さて、第二の点です。第三短編集『老女の深情け』の解説で杉江松恋さんは、事件の発生年が明示されていることを指摘して、「実話小説を模した形式で小説を書こうというヴィカーズの意志の表れ」としています。実話小説というより犯罪実話だと思いますが、その他にも、事件が過去のものであることを明示して語っているところや、捜査資料などの他の資料を参照しているかのような書き方を織り交ぜるところなどにも、その特徴を読み取ることが出来るでしょう。そうした見方は、特別なものではなくて、クイーンも「小説の形をとった犯罪事件実話集と思わざるを得ない」と書いています(「信念に生きる女」のEQMM掲載時の解説)。ただし、そのスタイルが貫徹されているかという、やや次元の異なる文学的な完成度を云々しようとすると、少々心もとないことは確かなのですが、まあ、そのことは措いておきましょう。それを言い出すと、ノンフィクションに許される文章の問題になって、ニュージャーナリズムまで含む大きな問題になりすぎます。ともあれ、『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』によると、ヴィカーズには新聞の犯罪記者の経験もあったといいますから、こういうスタイルはお手のものだったはずです。
 以上のようなことは、知識としては了解されているかもしれません。しかし、ヴィカーズの迷宮課シリーズの、圧倒的な、もっとも顕著な特徴というのは、この犯罪実話の文体によって、犯行に到る過程を細密に描いたことだという点は、それほど了解されていない。あるいは、軽視されているように、私には思えるのです。杉江松恋さんは、それでも「解決のユニークさ以上に、犯人が抱える動機の異常さに興味を覚える」と、はっきり書いています。それは当然のことで、その部分を描くことに、ヴィカーズは枚数をかけ、労力を注いでいるのですから。むしろ、解決はつけたしに近く、枚数的にも圧倒的に少ないのです。
 たとえば「ゴムのラッパ」は、いささか幼児性の残る男が、母親の死をきっかけに、彼女が営んでいた薬局をたたみ(彼は薬局を継ぐだけの力がなかったのです)、ロンドンに出て、ふたりの女と知り合うという過程を、丹念に描いていきます。このように書けば、もうお気づきでしょう。その過程は、アイルズの『殺意』『レディに捧げる殺人物語』と、きわめて近しいのです。そして、その細かさ丹念さが、あてずっぽうな解決とコントラストを成すというからくりなのです。倒叙ミステリとはいえ、その解決は、あくまで軽い。それが証拠に、このシリーズを読んだことのある人は、事件を解決する探偵の名を思い出してみてください。迷宮課の名はみんな覚えていても、レイスンという警部の名を覚えている人は少ないのではないでしょうか。探偵役の存在も、それくらい軽い。そして、犯罪実話ふうの描き方というのは、たまたま選んだひとつのスタイルとは言えないでしょう。犯行に到るまでの、いや、そののちの逮捕や処刑に到るまでの、ひとりの人間の軌跡を描くには、お馴染みのスタイルとして、慎重に選ばれて採用されたものなのです。
 こうして描き出された殺人者の肖像は、簡単な理解の仕方を拒むような、人間の複雑な在り様を、それと語らずに示していました。いや、単に、殺人者その人ばかりではありません。殺人者とその被害者との関係性は、通り一遍な理解を超えていることを、私たちに教えてくれるのです。
 二番目の作品「笑った夫人」の犯人は、著名な道化役者であり、被害者は彼のアシスタントから妻となった女性です。あるカクテルパーティの余興の途中で消え失せた夫人が、二日後、余興の道具のカーペット(ぐるぐる巻きになっている)から死体で発見されます。そこで章が変わり、犯人が、まず画家から出発し、画家としての奇妙な挫折を経ていることが描かれます。彼の絵筆からは対象への残虐さが自然に滲み出るのです、そのことに気づき、衝撃を受けた彼は、自画像を描くことで最高に残酷な形の自己確認をすると絵筆を折り、道化役者の道を歩むのです。彼は道化役者として成功し、やがて、女性のアシスタントを雇いますが、デビューの日、彼女が本番中に吹き出したことをとがめて、二度と笑うなと指示します。彼女はそれを忠実に守り、ふたりのショーは人気を集めます。やがて彼は彼女に求婚し、受け入れらます。公私ともに充実したパートナーであるはずのふたりの関係に、ある日、彼はいびつさを見出します。彼は彼女の笑顔を見たことがなかったのです。
 少し長くなりましたが、それでも、まだ、この段階では彼は彼女への殺意を抱いていないのです。この後は省略しますが、微妙なすれ違いの末に彼はパーティでの出し物を使って、彼女の殺害を計画します。肝心の殺人のプランがいまひとつ信頼性に欠けているように思えて、この短編は竜頭蛇尾な気がしますが、前半の屈折した道化役者像は圧巻といっていいでしょう。それに、つい「肝心の」と書きましたが、殺人の計画とその露見が、本当に「肝」であるのか、実は、私には自信がありません。
 また、これに続く「ボートの青髭」は、題名からも分かるとおり、次々と妻を殺していく男の話です。それも、手口がひとつで、乗っていたボートが転覆し、助けることが出来ないまま、妻を死なせてしまうというものです。この作品は、一種の法の盲点をついたアイデアがあって、法律的には犯人を罪に問えないようになっているのですが、中のひとつだけ、それが当てはまらない形になっていたことが判明するのです。ところが、裁判後にそれが判明したのでは、一事不再理の原則が働きますから、やはり犯人は逃れてしまう。そこを回避するために、構成に工夫していて、ミステリとしての技巧がこらされたという点ではシリーズ中でも一、二を争いますが、同時に、その特別なひとつの殺人は、衝動的であるとともに粘着質なもので、犯人の性格の不気味さを浮かび上がらせているのです。

 迷宮課の事件は、そのひとつひとつが、どれも複雑な動機や、一筋縄ではいかない人間関係の綾に根ざしたものなので、具体的に説明するには手間がかかります。
「赤いカーネーション」は「数ある死体処理方法のうち、おそらく最も危険で厄介なものは、一箇あるいは二箇以上の旅行用トランクに死体を詰めて駅留めにする手であろう」と、鮎川哲也が読んだら卒倒しそうな文章で始まります。しかし、いくつかの偶然の重なりから、かつて結婚しそこねた女性の悲惨な境遇を知り、さらに、その女性の死を経て、彼女の境遇に責任のある男を殺すに到る過程が、隙のない手順(これこそ運命というもので、どこかで、ひとつ、この手順が狂ってさえいたら、この殺人は起きなかったでしょう)で描かれます。赤いカーネーションは、確かに、犯行が露見するきっかけの小道具ではあります(だから題名になった)が、それ以上に、犯人の女性に対する、遅すぎた愛情を示すものでありました。
「黄色いジャンパー」の犯人は、16歳のときの不幸ではあるけれど些細な体験と、それについての継母の言葉に縛られる形で、自分の魅力に自信を失い、恋愛に過度な警戒心を抱くようになったオールド・ミス(ただし犯行時の年齢は36歳)です。彼女はある男に好意を抱きますが、それは恋愛へ発展せずに、彼女は教師を辞してパリの託児所で働く道を選びます。その後帰国し、教師に戻った彼女の前に同僚の教師として現われたのが、被害者の男ですが、「ロマンスとは全然関係のない一種の親密さが生まれた」というのです。そして、その男が他の女と婚約し、その結婚相手と話をすることで、彼女の中に、その女にとって代わる必要が芽生えてきます。決め手となる証言が、男の側のある種の無関心さ無神経さと密接に関連しているのが、胸をうちます。最後の最後まで男心とすれ違わざるをえなかった犯人の、力のない微笑が目に浮かぶようではありませんか?
 さきほど、杉江さんが指摘したことで、犯行時が明示されていることに触れました。それはいずれも過去のことで、かなり時間が経っていることも珍しくない。迷宮課シリーズは、おおむね40年代に発表されていますが、事件の多くは20年代から30年代の、いわゆる戦間期です。そして、どうも、このことには意味がありそうです。ひとつには、犯人に代表される登場人物たちの行動を律するモラルが、いささか古めかしい。「赤いカーネーション」「黄色いジャンパー」には、一種の純愛物語の側面がありますが、それを支えている奥ゆかしさ、慎み深さは、発表当時にあっても旧弊だったのではないか? 初期の作品にしばしば登場する、登場人物の行動に過去の心理的な原因を求めるという発想も、この時代が、かつての時代を究明するための作法ではなかったでしょうか? すなわち、犯人を主とする登場人物たちの過去をつぶさに描くことは、ここでは、過去のある旧弊さの下にある人々を描くことになっているのではないか?
 こうした疑問を持ちながら、次回、さらにロイ・ヴィカーズの短編を読み返していくことにしたいと思います。


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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