グルーバーについて言及されるときに、必ず出てくるのが、ミステリのプロットを作るための11か条です。これは「パルプ小説の生命と時代」に出てくるものですが、その11番目は「感情」となっていて「主人公は、ある程度、個人的に関係している必要がある。彼の行動は義務以上のものでなければならない。あるいは彼がうける報酬以上でなければならない」としています。この11か条は、すべてを満たせというのではなく、その条件にあてはまることが多ければ多いほどいいとしていますが、それにしても、この考え方でいくならば、しろうと探偵が好奇心から事件に乗り出すという型が忌避されることは、容易に想像がつくところです。しかも、一番目の「主人公」のところでは、「正規の警官や刑事は、はなやかではない」と否定的なのです。グルーバーの法則は、パルプマガジンの読者にウケるため、実戦的に編み出されたものでしょう。しかし、こうなると、ウールリッチあたりに似たサスペンス小説を志向することに、どうしてもなってしまいます。実際、オリヴァー・クエイドもの以外で翻訳された短編は、そうしたものが多く、また、実は、こちらの方に佳作が多いと私は考えています。
 たとえば、日本語版EQMMに最初に紹介されたグルーバーは、「お金を千倍にする法」でした。これは、グルーバーのシリーズキャラクターであるジョニイ・フレッチャーの相棒サム・クラッグが、単独で登場するという珍品です。サムは月賦販売の代金回収をしていますが、死亡記事の喪主の欄をチェックして夜逃げした債務者を見つけるという、気の利いた出だしで読者を釣っておいて、債務者に取り立てにいくと、彼は殺されている。そのまま、あれよあれよという間に、詐欺グループの事件を解決するはめに陥るのですが、登場人物の面白さに比して、事件の謎や解決には魅力がありません。
 それに比べると、「おれをクビにできない」は、はるかに魅力があります。主人公の「おれ」は、金庫の錠前の会社の職工ですが、賭けボーリングで金をすってしまう浪費家でもある。間違って開かなくなってしまった金庫があると、派遣されて開けたりするのですが、その手際が新聞に少々過大に報じられたために、ギャングに腕前を狙われることになります。金庫破り談義をしている(というのが、そもそも、おかしいのですが)うちに、実際に企んでいるであろう強盗計画の細部に、主人公が意見をすると、それに基づいて、ギャングは計画を修正しなければならなくなる。しかも、コトが終わるまでは身柄を拘束され、強盗が完了すれば、今度は、警察から共犯を疑われる。解決では、一応、さらにひとひねりしてみせますし、ニヤリとさせる最後のオチまで、愉快な一編でした。
『ブラック・マスクの世界』第5巻に載った「指」は、日本語版EQMMに掲載された「ねずみと猫」と同一作品ですが、アパートをシェアする同居人が殺人者ではないかという疑いを持った主人公のサスペンス小説で、これなどは、同時代にパルプマガジンで過ごしたウールリッチと比べたくなるような短編です。ウールリッチほど雰囲気を出すのが巧くない――というより、そんなことに目もくれませんが、破綻することもない。同傾向で、さらに面白いのが「過去のある花嫁」という作品です。
 結婚直前の主人公に、見知らぬ女から結婚を取りやめるよう電報が来る。無視してハネムーンに出ると、女はそこまで追ってくる。新婦はもともと主人公の親友の妻で、親友の死をきっかけに愛しあうようになったのですが、その親友の前には、電報の女の兄と結婚していて、みんな不審死をとげているというのです。疑問を持った女は、私立探偵を雇って、新妻の過去を洗わせますが、何人かの夫が死んでいて、過去を偽った形跡もある。しかし、一方で、相続した莫大な遺産をつぎ込んで探偵を雇い、兄殺しを立証しようとする女の姿もエキセントリックに見えてくる(彼女の耳に心地よい情報を出すほど、私立探偵は金になる!)。ちょっとウールリッチが書きそうな話ですが、ふたりのうち、どちらを信じていいのか、読者に決め手を与えないまま、結末になだれ込むのは、グルーバーの職人の腕前というものでしょう。
 グルーバーにはミステリ作家以外の顔もあって、中でも日本で知られているのが「十三階の女」という怪談でしょう。別冊宝石に訳された「黄金のカップ」も怪談ですが、「十三階の女」には、おそらく及ばない。おそらくと書いたのは、「十三階の女」は、学研の雑誌、学習の付録の小冊子で読んだきり(クイーンの「神の灯火」「消えた黒い家」という題のこれで読みました)で、今回、手に入らなかったためです。
 もうひとつの顔は、西部小説の作家としてのそれです。ここまで来ると、短編ミステリの話からは逸脱してしまいますが、日本語版EQMMの西部小説特集に掲載された「硝煙の町」には、触れておかねばなりません。
 舞台となるブロークン・ランスの町は、「テキサスの牧牛業者が、カンザスの鉄道へ牛の群れを追って来」るカンザスの町ですが、主人公のトムキンズが保安官として着任する直前は、2か月の間に4人の保安官が(おそらくは銃弾に)倒れていたのです。敵役は、4人の前任者のうち2人を葬ったディック・セラーズという男。衆人環視のもとで相手を挑発し、先に拳銃を抜かせてから、自慢の早撃ちで倒すので、何人撃ち殺しても、必ず正当防衛になるのです。最後にふたりの対決に到るのは、西部劇の典型的なパターンと言えます。ありきたりかもしれません。トムキンズは東部の男(ヒロインを連れてイリノイに帰りたがっている)、セラーズはもちろん西部テキサスの牧童ですが、時は1874年、すなわち「リー将軍がエパマタックスで降伏してから九年の歳月が流れていた。だがテキサスは決して降参してはいなかった」という状況・時代設定なのです。しかも、テキサスで一頭3ドルの牛を、カンザスまで運ぶと20ドルになるのですが「その値段の差がテキサス男たちは気にいっていた。しかし同時に、北部の金ということで憎んでもいた」のです。保安官と牧童の対立は、西部と東部の対立であり、それは、実は南北戦争での対立であって、なおかつ南北問題でもある。私の西部小説・西部劇についての知識はいたって乏しいものですから、もしかしたら、これは常識に類することなのかもしれません。しかし、この設定の背景への踏み込み方は、ミステリ作家グルーバーからは考えられないシャープなものだと思いました。

 先に触れた「パルプ小説の生命と時代」は、のちに出る自伝エッセイThe Pulp Jungle(門野集さんとのお喋りに出てきましたね)の雛形となったようです。具体的な原稿料を出しつつ、売り込みに奔走する自画像を描いたものですから、どうしたって、あけすけになってしまいます。それを嫌味に感じさせない明るさが、グルーバーにはあるのですが、それでも、連載第一回につけられたリードにはこうあります。「外国人作家がお金についてフランクに喋るとは聞いていますが、これを読むと、フランク・クルクルパーじゃないかと思われるくらいです。自己の作品の良し悪しより、まず一語何セント一篇何ドルとソロバンをはじいてしまうのですから驚きです」1967年の日本の常識からすると、グルーバーの姿は、金に汚く軽佻浮薄に映ったかもしれません。そもそも、いまだにこの国は、原稿依頼のときに原稿料が提示されるとは限りませんからね。しかし、それ以上に、大不況下のアメリカで、なんの伝手もない男が、作家として暮らしをたてていくということに対する決定的な無理解、あるいは、理解を阻んでいる溝のようなものを感じます。
 一語1セント。グルーバーが世に出るきっかけとなる一晩で書いた短編が、5500語でした。原稿料は55ドル。この55ドルがどのくらいの価値かは、そう簡単には分かりませんが、一語1セントを2セントにするために、グルーバーは涙ぐましい苦労を重ねます。1セントを2セントにしたと考えるべきか、原稿料を倍にしたと考えるべきかも、難しいところでしょう。そうして、パルプマガジンの売れっ子になり、スリックマガジンは性にあわず(狙って果たせなかったのかもしれません)、ハリウッドへ行くと、そこではマガジンライターは尊敬されていないらしいと気づく。作家は本を出していないといけないのです。本になる長編を書くことにしたグルーバーは、西部小説よりもライヴァルは多いけれど、西部小説よりは成功の可能性が高そうな、ミステリの作家をグルーバーは目ざしました。ミステリのプロットを作るための11か条とともに、グルーバーの発言でよく引き合いに出される「ガードナーの小説の複雑なプロットとテンポに、ジョナサン・ラティマーのユーモアを加えようと考えた」という言葉も、「パルプ小説の生命と時代」に出てくるものですが、長編ミステリの作家として立とうと考えたときの言葉なのです。
 どうしたら編集者に受け入れられ、読者に喜ばれるかを、慎重に作戦をたてて考え、パルプマガジンの大家となったグルーバーが書いた短編ミステリは、魅力的な謎と魅力的な解決は乏しいものでした。そんなところに読者の興味はない。少なくとも、もっと大切なこと優先しなければならないことがある。グルーバーはそう判断したのでしょう。同時期のウールリッチが、魅力的な謎を志向しながら破綻し続けたことと、極めて対照的なように、私には思えます。


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


ミステリ、SF、ファンタジー|東京創元社