コンテストの最初の2回にQ・パトリックが投じた「十一才の証言」「ルーシイの初恋」が、いまとなっては少々古びていることは、以前指摘しておきました。ひとつには、これらの作品が結末の意外性に向けて構成されているのが、その原因であるように、私には思えます。比較すれば、「十一才の証言」がそこに頼りきっているのに対して、「ルーシイの恋人」は、より、結末を先読みされることに耐えるように書かれている。その分、「ルーシイの恋人」に、より現在も面白さがあると考えます。
「十一才の証言」は、この作家が得意とする、アンファンテリブルものですが、『37の短篇』に収められた「少年の意志」や、『世界短編傑作集5』に入っている「ある殺人者の肖像」(親殺しの肖像)といった作品と比べると、その差は一目瞭然です。「少年の意志」は主人公の性格の弱さにつけこんで、食い物にしていく、美しいけれど粗暴な少年(イタリアという設定も効いています)を描いて、ヒュー・ウォルポールの「銀仮面」を連想させないでもありません。一方、「ある殺人者の肖像」は、「姿を消した少年」とともに、クェンティンがイギリス人という出自を表に出した作品ですが、被害者の肖像で締めくくるところに、余韻を見せました。ともに、おそるべき子どもを淡々と描いていって、種も仕掛けもないことこのうえない。この2編は短編集『金庫と老婆』に収められていて、集中でもすぐれた作品です。『金庫と老婆』はホイーラーの単独作品とされていますが、ちょっと注意が必要です。というのは、確かに中編「金庫と老婆」はヒッチコックのテレビドラマの原作として書かれたらしく、そこでのクレジットを見てもホイーラーの単独名なのですが、では短編集『金庫と老婆』に収められたものが、すべてそうなのかというと、簡単には分からない。とくに「ある殺人者の肖像」には不明な点、怪しい点が多くて、『世界傑作短編集』には42年の作とありますが、作風からは戦後の作品に見えます。それに、イギリスで少年時代をすごすことが、重要なモチーフとなっている、この作品と「姿を消した少年」は、登場する少年の年回りを考えると、ホイーラーよりもウェッブに近くて、これがホイーラーの単独作品とは、ちょっと考えづらいのです。
 話がそれました。第3回コンテストの2席作品「母親っ子」は、題名どおり、母親固着の主人公が、どうもユダヤ人らしい娘に言い寄られることで、母親殺害を考える話です。ここには、まだ結末に意外性を持たせようという意図が見えますが、その意外性が作品の要点である主人公の性格を描き出すことと不可分な点が、より洗練の度合いを増したところでしょう。翌年の「汝は見たもう神なり」は、少女に対して性愛を感じる主人公を描いて、この手の話の走りと言えるでしょう。翌年の「少年の意志」では、美しさと無邪気な残酷さを併せ持った少年を描きました。この三作で、Q・パトリックは、ある種の異常性は異常なのではなく、人のうちに存在することが珍しくはないのだということを、示してみせました。もっとも、半世紀経って、新しい読者が、これらの短編に面白さを感じることはあっても、衝撃を感じることはないだろうと、私は思います。それは、そのことをもって、これらの短編に瑕があることを意味するものではないでしょう。
「はるか彼方へ」は今世紀に入って初めて邦訳が出ましたが、クライムストーリイとして平凡な作ではありません。メキシコに対する白日夢のようなイメージが動機を形成するというユニークさと、それと対照的に、いじましいまでに卑俗な欲望が、主人公の犯罪計画を粉砕する、そのコントラストが面白いからです。ただし、この作品の翻訳が遅れた理由は、分からないでもありません。翌年の「鳩の好きな女」と比較すると分かりやすい。「鳩の好きな女」は、粗暴で異様な外国人の男を、ただ鳩にやさしかったという一点で好感を持ったヒロインが、男のアパートで殺人が起きると、頼まれもしないのにアリバイを偽証してやるという話でした。ここでは、そして「少年の意志」「ある殺人者の肖像」といった作品では、犯罪に到る平凡人の振る舞いを説得力を描いていくという、ただ、それだけのことで、一編の作品を構成していました。クェンティン=パトリックの新しさ、面白さはそこにあったので、「はるか彼方へ」は、それに比べれば、新味に欠けたものに見えたかもしれません。

 ウィキペディアの英語版によると、ウェッブが創作活動から離れたのは、健康上の理由があったようです。ともあれ、51年の「鳩の好きな女」を最後にEQMMコンテストから、Q・パトリックの名前は消え、翌52年には、最後の合作長編『女郎ぐも』が世に出ます。『金庫と老婆』は、およそ十年後に短編の集大成のようにして出され、MWA賞の特別賞を獲得しました。
『金庫と老婆』の邦訳版では何編か削られているようですが、それでも、クェンティン=パトリックの短編クライムストーリイの魅力を、あますところなく伝えているとは言えるでしょう。すべての作品が、クライムストーリイ、犯罪を犯す人間の物語でした。中で私は「姿を消した少年」という、少し長めの作品に興味があります。「母親っ子」ほど強くはありませんが、ここにも母親離れできない少年が登場し、父親が死んで、母親を独占できると思いきや、両親が経営する女学校は、母親ひとりでは運営が心もとないと判断した亡父の段取りよろしく、叔母たちが乗り込んでくるのです。この叔母たちたるや、イギリスの小説で頻繁に描かれる公教育が持つ苛烈さを体現したような人々で、第一次大戦中ということもあって、少年に窮乏を強いる。少年の母親は彼女たちの前になす術もありません。といった苦境がゆっくりと描かれ、やがてドイツ軍の空爆に怯えながら、その避難訓練の最中に、少年は復讐の手段を思いつきます。結末は、いくつか考えられるものの中のひとつですが、その悲劇的な決着に、主人公たちが安堵する感覚が、面白いのです。
 集中で、もっとも長いのは、中編といっていい表題作の「金庫と老婆」です。金持ちの伯母にたかるようにして生きている姪の夫が、小切手の偽造をして、金をちょろまかしている。気づいた伯母が問い詰めると、逆に大きな金庫の中に閉じ込められてしまう。しかし、ここには「殺人者の肖像」にあった、閉じ込める側と閉じ込められる側の、抜き差しならない心理的な関係性はありません。
 クェンティン=パトリックが、クライムストーリイ短編でくり返し描いたのは、日常の中で正常な人が、異常な殺人者になる過程でした。それは確かに、ひとつの新鮮な目のつけどころで、いくつかの作品――「ある殺人者の肖像」「母親っ子」など――では、いまとなってはひとつのパターンないしは定石のように思えるほどの、説得力をもった状況を示したと言えるでしょう。ただ、現在の眼で見て、クェンティン=パトリックの短編ミステリにわずかな不満を感じるのは、すべてを説明しつくそうとするかのような書き方、説明過多に見える書き方です。先ほど「姿を消した少年」を推奨しましたが、それでも、たとえば、叔母さんを事故死にみせかける犯行の準備をするくだりで、少年の心の内を「自分のやっていることがなにを意味するか。そんなことは考えてみようともしなかった。こうすれば、事故がおきる。ただ、それだけ話だった」と、踏み込んで説明してしまう。こういうところに、たとえば、スタンリイ・エリンと比べて、抑制のなさ我慢のなさを、私は感じてしまいます。
 もっとも、40年代の平均的なクライムストーリイにそれを求めるのは、ないものねだりというものでしょう。逆に言えば、だからこそ、ジョン・コリアやロアルド・ダールやスタンリイ・エリンといった人々は、ユニークな作家だった、あるいは、いまに到るもユニークな作家であるのです。



小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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