(2013年5月刊『白雪姫には死んでもらう』解説[全文])

福井健太 kenta FUKUI


 英米小説を中心とする翻訳ミステリ界において、ドイツ小説の紹介がようやく本格化してきた――そんな印象を抱いているミステリファンは多いはずだ。ミステリが文化を映すものだとすれば、多彩な国々のそれが伝わることは、新鮮な刺激との出逢いをもたらしてくれる。これはエンタテインメントとしても効果的に違いない。

 もちろん訳書が無かったわけではなく、エーリヒ・ケストナー『エーミールと探偵たち』はジュヴナイルの名作として読み継がれてきた。『朗読者』で知られるベルンハルト・シュリンクの〈ゼルプ三部作〉を経て、セバスチャン・フィツェックの諸作、フランク・シェッツィング『深海のYrr』などが人気を得たことも記憶に新しい。ドイツ語圏に視野を広げれば、オーストリアには『最後の審判の巨匠』『夜毎に石の橋の下で』のレオ・ペルッツや、2013年に『夏を殺す少女』が上梓されたアンドレアス・グルーバーがいる。スイスの戯曲家フリードリッヒ・デュレンマット(半世紀前に『嫌疑』『約束』が邦訳済み)の『失脚/巫女の死』は、13年度版「このミステリーがすごい!」第5位に選ばれた。トルコ生まれドイツ育ちのアキフ・ピリンチは〈雄猫フランシス〉シリーズの『猫たちの聖夜』『猫たちの森』で好評を博している。しかし――ドイツ・ミステリ大賞(DKP)やフリードリヒ・グラウザー賞(ドイツ推理作家協会賞)などを擁するドイツ語圏のミステリが、成熟度に見合った扱いを受けてきたとは言えないだろう。

 いずれにせよ確かなのは、ドイツミステリの邦訳史において、フェルディナント・フォン・シーラッハが重要な位置を占めていることだ。著名な弁護士でもあるシーラッハは、実在の事件を題材にしたデビュー作『犯罪』で絶賛を浴び、同書は12年度版「このミステリーがすごい!」および11年度版「週刊文春ミステリーベスト10」の第2位に輝いた。第2作『罪悪』および初長篇『コリーニ事件』の高評価も含めて、日本の出版社と読者がドイツミステリに関心を持つきっかけになったことは疑いない。

 その追い風を受けて12年に邦訳されたのが、ネレ・ノイハウス『深い疵』である。ノイハウスは1967年ミュンスター生まれ。11歳の時にタウヌス地方へ転居。大学では法学とドイツ文学を専攻し、馬術競技で知り合った夫との結婚を機に中退。夫のソーセージ工場を手伝いながら、余技としてミステリや児童文学を書いたという。2005年に初の長篇ミステリ Unter Haien を自費出版し、さらに〈刑事オリヴァー&ピア〉シリーズの Eine unbeliebte FrauMordsfreunde(いずれも自費出版)が注目を浴びたことで、09年にその三冊が大手から刊行された――という経歴を持つ「ドイツミステリの女王」だ。シリーズ第三作『深い疵』は一二年度版「IN★POCKET 文庫翻訳ミステリーベスト10」の��読者が選んだベスト10�≠ナ第2位の票を集めたが、第四作にあたる本書『白雪姫には死んでもらう』はそれに勝るとも劣らない逸品である。

 舞台は08年11月のドイツ。空軍基地跡地の燃料貯蔵槽から白骨が発見され、11年前の少女連続殺人の被害者であることが判明した。その犯人として(寃罪を主張しながらも)状況証拠で有罪判決を受けたトビアス・ザルトリウスは、刑期を終えて故郷の村に戻るものの、父親は弱味に付け込まれて財産を奪われていた。村人たちの怒りはトビアスの身内にも向けられ、離婚していた母親が何者かに歩道橋から突き落とされる。ホーフハイム刑事警察署のオリヴァー・フォン・ボーデンシュタイン首席警部とピア・キルヒホフ警部は、トビアスの身が危険だと察し、村の閉鎖性に戸惑いながらも真相を探っていく。半年前に隣家に引き取られた少女アメリー・フレーリヒは、トビアスに好意を抱いき、関係者から11年前の事件にまつわる証拠を手に入れるが……。

 歴史の暗部をフックに活かした前作とは異なり、本作では小さな村のサスペンスが描かれている。村人たちはトビアスへの害意を隠すことなく、彼の母親を襲った犯人を全員で庇おうとする。彼らの組織化された正義の閉鎖性と排他性は、たとえば横溝正史の描く集落にも通じるものだ。情報提供者の特殊性、終盤に発見されるもの、あるいは黒幕の手口などを鑑みるに、本作の演出は探偵小説ファンにも親しみやすいはずである。
 もう一つの大きな特徴として、登場人物たちの奥行きにも触れておこう。入り組んだ事件の構造が少しずつ明かされるたびに、様々な人間が強い思惑を秘めていたことが見えてくる。彼らが接触と交錯を繰り返すことで、一連の物語を通じて無数のドラマが演じられる。これは村のコミュニティだけではなく、同僚に悩まされるオリヴァーとピアにも言えることだ。さらにオリヴァーは家庭問題を抱えており、捜査に専念できる状況にはいない。この造型の巧さはノイハウスの持ち味だろう。

 本作の見所は他にもある。タイトルに掲げられた「白雪姫」は殺された少女の渾名であると同時に、プロットの底流を成すモチーフでもある。グリム童話『白雪姫』(起源はドイツのヘッセン州地方の民話)の小道具やキャラクターを念頭に置いて読めば、著者がそれらを再構築したことが解るはずだ。ここで詳細は述べないが、1812年刊の『グリム童話』初版において、王子が死体愛好家だったことには留意すべきかもしれない。

 ちなみに〈刑事オリヴァー&ピア〉シリーズは累計350万部を超えるベストセラーを記録しており、20か国以上での翻訳が決まっている(本作もドイツ国内で100万部を突破した)。『深い疵』の訳者あとがきには「このシリーズが日本でも市民権を得られたら、ぜひ一作目から紹介していきたいと思っている」とあるが、前作の好評ぶりや本作のクオリティの高さからも、今後の展開には期待できるはすだ。まずは Eine unbeliebte FrauMordsfreunde の邦訳を楽しみに待ちたい。

 最後に著作リストを挙げておこう。#は〈刑事オリヴァー&ピア〉シリーズ。既訳は『深い疵』と本書の二冊。他の邦題は『深い疵』の訳者あとがきに準拠している。

 Unter Haien(『鮫の群れの中で』) 自費出版(05)→一般販売(09)→新版(12)
Eine unbeliebte Frau(『いけすかない女』) 自費出版(06)→一般販売(09)
Mordsfreunde(『殺人サークル』) 自費出版(07)→一般販売(09)
Tiefe Wunden(『深い疵』)(09)
Schneewittchen muss sterben(『白雪姫には死んでもらう』)(10) ※本書
Wer Wind sät(『風に種を蒔く者』)(11)
 Elena - ein Leben für Pferde(11)
 Charlottes Traumpferd(12)
Böser Wolf(12)

(2013年5月)


■福井健太(ふくい・けんた)
1972年京都府生まれ。書評家。早稲田大学第一文学部卒。在学中はワセダミステリクラブに所属。〈ミステリマガジン〉〈SFマガジン〉などで小説とコミックのレビューを担当。著書に『本格ミステリ鑑賞術』(東京創元社)、参加した単行本は『日本ミステリー事典』(新潮選書)、『越境する本格ミステリ』(扶桑社)、『幻影城の時代 完全版』(講談社BOX)など多数。共著に『ニューウエイヴ・ミステリ読本』(原書房)がある。



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