2013年1月より隔月刊行開始
創元推理文庫版〈大坪砂男全集〉全四巻 刊行記念
和田周インタビュー 聞き手・日下三蔵

 このたび、創元推理文庫〈大坪砂男全集〉(全四巻)の刊行開始を記念して、大坪氏のご長男である俳優・演劇家の和田周さんにお越し頂き、編者の日下三蔵さんに思い出を語っていただきました。
 佐藤春夫の弟子、都筑道夫の師としても知られ、高木彬光、山田風太郎らとともに、江戸川乱歩より「戦後派五人男」の一人に数えられた短篇の鬼才・大坪砂男。「天狗」に代表される奇想と凝りに凝った文体で、多くの人の心をとらえながらも、谷崎潤一郎の「妻譲渡事件」への関りや、「抜打座談会事件」「魔童子事件」など多くのスキャンダラスな事件と共に時代を駆け抜けた、孤高の天才作家の知られざる側面に光を当てる、貴重なお話を伺うことが出来ました。(編集部)


*父・大坪砂男との同居生活

日下 今回全集を編纂するに当たり、旧全集(薔薇十字社刊)の月報に和田さんが寄せられた「雪ざらし」という随筆を、第一巻『立春大吉』に収録させていただきました。作家・大坪砂男の知られざる一面を垣間見ることが出来る、非常に貴重な証言です。

和田 今から四〇年くらい前に書いたものですね。

日下 この随筆によると、昭和三〇年頃まで七年ほど、大坪さんと一緒に新宿で暮らしたとのことですが、和田さんご自身は、上京されるまでは郷里にいらしたのですか。

和田 もともと麻布に一家で暮らしていましたが、後に鎌倉に移りました。その二年後、昭和二〇年の夏でしたか、疎開先の長野で終戦を迎えました。ちなみに鎌倉を出たのは、親父が易に凝っていて、易者から「火の雨が降る」というお告げを聞いたためです。
 戦後、親父が作家になって、長野から単身上京して新宿の三畳くらいの部屋で一人暮らしをはじめて別居が長くなりました。
 二度くらい角筈(現在の西新宿、歌舞伎町周辺)の辺りまで捜しにいって「お金くれよ」と言ったものの、結局もらえなかったりして、そのうちに僕たち兄妹と母、もうひとり、戦前から家族をずっと支えてくれた同居のお手伝いさんと、もう生活が成り立たないので、仕方なく母の郷里の鹿児島まで、夜逃げ同然に引っ越しました。
 あとは親父とは一度も会わないまま数年経ったのですが、高校を卒業した後に親父のところを訊ねて、ドアをノックしたら「どなたですか」と言われました(笑)。

日下 それだけ成長する時期に、顔を見ていなかったわけですね(笑)。

和田 妹が難病を患っていたこともあり、お金が必要で、僕は鹿児島から使命を帯びて東京に行ったわけです。でも、親父はちょっとお金が入ると、僕を誘って銀座辺りに遊びに出る。美味しいものを食べて、みゆき通りで洒落たシャツを買ったりして、ささやかなものでしたが、そんな贅沢を僕も止められなかった。
 僕自身、一緒にいると楽しいものだから、一晩親父に付き合いながら「この金を家に送れよ」とはなかなか言い出せず、複雑な付き合いをしていました。
 昔はお金のある暮らしをしていたものだから、安くて美味しい店を見つけたり、手頃な値段の洒落たものを探したり、ささやかな贅沢が上手いんですよ。話も面白いけど、だらしのない男でした(笑)。

日下 それで上京されてから、大坪さんと一緒に暮らすことになるわけですか。

和田 僕が喫茶店の住み込みのバイトをしていたこともあり、週に一回会うか会わないかでしたが、会って話すと面白かったので、俳優座養成所を卒業してから延べ四年、新宿で一緒に暮らしました。
 実は後年、親父に内緒で、僕がバイトしてお袋と妹を東京に呼び寄せたんですが、親父としては僕に裏切られた気持ちになったようです。経済力はなくても、自分の力でお袋を呼びたいと思っていたのを、先に息子にやられちゃって、がっくりした。
 晩年、癌が見つかってから、一晩だけ僕とお袋と妹が住んでいる部屋に来たことがあります。その時「親子水入らずで暮らすのは久しぶりだね」って僕が言ったのがよほど嬉しかったようで、死ぬ間際お袋に「周ちゃんがこんなこと言っていたね」と呟いていたようです。


*弟子・都筑道夫との思い出

日下 新宿でも何回か引っ越されていますよね。

和田 住まいは二回変わりまして、最後は新宿成子坂下のほうでした。親父が病院で癌と分ったとき、その部屋は処分して、古畑病院に入院しました。

日下 昭和二〇年代、赤線地帯にあったアパートの、大坪さんの住んでいた部屋に、後で都筑道夫さんと朝山蜻一さんが入ったという話を聞いたことがあるのですが。

和田 記憶にないので、多分、角筈時代のことだと思います。都筑さんとは僕が上京する前に、気まずい事がありまして、疎遠になっていたようです。でも都筑さんは、親父が亡くなった時は非常に親身になってくださって、一番弟子として通夜にもつきあってくれました。都筑さんとも、いわゆる込み入った喧嘩があった訳ではなく、女性関係のことで行き違いがあったようです。

日下 その辺りのことは、都筑さんもエッセイ『推理作家が出来るまで』(フリースタイル)でそれとなく触れていらっしゃいますね。ちなみに昭和二九年に刊行された都筑さんの『魔界風雲録』(中公文庫)の序文を、大坪さんがお書きになっています。

和田 都筑さんがミステリマガジンの編集長になった頃も、お付き合いはあったはずです。翻訳家の宇野利泰さんと、都筑さん、親父と僕とで銀座の洋食屋に集まったことがあります。親父にthe student timesという新聞からミステリの依頼があったんです。親父は嬉しかったんでしょうね、自力でプロットは考えられるのに、どんな話を作れるか、ここでディスカッションしようと言い出しまして。宇野さんも海外ミステリの筋立ての応用を提案されたりしていました。あの時は親父も嬉しそうで、都筑さんも楽しくアイデアを出していらっしゃいました。


*大坪砂男の「本棚」

日下 大坪さんはかなり初期から――昭和二〇年代からSFをお書きになっていますね。三一年の「探偵実話」(世文社)に載った座談会でも、海外SFの最新作に言及されていました。確か都筑道夫さん、矢野徹さん、今日泊亜蘭さん、大坪さんの座談会でした。
 SFを、科学的な怪談、原爆時代の怪談という位置づけで話されていて、興味深かったです。この座談会は、別のアンソロジーに収録させていただく予定です。

和田 SFといえば、シェクリイの「静かなる水のほとり」『人間の手がまだ触れない』所収 ハヤカワ文庫SF)は親父に教わって読みました。フィニイの「レベル3」(早川書房)とか、ああいう感動的な話が大好きでしたね。

日下 シェクリイもフィニイも、〈異色作家短編集〉(早川書房)に収録されている作家ですが、大坪さんご自身の作品も、このラインナップに入っていておかしくないですね。ちなみに日本人作家は読まれていましたか。

和田 久生十蘭がものすごく好きでした。

日下 久生十蘭、大坪砂男、都筑道夫という、いわゆる短篇の名手の流れが綺麗に出来ますね。

和田 あと僕に一生懸命教えたのは、リラダンの『残酷物語』(筑摩叢書)。ああいうダンディズムをものすごく大事にしていました。

日下 澁澤龍彦さんが旧全集の一巻に解説をよせられていますが、そういう面で共鳴するものがあったと思います。ちなみに大坪さんは、ハードボイルドに興味を持たれたのも、ものすごく早い時期なんです。「私刑」は日本版のハードボイルドとして書かれたものですし。

和田 ジェイムズ・M・ケインも好きでしたね。『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』(ハヤカワ文庫)の他に三冊ありますが、僕も読ませられました。あとはG・K・チェスタトンの〈ブラウン神父〉シリーズ(創元推理文庫)ですね。

日下 創元推理文庫版全集の一巻には、ブラウン神父のパスティーシュ「胡蝶の行方」と、それを書くことになった経緯を綴ったエッセイ「贋作楽屋噺」が収録されます。書く段になって、あわてて乱歩さんのところでチェスタトンの原書を借りたというくだりがありますが、まあこれは冗談でしょう。たぶん既に読んでいたと思います。

和田 そういう話を面白くするための筆すべりはあると思います(笑)。

日下 ちなみに、大坪さんの本棚はどんな感じだったのでしょうか。

和田 本棚はありましたが、飾り棚にして置き時計や茶碗を並べていました。本は絶対置かない主義で、僕がアヌイやジロドウ全集とか置いておいても、すぐに質に入れてしまう。

日下 「宝石」(宝石社)など、献本されてきたものも、全部処分されてしまったのでしょうか。

和田 色々問題があって、探偵作家クラブと縁が無くなったせいか、特に献本はなかったですね。いわゆる「抜打座談会事件」にしても、親父も論理的なことが好きだから、どちらかの論に立って弁論を展開したくなったのでは、と思っています。議論すること自体が楽しかったんじゃないかな。

日下 論理を弄ぶ、と都筑さんが仰っていましたが、まさしくその通りだと思います。文芸派の代表格であるはずの大坪砂男の全集一巻目が「本格推理篇」ということで、意外に思われる人も多いと思いますが、大坪さんは本格物を結構書いている。文学派というイメージが先行していますが、それだけではないことが分かってもらえると思います。
 ちなみに、大坪さんご自身の本は残されてなかったのでしょうか?

和田 無かったです。角筈で暮らしているときも、三畳くらいの部屋でしたから。ちなみに晩年に出した『愉快な悪人』(桃源社)は、神田の古本屋に持っていっても値がつかなかった。

日下 自分自身の本も残していないとは、徹底してますね。

和田 悪いことをしたと思うのは、『閑雅な殺人』(東方社)が出たときに、「周の才能はこれを笑うだろうが、贈る」と扉に書いてくれたんです。それを乱雑に置いておいたら、すごく怒りましてね、結局取り上げられました。


*「量産に向かない文体」

和田 世間で言われるように、晩年は本当に小説を書けなくなってしまいましたが、それをつくづく感じたことがあります。僕が生意気に短篇を書いていたら、最初の出だし三四枚を、僕のいないうちに読んで、原稿用紙半分に短くされてしまった。読むと確かにそっちの方がいい。でも、なるほどと思ってその先を続けようとしても、一行も書けないんです。こういう怖い文章作りに落ち込んでしまったんだな、と実感しました。

日下 旧全集が出たときに、窪田般彌さんも「量産に向かない文体の確立」という見出しの書評(第一巻『立春大吉』に収録)をお書きになっていますね。

和田 まだ長野にいたころの事ですが、「私刑」で探偵小説作家クラブを受賞したとき、親父がお袋と喧嘩をしまして。家を飛び出して僕を連れて歩きながら「周ちゃん、もうすぐ僕は王様になるからね、王様になるからね」と繰り返すんです。「王様」というのはうんとお金を稼いで、大金持ちになるからね、ということだったんです。その時本人としては、量産して流行作家になるつもりだったんでしょうね。

日下 雑誌に載った「その年の抱負」を読むと「何とか今年から量産にかかります」と書いていますね(笑)。「砂男」から「沙男」へ名前の字を変えたのも、一種の験担ぎだったと思います。
 量産する、といいながら量は書けなかったわけですが、アイデアは沢山あった。しかしそれを作品にしようとすると凝りすぎてしまう。

和田 佐藤春夫先生が「大坪は文章が書けない男だ」と仰っていましたが、それは相当痛い言葉だったと思います。本人は少なくとも文章を大事にしていると思っていたでしょうから、それを佐藤先生独特の、本質を見抜くような言葉で指摘されるのは辛かったのではないでしょうか。
 佐藤先生のところには長野に疎開してから何度も通っていましたね。この頃のことは瀬戸内寂聴さんの『つれなかりせばなかなかに』(中央公論新社)に、詳しく載っているはずです。
 佐藤先生は、柴田錬三郎さんにプロットを提供していることについても大変お怒りで、「お前にやる万年筆を今持っているが、ちゃんと書けるようになったらやるから書け」と言われまして。でも、とうとうその万年筆はもらえないままでした(笑)。

日下 柴田錬三郎さんの作品にアイデアを提供していたという話を踏まえた上で、一部の柴田作品を読み返してみますと、やはり大坪砂男的なセンスを感じますね。

和田 眠狂四郎の後半の方は、毎月親父が書いたものを僕がお宅へ持っていきました。新宿の「らん」という喫茶店で、二人でコーヒーを飲みながら原稿用紙一枚にプロットをまとめました。形になると「これでなんとかなる」と喜んで。お金が入ると、美味しいものを食べに銀座に出ました。

日下 『赤い影法師』(新潮文庫)も大坪プロットの作品ではないかと。

和田 そうですね。その頃はアイデア提供だけが収入源で、必死で書いていましたから。とにかく毎週持っていきました。

日下 「週刊新潮」の連載でしたからね。いや、『赤い影法師』は月刊誌でしたか。
 最初のうちは、プロットを提供している相手が柴田さんということは伏せられていましたね。都筑さんのエッセイでも「ある作家のプランナー」という表現でした。だんだん情報がオープンになって、じゃあ『幽霊紳士』(集英社文庫)なんかは、大坪さんのアイデアじゃないか、と読み返してみたら、かなり大坪さんでした(笑)。
 ちなみに、佐藤春夫さんがお怒りになったというのは、プロットを提供するようなことは、邪道と思われていたからなのでしょうか。

和田 どうでしょう。佐藤先生も可愛がって下さいましたから、倫理的にというより、ちゃんと自分で書け、という事で怒られたのだと思います。

日下 僕の世代だと、漫画が原作と作画を分担したり、プロダクション制という仕事の事例を見ているので、まったく抵抗はないですね。推理小説の場合は特にそうですが、アイデアと小説の筋は別物なので、分担作業で書かれても何らおかしくはないと思います。
 大坪さんが自分で書けなかったのは、やはり文章を推敲しすぎていたからではないでしょうか。そこは開き直って、書き飛ばすというか、気楽な文体で書いていれば、かなり量産していたのではないかと。

和田 そうですね。僕が劇作家になったのも、喋り言葉で文体の軛から解放される、という面があったからだと思います。書き言葉に固執したら袋小路にはまるぞというのは、親父を反面教師にして身に沁みていました。

日下 戯曲の場合、実際役者さんが喋ることが前提ですからね。

和田 ほとんど日常会話で成り立ちますから。基本的に人間と人間の関係だけが問題です。


*気弱で陽気な話術の天才

日下 こうしてお話を伺って、作家以外の側面を知ると、「とても楽しいお父さん」というイメージが浮かんできます。

和田 家長として、一家を支えて責任を持つという点では、完全に落第の親父でした。詩や俳諧について話すと、教養主義的な話のはずが、大変面白く感じられるんです。そういう、学友的な付き合いをするには最高にいい男でしたが、父親としては……(笑)。特にお袋が鹿児島出身ですから、男は甲斐性がないといけない、という気質だったんです。ちなみに妹は親父に同情的でしたが、むしろ僕はお袋をこんな目に遭わせて、と反撥する部分もありました。
 ひとつ可哀相に思っていることがあります。親父はお袋に、はっきり惚れていたんです。でも、惚れているのと、甲斐性がなきゃいけないというのは、まったく別の話ですから。
お袋から訊いたのは、二人は六本木のアパートで過ごした新婚時代、二人で坐っているとき、お袋が縫物をしていると「よせ」といって取り上げたそうです。ただここで見つめ合っていたい、と。お袋はそれがつらかったそうです(笑)。

日下 それは、すごいのろけですね(笑)。

和田 お袋は、日常の雑事と共にある、普通の夫婦関係でいたいのに、親父は何もしないでじっと見つめ合いたいと。

日下 相当にロマンチストだったんですね。

和田 それに、照れ屋で癇癪持ちでした。関係がこじれてしまうと、その場で修復ができない。特に、本人が非道いことをしているという自責の念があると、一切そこに触れたくなくなってしまう。江戸っ子独特の弱い気性の持ち主でした。

日下 関係のこじれといえば、都筑さんも何度も破門されていたみたいです(笑)。

和田 一生、人付き合いが苦手だったんでしょうね。息子に対しても、家族に対しても不器用だった。お袋が「家庭のことを考えて、締切までに書いてくれ」と頼んだだけで、プレッシャーのあまり家出していました。

日下 そういう場合、すぐに帰ってこられるんですか?

和田 いや、もう相当留守にしました(笑)。親父には別宅があって、彼らの家に行っていたんでしょうね。ただそこでもうまく行かなくなると、誰にも何も言わず、東京に逃げてしまう。
 どこか、一人で傷ついてしまうんですよね。普通の男が耐えるところを逃げてしまう。普通、男の放浪はタフなものですが、弱くて繊細な放浪でした。

日下 女性関係も華やかだったと思いますが、印象的なエピソードなどあれば。

和田 女性のことで教わったのは、「うせにけり 幽霊いまだ 橋がかり」、これになっちゃいけない、と。「女に振られたら面子を保とうとあれこれ画策するな。何も言わずに消えろ。女が分らない、というのは『あの女は自分に惚れてくれている』といううぬぼれの前提があるからだ。女は惚れてるか惚れてないか、どちらかしかない。分らないのは惚れられてないからだ」(笑)。かつて遊郭で遊んだ世代の男ならではの、なんのうるおいもない女性哲学ですが。本人はそれなりにもてたと思いますが、傷つきやすく、不器用だから失敗してしまう。

日下 そういうセンチメンタルな面が、小説、特にハードボイルドに反映されている気がします。そういえば、映画はよくご覧になりましたか。今まで単著未収録だった「ヴェラクルス」のノヴェライズは、本全集の第三巻に収録させていただく予定です。

和田 ミシェル・ドラック「日曜日には埋葬しない」の冒頭には感心していました。主人公が酒瓶の中に入っているところから始まる、その象徴的なところがいかにも映画だ、と。イングマール・ベルイマンの「夏の夜は三たび微笑む」も好きでした。

日下 ご自身の作品では「私刑」が映画化されていますね。

和田 初めて大きな収入になって、トランクにお金を詰めて信州に持って帰りました(笑)。なぜか音羽の講談社にお金を取りに行ったことを憶えています。主演が嵐寛寿郎さんだったかな。新東宝の配給で、記憶ははっきりしないのですが、多分皆で長野で観たのではないでしょうか。

日下 いろいろ興味深いお話を、有り難うございました。

(平成24年12月11日 東京創元社)

出演者プロフィール

和田周(わだ・しゅう)
俳優、声優、劇作家。1938年東京都生まれ。演劇集団「夜の樹」主催。

日下三蔵(くさか・さんぞう)
書評家、フリー編集者。1968年神奈川県生まれ。専修大学卒。主な著書に『日本SF全集・総解説』、『ミステリ交差点』、主な編著に《中村雅楽探偵全集》、《都筑道夫少年小説コレクション》他多数。
(2013年2月5日)



海外ミステリの専門出版社|東京創元社