ディテクションの小説という言い方にこだわらざるをえないのは、ハメットと同時代やその後のブラック・マスクの作家が、多くはディテクションの小説を手がけ、そして、ぎごちないままに成果をあげることなく終わることが多いからです。もっとも、淘汰されていく小説は数多あるわけで、シャーロック・ホームズのライヴァルたちにも、そうしたものは多くあり、黄金期のパズルストーリイも、また同様です。ただ、失敗例からも学べることはあるはずです。
 フレデリック・ネベルは、ハメットとポール・ケインをのぞくと、『ブラック・マスクの世界』でもっとも厚遇された作家です。第二巻の「ボストンから来た女」は、マクブライド警部と新聞記者のケネディが活躍します。街でクラブを経営する良心的なボスが、引退を決意し、クラブを売りに出します。良心的らしからぬ買い手はみんな拒絶し、信頼できる旧友に売ることにしますが、その友人が街に着いた瞬間、ケネディの目の前で射殺されてしまう。以後、事件に次ぐ事件がめまぐるしく展開しますが、そのわりに魅力がない。相次ぐ事件が、解決までの退屈な段取りに見えるのです。私が本格的にミステリを読み始めた70年代には、パズルストーリイでくり返される各人への尋問を、退屈な段取りと批判する人がいて、その批判があたっている場合もあるのですが、では、その間に事件がなにか起きていれば退屈でないかというと、そんなことはないわけです。謎が解明に向かっていく足どりや、反対に謎が深まっていく感覚。そういうものがあれば、退屈どころではなくなるのです。大切なのは、尋問がくり返されるか、主人公のアクションが中心となるかといったことではなく、小説が駆動していく感覚が与えられているかということのはずです。第三巻の「殺人狂想曲」に到っては、主人公の動きは一向に解決に結びつかず、事件は勝手に解決してしまう。ヒラリー・ウォーの『失踪当時の服装は』やヘニング・マンケルの『殺人者の顔』のように、警察の組織的な捜査を壮大な徒労の果ての成果として描くことが、ひとつの方法であることもありますが、その場合でも合理性をないがしろにすることはありません。ひとつひとつ可能性を塗りつぶすことと、意味のない無駄走りをすることとは、同じではないのです。
 このほか、名前はあげませんが、忘れられるべくして忘れ去られたであろう作品を読むうちに、フランク・グルーバーの人間百科事典オリヴァー・クエイドものにぶつかると、さすがにホッとします。第三巻に収められた「ストライキの死」は、ストライキの妨害工作をかいくぐっていく、きびきびした展開が生命で、殺人事件とその謎解きは、つけたしと言って悪ければ、その困難のうちのひとつ――だから、厳密には、ディテクションの小説とは言えないでしょう――かもしれません。労組にロックアウトされた工場内部で殺人事件が起き、組合側はそれを隠蔽したまま、いつ州兵が介入するかもしれないなか、労使交渉が進めていく。セールスに来たところ、どういうわけか中に閉じ込められたクエイドが、最初は経営者側のスパイと疑われながら、小さな貢献を積み重ねることで信用を得ていき、最後には事件を解決します。グルーバーは、近いうちに、あらためて取り上げる予定ですが、残る作家は、腕前が違うことを実作で証明しています。

 ラウール・ホイットフィールドの名は、まったく忘れさられたというわけでは、ないかもしれません。ただ、ミステリマガジンに訳された「青い殺人」「チャイナ」といった作品や、ブラック・マスクの世界に収録された「内部の犯行」を読むかぎり、ディテクションの小説はうまくない。「青い殺人」など、前半部分の探偵への依頼と人間関係の描写はハードボイルド、後半の殺人事件は謎解きと、まさに水と油に分かれていて、そのどちらにもひらめきがない。「内部の犯行」の内部ぶりたるや、無理な話を作ったとしか言いようがありません。そもそも、ディテクションの小説の手際以前の問題として、この作家はくり返しが多くて、はなはだ鈍重な短編小説を書きます。最大限好意的に考えたとしても、幼稚な読者を想定しているのでしょう。
 これらディテクションの小説を、今回初めて読んだのですが、その拙さは、私には少し意外でした。というのも、以前EQで読んだ「ミストラル」という短編の印象が良かったからでした(もっとも、作者名は忘れていましたが)。主人公の私は、アメリカの探偵社のヨーロッパ支局員らしくて、ジェノアのレストランで奇妙なアメリカ人を見つけます。半ば偶然、半ば意図的に、地中海に沿ってフランスからモナコへ動くその男に、私はついていくことになる。スパゲティをナイフで切るとか、カジノへ入るのにパスポートの提示が必要なことを知らなくて、偽名を用いていることが分かるとか、些細なことで男の怪しさが露見していく手順からして、巧妙なものです。男の本名が判明したところで、パリ支局から連絡が入る。なんと、いま判明したばかりの名前の男の居所を調べろというのです。
 ミストラルというのは、地中海沿岸で数日吹き続けるという強い季節風のことで、人間の力を超えた不気味さを醸し出します。男の居所をパリに連絡する一方、私は掟破りの挙に出ます。男に接触するのです。パリ支局からは調査の打ち切りが指示され、ということは、あとは依頼人がかたをつけるのだと、私は判断します。強風は止まず、その風をおして、依頼人を乗せた飛行機がやって来ます。
 再読してみると、この小説にもくり返しのしつこさはあって、この作家の癖なのでしょうが、それでも、不穏さが最後まで緩まない、見事な短編でした。おそらく小鷹信光の筆であろう解説は「ヘミングウェイの『殺人者』を思わせる抑制のきいたスタイルが光っている」と結んでいますが、それはさすがに過褒というものでしょう。「殺人者」はもちろん、ハメットの「帰路」と比べても、簡潔さの点、さらには、その中に秘められた奥行の点で、いささか落ちますが、こういう好短編も書いていることは確かなのです。
 ホレス・マッコイは、不遇な作家だと思いますが、それでも確実に、ホイットフィールドよりは名を残したと言えるでしょう。『彼らは廃馬を撃つ』は、ヒロインの造形が巧みで、女を描くという点ではハメットを上回るのではないかと思いますし、『明日に別れの接吻を』が、これまた素晴らしいクライムストーリイです。
 それでも短編となると話は別です。「黒い手帳」「テキサスを駆ける翼」といった、テキサス航空警備隊長フロストものは、設定のあまい冒険小説だし、ミステリマガジンに載った「マーダー・イン・エラー」は、コンティネンタル・オプの下手なイミテイションにすぎません。サラリーマン探偵が刑事を殴りかえすシーンをハメットが読んだら、絵空事だと呟くのではないでしょうか。それでも、他のブラック・マスクの作家と比べると、小説の構えと見ているところが違います。その良さが出たのが、ミステリマガジンに掲載された「グランドスタンド・コンプレックス」という二輪レーサーの小説です。ナンバーワンレーサーの主人公が、ナンバーツーの男から、次のレースで負けた方が自殺する、つまり命を賭けたレースをやろうと持ちかけられる。無茶な話なのですが、それに説得力を与える巧さと、レース場面の緊迫感があって、なにより見事なのは、その緊迫した試合が終わったのちの主人公の態度の変化を、あっさりとした描写ながらくっきりと示したところです。
 ラウール・ホイットフィールドの「ミストラル」といい、ホレス・マッコイの「グランドスタンド・コンプレックス」といい、掬すべき逸品ですが、両者の作家としての資質のためか、ともに、ディテクションの小説ではありません。ハメットも、ディテクションの小説はどちらかというと下手でした。確かに『マルタの鷹』はディテクションの小説であり、それを抜きにしては成立しないものでしたが、その魅力は、ディテクションそのものというより、ディテクションをしているスペイドという人間像によるものでした。
 タフなヒーロー、客観描写、口語表現、スピーディな展開、アメリカ社会のリアルな背景といった、ハメットのもたらした、おおざっぱな共通項のうちの全部あるいはいくつかを満たしながら、ハードボイルドは書かれていくことになります。それは依然として、大きな混沌でした。


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『小劇場が燃えていた』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』等がある。


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