書き始めました。詳しくは次回に書くことにして、ここでは、私好みの、あまり評判になっていない短編を、ひとつ、前座として紹介しておきましょう。
『ビアス選集』の第5巻に入っている「スィドラー氏のトンボ返り」です。友人のジェロームがインディアン殺しで死刑になる。その死刑を阻止しようとした顛末を、スィドラー氏本人が語るという体裁です。スィドラー氏はどうやら強引な人らしく、ねばって知事から恩赦をとりつける。ところが、それは死刑執行当日の朝で、刑務所のある町までは15マイルもある。刑務所のある(つまり処刑の行われる)町の保安官に電報で恩赦を知らせようとすると、電報局員はみんな処刑を見物に出払っているのです。駅へ急ぐと、鉄道職員も絞首刑見物のために休暇をとっていて、列車が出ません。馬を探しても、みんな死刑見物用に駆りだされている。「今にして思えば、私の恩赦運動が知れわたっていたものだから、慈悲による助命を邪魔しようという悪辣な陰謀があったのだ」となげくスィドラー氏は、余儀なく、死刑までの7時間で15マイルを歩くはめになる……。
 という具合に、ほとんど冗談のようなお話に、そんなバカなというようなオチがつくところは、an American tall tale bitter tasteとでも呼ぶにふさわしい1編でした。

小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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