ヘレン・マクロイは、かなり長い間、心理サスペンスの作家と見られていて、パズルストーリイ作家としての側面が日本で理解されるようになったのは、『家蠅とカナリア』の創元推理文庫版が出たあたりからではないでしょうか? もちろん、それ以前に、前段で触れた『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』は出ていて、そこでマクロイの作風の変化をあとづけた森英俊さんの存在を忘れてはなりません。そして、心理的サスペンスや、心理的な要素を重視した作風と言っても、内実にはヴァラエティがある。短編で言えば「カーテンの向こう側」は心理サスペンスでしょうし、「歌うダイアモンド」は人間心理(この場合は集団心理)を重視した発想を持ち込んだパズルストーリイでした。
 さらに言えば、短編におけるマクロイは、実にさまざまな種類の作品に手を染めていて、むしろ、達者な商業作家という気がしないでもない。
 たとえば、「歌うダイアモンド」以外にも、ベイジル・ウィリングものの短編は、いくつも訳されていますが、ほとんど犯人あて小説に近いものばかりで、とくに「消えた頭取」は、飛行機の中から人間が消失するという派手な謎の上に、問題編と解決編に分かれていました。「強襲戦術」は、カーの有名な長編のヴァリエーションを、あまり上手ではなく使っていて、感心しません。
「歌うダイアモンド」がそうであったように、マクロイのパズルストーリイは、解決の部分よりも、謎を提出する部分に、冴えを感じることが多いように思います。たとえば、「殺人即興曲」は、ベイジルのところに、悪天候の夜、ひとりの女が電話を借りに訪ねてきます。歌と掛け合いで有名な男女の芸人コンビのひとりですが、相方の父親が亡くなったのに、その息子と連絡が取れないので、コンビの相棒である彼女に警察から連絡が来たというのです。彼女は、相棒がカーラジオで自分の父の死を知ることを憂えて、発表を待つよう警察を説得し、彼の立ち回り先を捜すことにしますが、雷雨のため、彼女の家の電話が不通になります。そこで、近所のベイジルを訪ねると、ベイジルの家の電話も通じなくなっている。相方の男は父親と夕食をともにすると言っていて、一方、彼の家では、離婚寸前だったという彼の妻が殺されているのが発見されます。行き違いの果てに、関係者が集まったところに、妻殺しの容疑のかかった相方が現われます。彼のアリバイの成立は、本当に父親に会いに行ったのかにかかっていて、時間的には父親の死の発見者(しかし通報はしなかった)になるのです。父親の死は発表が控えられているので、本当に行ったのでなければ知るはずがないのです。状況は複雑に作ってありますが、問題の焦点はシンプルで、彼が父親の死を知っているか否かです。もっとも、解決とそのトリックに、それほど魅力はなく、やはり目をひくのは、状況の作り方と、それを提示していくことで謎を深めていく手つきの面白さでしょう。
「ピアノが止んだ時(声なき密告者)」は、避暑地に住む女性が、自分たちが毎年ヴォランティアで開いているパーティの協力を求めに、別荘に住むピアニストの女性を訪ねます。家に招き入れられると、同時に犬が飛び込む。その犬は家の中でテーブルをひっくり返すのですが、女性がその家の犬だと思い込んでいたのに対し、ピアニストは女性が連れてきたものと思い込んでいて、どちらも、その犬を知らなかったのでした。なかなかしゃれた導入ですが、走り去った犬は、やがて死体となって見つかる。一方、ピアニストの別荘の過去のいわくが語られ、別荘を買い戻そうと、ニューヨークの弁護士が動いているらしい。パーティの当日、ピアノの演奏中に部屋が突然真っ暗になり、明かりがついたときには、ピアニストが殺されています。ここでも、犯行のトリックや犯人の意外性(伏線も上手に張ってある)よりも、犬殺しのエピソードと、それが事件に関係する理由に魅力があると言えるでしょう。
 マクロイにはSFと呼んだ方が良い作品群もあり、その代表例は「Q通り十番地」でしょう。未来の超管理社会という、社会批判を含みやすいテーマですが、その点、批判の射程は長く、いまも古びてはいません。もっとも、では、どの程度のオリジナリティを、この「Q通り十番地」が主張できるかと考えると、いささか心もとない。その他、破滅テーマの「風のない場所」や、時間テーマの「八月の黄昏に」にしても、そのテーマにおける斬新さというよりも、前者は、短いスケッチでそれを試みたところに、後者は、父親との思い出を描くことに、小説の眼目があって、必ずしも独自性や新しさがあるわけではありません。

 ヘレン・マクロイに職人性や商業性をもっとも感じるのは、ある程度のヴォリュームを持った中編を読んだときです。
 その恰好の例が「黒い円盤」でしょう。主人公のアレック・ノートンは、協立通信社(ニューヨークにあるという設定)の記者です。ピアソン・シティという地方都市のホテルで起きた殺人事件を取材してくるよう、編集主任に命じられます。被害者はダイアナ・ボークラークという「二流どころの舞台女優」で、ピアスン・シティには離婚した夫に会いに来たのでした。到着早々、彼女はホテルで血まみれの死体となって発見されるのですが、どうも、警察は捜査を打ち切ったらしい。ホテルに乗り込んだノートンは、ホテルの関係者は事件に触れられることを嫌がり、警察も事件を捜査する気がないらしいことに気づきます。そして、その背後には町を牛耳っているギャングの存在があったのでした。
 ストーリイや設定だけを見れば、ブラックマスクの中編として差し出されても、気づかない内容です。そもそも、取材を命じる主任の言葉が「同じ列車に乗って、同じ時刻に到着しろ。そして同じホテルへ行って、同じ部屋に泊れ」というのですから、勢いや活気はあっても、これは、リアリズムとはどこかで手を切った、通俗ハードボイルドでしょう。主人公は、殺人の動機のある人間がひとり、殺人の機会のあった人間がひとりと、容疑者をふたりにしぼって(いささか乱暴)動き始めたり、そのうちのひとりが逮捕され、証人となるはずのホテル付の女が殺されたりと、それらしい展開を上手に運んでいきます。ノートンは犯行現場で、黒い円盤を見つけ、それが何なのか、何に使うのかを知るために、様々な人に会っていきます。この部分の手厚さが、ハードボイルドふうの捜査小説の面白さを発揮していて、読んでいて、一番面白いところです。
 この作品は、日本語版EQMM1961年9月号に訳載されましたが、その版権表示には1941年とあって、それだと、ずいぶん先見性があると言えます(W・P・マッギヴァーンの『緊急深夜版』が出たのが1957年です)。しかし、短編第一作は「燕京綺譚」のはずですからね。どうも1961年の誤植ではないかという気がします。
「人殺しは誰でもする」はヒロインが電話をかけようとしたところ、どこかと混線したのか、不倫らしいカップルの会話を耳にします。それが、一方の配偶者を殺そうとする相談だったという話。こちらは、ウールリッチばりのサスペンス小説です。「外の暗闇」は、主人公の判事が、最愛の甥に会うためにやって来ます。彼は虚言癖のある妻を離婚したいのですが、妻のマーシャはそれに応じない。彼女は、たまたま、主人公と同じ列車で、ニューヨークから戻ってきたのですが、車中で見知らぬ男と話し込んでいるのを、主人公は目撃し、そして、その男が次に現われたとき、彼女は初対面を装うのです。そして、マーシャのまわりでは不可解な事件が起きていきます。地味で平凡な、サスペンス小説とパズルストーリイの混淆と言ってしまえば、それまでですが、殺人に踏み切ることの出来る性格は、居合わせた中で、ある人物だけだったという推論が、どきりとさせます。そこのところ、少しクリスティを連想させるというか、クリスティだったら、ここを糸口に傑作をものしたかもしれません。
 こうした、どこにでもありそうなパターン化された話を粒だてるという、マクロイの中編が、もっとも功を奏したのが「ふたつの影」でしょう。ヒロインのエマは小さな娘の保育士として、ある家庭にやって来ます。母親が階段から落ちるという事故で亡くなり、その後に雇われた保育士は解雇されたのです。娘は空想癖があるようで、ショットンとグリダーというふたり組(カップルらしい)の話を四六時中している。近所に住む医師は心配いらないと言っているけれど、まわりの大人たちは眉をひそめている。女の子の父親には愛人があったらしく、しかも、前任の保育係は、事故が殺人であることを匂わせて金を強請ろうとして、逆に馘首されたというのです。そして、今度は父親の叔母が、同じように階段から落ちて死んでしまうのです。
 誰もが少女の空想と信じて疑わないショットンとグリダーが、実在するのではないかと、ヒロインが疑問を持ち、次の被害者となる父親の叔母とともに、それらしい人影に気づくことから始まり、あてはまるかどうか関係者を検討していく。カタコトの少女の説明の一言一句を手がかりにしていくところは、出色の面白さです。各人のアリバイが調べられ、その日が暮れると、女の子が行方不明になり、手分けして捜索するうちに、女の子の父親が殺されてしまう。このあたりの展開の急ピッチなのも見事ですが、最後にヒロインが窮地に陥る段取りは急ぎすぎていて、その不自然さから読者に犯人の見当がついてしまうのが、弱いところです。それでも、真相が判明し、少女のカタコトの空想の背後にあった事実が、逐一解明される部分は、魅力に富んでいます。
「歌うダイアモンド」につけた解説で、クイーンは、ヘレン・マクロイがQ・パトリックとともに、4連続でコンテストに入賞したことに触れて、その質がずぬけたものであるとして、これからも賞を獲り続けるだろうと、書きました。実際は、Q・パトリックと異なり、マクロイはコンテストの常連とはなりませんでした。しかし、短編におけるマクロイのその後は、中盤の小説としての厚みを重視するところや、謎解き、サスペンス、ハードボイルドといった手法の混淆など、奇しくも、戦後アメリカのミステリ全体の行き方と、歩調を合わせるかのようでした。飛び抜けた傑作はないものの、それは確かに、中堅作家として、短編ミステリのひとつの指標を与えてくれる存在だったのです。


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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