ダシール・ハメットは、ミステリ作家の中では、研究が進んでいる部類なので、商業誌デビューがスマート・セット1922年10月号The Parthian Shotと、つきとめられているようです。ブラック・マスク初登場は同年12月の「帰路」で、こちらは翻訳があります。「帰路」はショートショートといって差し支えない、いたって短い作品です。最初期の4年間には、オプものの短編以外では、しばしば、こういう短い作品が見られます。ハメットは掌編はあまり巧くないし、短編でも、枚数のあるものや、ある程度起伏のあるプロットのものの方が、出来が良いように思います。しかし、この「帰路」に関しては、ほぼ唯一の例外といっていい、ショートショートの秀作だと思います。
 痩せたカーキシャツの男が、アジアワニの棲む河に浮かんだ船の上で、ニューヨークから彼を追ってきた探偵と、相対しています。中国とビルマ(いまのミャンマーですね)の国境付近と思われるジャングル。男を見つけるのに、探偵は二年の歳月を費やしたらしい。男は見逃してくれるよう、見返りをちらつかせ、言葉巧みに説得しますが、探偵は寝返りそうにはありません。男はすきを見て、イチかバチか河に飛び込みます。探偵は銃で狙う。河ではアジアワニが男を襲うべく待ち構えている。
 気の遠くなるような追跡行の果てに、追う者と追われる者が接した一瞬を、わずか十枚あまりで描き、さらに気の遠くなるような追跡行を暗示して終わる。ある種、ショートショートのお手本のような作品です。確かに、まだ説明的な文章が残って――それも肝心なところで――いて、ハードボイルドは文体だという人には、習作と感じられるかもしれません。しかし、これが商業誌デビューというのは、端倪すべからざる新人というものです。このプロットでひとつの短い小説が構成できると考えたところに、私は才能を感じます。
 翌23年に入って、「厄介な男」は、旧悪を強請られている上院議員が、かつて貸しを作ったことのある男に、問題の解決を頼むという話です。「帰路」は、きっかけとなった犯罪も、ごく簡単に説明される――これを不要とする考え方もあるでしょう――だけならば、マンハントの二年間も具体性を与えられていません。それに比べれば「厄介な男」は、平凡ではあるけれど、犯罪の顛末を追っていき、よりクライムストーリイに踏み込んでいます。次にブラック・マスクに書いたのが、オプものの第一作「放火罪および……」ですが、この間に、他の雑誌にいくつか書いています。「軽はずみ」は、不仲の夫婦を題材にした皮肉な話で、現在の目で見れば、よくある話で平均点を取ったといったところでしょう。「怪傑白頭巾」はショートショートです。原題はThe Crusader。邦訳題名はちょっとふざけていますが、シックジョークのような短編なので、一概におかしいとは言えません。そして、もう一編が「休日」という短編です。
「休日」は、病院にいる主人公のポールが、ひと月の手当80ドルを一日で散財してしまうまでを淡々と描いた、スケッチふうの作品です。ポールは、サンディエゴに行くと届けて「合衆国第六十四公衆衛生病院」の外出許可を得ますが、実際に行くのは国境を越えたティファナでした。抑制の利いた書き方で、刹那的な行動を描出していくところ、私はヘミングウェイの短編に近しいものを感じました。この短編については、野崎六助(『北米探偵小説論』第3章の2)や片岡義男(「一度だけ読んだハメット」HMM94年7月号)といった人たちの論考があって、論じられることで読まれていく作品と言えるでしょう。
 ついでに触れておくと、野崎六助は「オプの関係する少なからぬ事件が、国を喪った異民族との交感にあてられていることを重視しなければならない」としたうえで「大抵は、素材として投げ出されているにすぎず、深められてはいないが、ハメットの物語がもっと偉大になったかもしれない突破口には成りえただろう」と書いています。具体例としてあげられているのは、「クッフィニャル島の夜襲」「カウフィグナル島の掠奪」「死んだ中国人」「シナ人の死」「新任保安官」「金の馬蹄」「黄金の蹄鉄」)です。後続のハードボイルド作家も、その点では「機械的な継承にすぎなかった」という指摘も含めて、的を射た主張だと思います。西海岸にありながら、南や西へ目が行かず、結局は東向きなことが多いのが、アメリカという国ですが、そこに積極的な関心が向かうのは、ミステリに関して言えば、マーガレット・ミラーの後期作品を待たねばなりません。



ミステリ、SF、ファンタジー|東京創元社