今回は、ふたつの短編小説を読むことにしましょう。ひとつは1948年にニューヨーカーに掲載されたもので、もうひとつは1971年にEQMMに発表されました。どちらも読みごたえのある小説です。

 J・D・サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」は、サリンジャーが壮大な構想の下に描こうとした一族の物語の、始まりの一編です。短編集『ナイン・ストーリーズ』の巻頭に収められています。
 フロリダのホテルの一室から、小説は始まります。グラス夫人という若い女性(というか、原文girlなので女の子)がニューヨークへの長距離電話がつながるのを待っています。ホテルにはニューヨークの広告マンが97人(!)泊まり込んでいて、電話が通じにくいのです(当時は、交換台を通して電話をつないでもらいます)。ようやく通じたニューヨークの相手は、彼女の母親でした。母親はどうも、彼女の夫シーモア(新婚、あるいは、新婚早々兵隊にとられたのが復員してきたばかりらしい)に、不安と不信感を持っているようです。会話のはしばしから、心配の種となった新郎の奇行がほのめかされます。――木に向かって何かをした(だから、母親は彼に車の運転をさせたくないし、娘は白線寄りに車を走らせるよう、あらかじめ彼に頼んだ)とか、彼女の名前をきちんと呼ばないとか、例の窓の一件(なんなんだろう?)とか、伯母さんの椅子になにかしたらしいとか、その他いっぱい、エトセトラ。それらのひとつひとつは、どの程度重大な問題なのか、読者には量りづらいのですが、父親が精神分析医に相談したところ、陸軍が彼を退院させたのは犯罪行為だったと言われた(ということから、読者には、シーモアが入院していたことが分かるという仕組みです)というのですから、心穏やかでないのも当然なのでしょう。
 もっとも、そんな会話にも、ファッションや流行の話、昨今のフロリダの様子(このホテルには戦争前にも泊まったことがある)といった話題が入り込んできます。確かに、それがために、この会話には、真に差し迫ったところが欠けているのも事実です。けれど、娘は親の心配を振り切って、夫とフロリダに来ているわけですから、夫についての話は、あまりしたくない。そもそも、通じにくい電話に、これ幸いと、あるいはそれと意図しないまでも、到着から二日も連絡を先延ばしにしていて、だから、母親は開口一番、電話をしてこないことを詰ったのでした。お気楽な会話にともすれば流れようとするのは、娘が頻繁に母親の言葉を遮ることとともに、リアルな会話を描くという効果以外に、娘には母親に口にしてほしくない言葉や話題があることをも示しているのです。
 場面が変わって、シビルという幼い女の子が、母親にオイルを塗ってもらいながら「もっと鏡見て」というフレーズをくり返しています。See more glassすなわちシーモア・グラスです。あまり面白がってくり返すので、すでに母親はうんざりしている。オイルを塗り終えると、マティニを飲みにホテルに戻ってしまいます。シビルは浜へ出て、シーモア・グラスと逢います。シーモアは浮き輪に彼女を乗せて、沖へ向かいます。バナナフィッシュという欲深な魚の話をしながら。そして、波をかぶりびしょ濡れになったシビルが、バナナフィッシュを見たといい、ふたりの蜜月は終わります。
 以前、私はこの短編について「戦時の体験の衝撃が抜けることのない人間が、平時に対して感じる疎外感と絶望感を、シャープに描いた」もので「この短編をミステリに近しく感じるのは、おそらく、その洗練されたサスペンスのためだろう」と書き「大切なのは、これがミステリであるかないかではない。このソフィスティケイションをミステリが忘れないことなのである」と文章を結びました。これだけ言ってしまえば、もういいという気持ちもありますし、同じく短編集『ナイン・ストーリーズ』に収められた「エズミに捧ぐ――愛と汚辱のうちに」の方が、同じモチーフを描きながら、作品の射程も長く、良く出来ていて、個人の好みからしても、実はより好きだったりしますが、それでも「バナナフィッシュにうってつけの日」の、沖へ出ていく静かなサスペンス――ひとつの戦争が終わり、復員しても疎外感に苦しむ男が、戦いの「た」の字も知らない幼児の乗る浮き輪を押して、平和なホテルから離れていき、危険な沖へ沖へと向かうサスペンスは、捨てがたいのです。ミステリとして。



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