第4回コンテストは、ジョルジュ・シムノンの「幸福なるかな、柔和なる者」が第1席を得ましたが、第2席はウィルバー・ダニエル・スティールの「土に還る」1編のみでした。第2席ではあっても、最高特賞とは言えないということなのでしょうか。ともに、グルーミイな雰囲気を持っていて、謎解き小説でありながら、謎解きの部分にわざとウェイトを置かない作品でした。
 シムノンの「幸福なるかな、柔和なる者」の主人公は、フランスの地方都市というか田舎町に住む、アルメニア移民の仕立て屋カシュダです。妻はフランス語を話すことさえ出来ず、それでも、なんとか生計をたてている。折しも、町は連続老女殺しで恐慌に陥っている。その夕方、仕事を終えて、日課となっているカフェ・ド・ラ・ベイに足を向けます。向かいの雑貨商もその店の常連です。雑貨商は店の他の客たちひとりひとりから挨拶を受け、病気で身動きできなくなった彼の妻を気遣われ、カードの仲間に迎えられますが、カシュダは、そうではありません。店では時間をかけて白ワインを何杯か呑むのが精一杯です。店の居心地はカシュダにとって、お世辞にも良さそうには見えません。それでも、彼はそれを日課にしているのです。そのとき、カシュダは雑貨商のズボンに白い糸くずを見つけ、反射的に取ろうと(仕立て屋ですから)します。ところが、それは糸くずではなく、新聞紙の切れ端でした。雑貨商はそれを受け取ると、小さく丸めてしまいます。その瞬間、カシュダの頭に疑惑が浮かびます。連続老女殺しの犯人は、犯行後、挑発的な手紙の数々を新聞社に送っていたのですが、それは新聞の文字を切り貼りしたものだったのです。
 この作品に十年ほど先だって、ウールリッチあたりがさんざん書いてきた、主人公だけが犯人(らしき男)の正体を知ってしまうという、ありきたりな話です。しかし、シムノンが書くとこうなるという特徴ははっきりしています。カシュダの揺れ動く心理を描く細かさは、おそらく、それまでのミステリにはないものでした。雑貨商に自分の疑惑を気づかれたのではないかという不安、犯人に到る手がかりを見つければ貰える賞金2万フランへの誘惑。このふたつの間で、カシュダの気持ちは揺れ、気がつけば、いつもよりとてつもなく早いペースでワインをお替わりしている。そんなところへ、パリから事件の捜査にやってきた警部まで、店に姿を見せます。カシュダはなんとか警部と話をするきっかけをつかもうとしますが、うまく行かない。
 自分の家の向かいに住む雑貨商とは、当然ながら、帰る方向が一緒です。冬の日暮れは早く、暗い中を戻らねばなりません。雑貨商をカシュダが尾行けているのか、カシュダを引っぱって雑貨商が歩いているのか、判然としないほど混乱ぎみに、しかし、ふたりはわずかな距離をおいて歩きます。やがて、雑貨商は店を通りすぎて歩いていく。あとを追わずに、自分の店に入れば安全なのは承知なのに、カシュダは雑貨商のあとを追います。そして、ある家から出てくる老嬢を見つけます。ピアノの個人教授の帰りで自宅はすぐそこらしい。しかし、闇の中で突然彼女の足音が途絶えるのを、カシュダは聞きます。そして、雑貨商が姿を現わし「おやすみ、カシュダ」と一言残して去っていきます。このあと、解決に向かって急展開、カシュダは真相を確かめるために、ある人物に会いにいきます。
 シムノンの作品としても、ちょっと厚塗りな感じがしますが、サスペンスの盛り上げ方は、さすがに巧いものです。ところが、この作品の奇妙なところは、犯人がすべてのきっかけとなった最初の殺人をなぜ犯したかが、はっきりしないところなのです。そこを書かずに打ち切ってしまっている。これは明らかに故意で、のみならず、犯人とカシュダに奇妙な共犯意識を芽生えさせて小説は終わります。土屋隆夫の議論に引きつけた言い方をすると、謎解きで割り切れない余剰部分をわざと残していて、しかも、そのことの効果を計算した上で書いている。クイーンはこの仕立て屋を探偵のひとりとして紹介していますが、私はサスペンス小説の主人公と取りたい。事件の謎は確かに彼が解きますが、事件との関わり方は、名探偵のそれとは異なるように思うのです。そして、30年代のパルプマガジンが産み出した、サスペンス小説のひとつのパターンを、みごとなまでに洗練させた実例が、ここにはあるのです。

「幸福なるかな、柔和なる者」に次ぐ第2席に入った、ウィルバー・ダニエル・スティールの「土に還る」も、陰鬱な雰囲気では負けません。その日、ある女性の埋葬が行われている。しかも、その妹の夫というのが信託銀行の支店長なのですが、出納係が自殺したばかりで、疑惑の焦点になっている。人の集まる葬儀に参列すれば、取材攻勢は必至なのです。加えて、埋葬のための穴を掘っているのは、死者の夫でした。「毛皮用の動物をわなで捕えたり、禁猟の鹿を捕獲したりするだけでは、たいした世すぎはできない」ので、墓掘りも引き受けているのです。姉妹をはさんで、対照的な夫ふたりという人間関係の中、妹の夫が行方不明になります。
 謎そのものも、その解決も、ここに描かれた人間関係の翳の前には、どうしても霞んで見えます。昔は同じような体格だった義弟の黒いスーツを、葬儀に着てくるように与えるといった、陰湿なあてつけが効果的に使われます。事件の真相も、小説の雰囲気同様に、人間の暗部に焦点をあてています。しかし、ここまで来ると、謎があり、それを解くといった形は、いったいなんのために必要なのだろうという疑問が浮かぶことも、否定できません。クライム・ストーリイで描いた方が、それは効果的に描けるのではないか? この疑問は、この先、短編のパズルストーリイについて考えるとき、つきまとう問題になりそうです。
 たとえば、この年の処女作特別賞を受賞した、トマス・フラナガンの「北イタリア物語」を考えてみましょう。ここには謎そのものに強烈な魅力があり、その解決に膝をうつ面白さがありました。この作品で有名なのは、最後のオチですが、それは超卓抜なおまけとでも言うべきもので、そこに到る以前に、謎解きの面白さは充分堪能できるのです。しかも、中世末のイタリアの一風景が見事に切り取られている。パズルストーリイであることが、小説の面白さを引き立てこそすれ、上のような疑問は起こりません。
 そのことは、テナント少佐ものを考えると、さらに、よく分かるのではないでしょうか。「アデスタを吹く冷たい風」が典型的ですが、このシリーズは、謎もその解決も、それほど独創的なものではありません。しかし、そのどれをとっても、謎は読者の興味を惹くよう魅力的に設えられ、鮮やかさをもって解かれ、しかも、その過程のどこをとっても、テナントという憲兵少佐が将軍の国で生きることの意味を描きだしていくことに、貢献しているのです。
 この点は大切なことなので、EQMMコンテストを最後に総括するときに、再度触れることになりそうです。ここでは、トマス・フラナガンという重要な作家が、EQMMコンテストの最優秀処女作賞で登場したことを、記憶するにとどめましょう。
 この年、もうひとり重要な作家が、最優秀処女作賞を得ています。スティーヴン・バーです。「ある囚人の回想」は、とても処女作とは思えない巧妙なパズティッシュでした。ある新聞記者が、年老いて刑務所の病棟に入院したきりになっている職業犯罪者に話を聞くという設定です。男は、世紀末のロンドンでヴィクトリア女王の即位記念祭の騒ぎの中、宝石泥棒を企んだのでした。金持ちの集まる一角に居を構え、主人と従者を巧妙な変装の一人二役でこなす。近所のパブで金持ちの使用人を見つけては、家の様子を探ってカモにしようという魂胆です。ところが、最初に知り合った、痩せて背の高い男には、屋敷の使用人にしては妙なところがある。しかも、どこかに疑いを持ったのか、自分のことを監視しているように見える。
 このあたりで、読者はニヤニヤし始めるのでしょうが、もちろん、その通りなのです。別のカモを見つけたものの、痩せた男は大切なところで邪魔するように現われる。一計を案じて、痩せた男を罠にかけ、その間に一仕事を狙うのですが……。巧妙と呼ぶのは、後半の一気呵成の展開のうちに、ミステリ史上有名な問題を扱っているのです。真正面から描かずに、クライムストーリイとして描いたことが、ここでは功を奏しています。最後のオチも、これまた上品にキマっていて、終始ニヤニヤしっぱなしの愉快な一編でした。
 スティーヴン・バーというのは、長編ミステリやシリーズキャラクターが、どうもないようなので、「最後で最高の密室」くらいしか評価されない作家ですが、短編ミステリの歴史を考える上で逃すことは出来ない、実力を持った作家です。もっとも、この「ある囚人の回想」は、75年になってようやく訳され、当時高校生の私は、これを充分に楽しめるほどには病気にかかっていなかったらしく、今回読んで、スティーヴン・バーはミステリマニアあがりの作家だったのだなと、あらためて気づいた一編でした。



小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


ミステリ、SF、ファンタジー|東京創元社