稲葉明雄は、ミステリマガジンに「女を試めせ」「トライ・ザ・ガール」)を訳出したときに、こう書きました。
「ここで強調しておきたいのは、先に書かれたにもかかわらず、おおむね中篇のほうが出来がよいらしいという事実だ。彼の長篇はストーリイが錯綜をきわめているため、どうも読後感がはっきりしないという非難があるが、その点では、中篇は筋が単一なために、すっきりした効果を上げているものが多い」
 のちに創元推理文庫のチャンドラー短編全集に結実する、稲葉明雄の仕事の始まりとはいえ、この意見には賛成できません。中編だって、すっきりしていないし、凝った書き方が、人物描写には功を奏しても、行動描写やストーリイ展開の面では作品を鈍重にしていて、多くの作品はとても褒められない。もっとも、自分が翻訳の第一線に立ったときには、惚れ込んだチャンドラーの長編は、年長の翻訳者がすべて手掛けていて、中編にまわらざるをえなかった稲葉明雄の無念を、この文章の背後には見ないわけにはいきません。
『さらば愛しき女よ』「トライ・ザ・ガール」「犬が好きだった男」「翡翠」をカニバライズしたものです。三編のどれを取っても、長編にはとてもかなわないと私は思いますが、それでも、チャンドラーの特徴を示す手がかりは、いくつも残されています。
 三編のうち、もっとも秀れていると私が考えるのは「トライ・ザ・ガール」ですが、それは、のちに『さらば愛しき女よ』の冒頭にカニバライズされた、スティーヴ・スカラの破天荒な登場シーンのおかげです。スカラはのちに大鹿マロイとして人々の心に残る登場人物となりました。比較してみても、長編の方が、よく出来ていると考えますが、それでも、ぶん殴るような、この大男の登場(というか、本当に、ぶん殴っているのだけど)は、たまらなく魅力的です。けれど、「トライ・ザ・ガール」にヴェルマはいませんでした。ここに出てくるヴューラとヴェルマの差は、あまりに明らかで、これでは、比べても勝負になりません。また、「翡翠」には、長編のアンに相当する若い女性が登場しますが、ダルマス探偵とのやりとりなど、まるでトミーとタペンスのようです。これらの少し前に書かれた「金魚」は、マーロウがドートマンダーすれすれのところまで下りてきていて、ユーモラスなクライムストーリイ(とは完全に言いきれませんが)に接近しています。ここで、マーロウにネタを持ってくる(つまりケルプですね)女性とのやり取りは、貧乏な分だけ、もう一歩危険な側に踏み込んだジャスタス夫妻といった感さえあります。そして、どちらも、トミーとタペンスの明るい快活さや、ジャスタス夫妻のにぎやかな活気に欠けるのです。
 パルプマガジン時代の中編には、不思議なことに、魅力的な女性の登場人物が出て来ません。そこには作家としての成熟の問題があるように感じますが、それはここでは触れません。ただし、脇役を描く巧さはこのころから持っていて、その代表例が「トライ・ザ・ガール」の、居眠りをする黒人コンシェルジェでしょう。「犬が好きだった男」のクライマックスに突然現われて場面をさらうのが、主人公を賭博船に送り込む、レッドという好漢です。前回も書きましたが、こういう男心が通じ合うところを短い場面で描かせたら、チャンドラーは巧いものです。得意という点では、酒を呑んではいけない酒びたりを描くのも、チャンドラーの十八番です。とくに女のだらしない酒呑みを描くのは巧い。さきほど、魅力的な女性が少ないと書きましたが、女性の魅力的な描写はあるのです。ただし、それは決まって、関わり合いになりたくない女性を描いたものなのです。
 各務三郎はチャンドラーのマーロウものの特徴的な長所として「〈表情〉への偏愛ぶり」(「ガラハッドの都市」)をあげています。人物描写に冴えを見せるのは、その点が与っているのかもしれません。一方で、「反復が多い」文章の「リズムが独特の感傷性を作り出す」ことで、チャンドラーは権田萬治を虜にしました(「感傷の効用」)。それらは、マーロウという作家的な視線を持った探偵の一人称であるがゆえに、成立したものでしょう。そして、その萌芽は、マーロウ登場以前のパルプマガジン時代の中編(厳密には、探偵の名がフィリップ・マーロウとして書かれたものは、ひとつもない)にも見られます。ですが、それらの特徴ゆえに、重たくて、もたついた描写になってしまうこともありました。「車をおり、ゲートをあげ、車を乗り入れてから、ゲートを閉めた」(「レイディ・イン・ザ・レイク」)と、いちいち書かなければ気がすまないのでしょう。
「それが高価なこわれ物ででもあるかのように、慎重にその手をおろした」という文章を自分の行動の描写に用いる(「トライ・ザ・ガール」)のは、気障な文章とはいえ、まだ、愛嬌があると考えられるかもしれません。しかし、凝った言い回しは、しばしば空振りするものです。水を飲むと「コレラ培養菌の味がした」(「金魚」)、り「ナポレオンとジョセフィーヌを演ずる二人の変人のように見つめ合って」(「トライ・ザ・ガール」)みたりしますが、こうした表現で、なにかが伝わるとは思えない。洒落てみようとする、一人称の話者のわざとらしさが透けるだけです。
 そういうふうに言い回しに凝るわりに、事件の展開上、重要な場所であるクラブへ、主人公が行くにあたって「ここでなにをしたらいいのか、自分でもよくわかっていないのだが、来なければならない場所のひとつだと思ったのだ」という理由で、彼はそこに赴くのです(「ベイシティ・ブルース」)。なんたる無造作。

 パルプマガジン時代のチャンドラーで、ひとつとなると、私は少し考え込んで「赤い風」を採ることになるでしょう。『大いなる眠り』を構成した「キラー・イン・ザ・レイン」「カーテン」もいいし、『湖中の女』にカニバライズされた「ベイシティ・ブルース」「レイディ・イン・ザ・レイク」を読むと、チャンドラーがミステリを書く技量を上げていることが分かります。先に書いたように「トライ・ザ・ガール」のスカラの登場は、大鹿マロイの登場がそうであったように魅力的でした。しかし、ミステリとしての展開と文章ともに、バランスよく工夫されて、それが最後まで緩まない点で、「赤い風」はハードボイルドミステリのひとつの標準点になっていると、私は考えています。
「赤い風」は、砂漠を吹き下ろす熱い風の吹く夜、マーロウがアパートの向かいにある開店早々の酒場に入るところから始まります。マーロウはビールに喉を潤します。この孤独な男はスコッチやギムレットを飲むが、ビールは飲まない、というわけでは必ずしもないのです。店には酔っぱらった男がひとり。そこに、もうひとり男がやって来て、女の服装をこと細かに説明して、その女が来なかったかと、緊迫した声(が、マーロウには気にいらなかった)で訊ねます。誰も女のことは知らず、男はスコッチをせっかちにひっかけて、店を出ようとした刹那、酔っ払いだったはずの男が、突然見事なガンマンに変身し、後から来た男を撃ち殺し、彼の車で逃げ去ります。マーロウと店の男は警察に通報します。マーロウは殺された男がやった、女の服装の描写が詳しすぎることに疑問を抱く。「青い縮緬のシルクのドレスの上にプリント地のボレロ。私はボレロが何かさえ知らない。それに、青いドレス、よくて青いシルクのドレスぐらいなら言うかもしれないが、青い縮緬のシルクのドレスとはぜったいに言わない」どうです。ミステリの冒頭には、こういうものがなくちゃ。
 マーロウは自分のアパートに戻ると、エレヴェーターのところに、死んだ男が描いた服装そのままの女がいる。このまま出ていくと、警察に見つかると、言葉巧みにプリント地のボレロは脱がせて、自分の部屋へ連れて行く。しかも、この女の挙動にも怪しいところがある。3階に住んでいるというものの、いたのは4階で、どうも、このアパートの住人だというのは嘘らしい。
 以下、殺人者の来襲とその返り討ち(ここ、サスペンスもあり、展開も意表をつきます。「いまでも拳を握りしめると、あのときの感触が甦る」一撃で倒すのです)あり、警官との談合と、その裏切りありと、事件が納得のいく形で短い時間の間に連鎖していくところ、ハードボイルドミステリはこう書くんだと言わんばかりです。その短い時間の間じゅう、熱くて強い風が吹いているのが、当然ながら、これまた好手。「あなたも読んだことがあるでしょう。妻が本物の真珠を持っていて、夫には偽物だと言う話」と言われ、「モームだ」と答える。気障なところも、ここでは効果的です。
「赤い風」はハードボイルドミステリとして間然するところがありません。ハメットの「ターク通りの家」がそうだったように、探偵が心ならずも事件に巻き込まれる形をとっていて、「ターク通りの家」ほどではありませんが、純粋なディテクションの小説からは少々逸脱しています。それはともかく、チャンドラーが、こんなに端正なミステリを書いたというのは、奇跡的な偶然ではなかったかと、私は考えています。「赤い風」は、ハードボイルドミステリの、ある種のプロトタイプとして、その地位を要求できると考えますが、同時に、その出来栄えは、それほど飛び抜けたものではありません。たとえば、長編を書くことにウェイトを置き、パルプマガジンに中編を書き続けることを止めたチャンドラーが、唯一書いた短編小説に比べれば。サタデイ・イヴニング・ポストに掲載されたその短編は「待っている」でした。


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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