あらためて、日本でも不遇だったころに、ミステリマガジンに邦訳された、フィリップ・K・ディックの短編をリストアップしてみましょう。カッコ内の別題は、のちに改題されたり、新たに出た翻訳のものです。
「建造者」70年6月号(あてのない船)
「植民地」70年8月号
「クッキーばあさん」71年1月号(クッキーおばさん)
「レダと白鳥」75年3月号
「地図にない町」75年8月号
「侵入者」77年7月号(ルーグ)
「開き戸の向こうに」78年10月号(ドアの向こうで)
「変種第二号」78年10月号
 ついでに書いておけば、この間の旧・奇想天外にも「グレートC」74年6月号(偉大なる神)と「輪廻の豚」74年9月号(ウーブ身重く横たわる)の2編が訳されています。同時期にSFマガジンでの紹介も、ないわけではありませんが、ミステリマガジンの方が数が多い。ただ、あくまで、幻想・怪奇小説としてのあつかいで、「開き戸の向こうに」「変種第二号」の2編が掲載された際も「ディックのホラーランド」と銘打たれていました。
 もっとも、そういう区分は、必ずしも厳密なものではないし、読む側も、それに囚われていたとは思えません。ただし、それらの短編に、ディック独特の肌触りがあったことと、それがアピールしたであろうことは、間違いないでしょう。たとえば「建造者」は、巨大な船らしきものを、男が自宅で造っている。近所の人や知人はもちろん、家族にさえ、それがいかなる用途と目的を持つのか、はっきりしない。不条理小説めいた展開と語り口は、ミステリの中にあっても、SFの中にあっても、異彩を放つものでした。むしろ、「建造者」の場合は、このオチがつくことで、悪夢から醒めてしまったかのような肩透かしを受けたものです。「クッキーばあさん」の、結末を暗示する力や、「地図にない町」の異世界が侵犯してくることが、受け入れられてしまう不気味さは、前者はコリアやダールを、後者はサキを、私には連想させますが、類似点よりも、それがディックの個性とでもいうべきものになっていることが、重要であるように思います。
「植民地」「変種第二号」と並んで、まごうかたなきSF短編の秀作です。顕微鏡に突然襲われるという、奇想天外な発端から、何にでも姿を変えられる異生物というアイデアは、シェクリイにも類似したものがありましたが、植民地の先遣部隊である彼らが、ひとりまたひとりと殺されていく。反撃もむなしく、ついには、この星を放棄するばかりか、このまま帰還すると、この異生物を紛れ込ませてしまうおそれがあるという展開が、リアリスティックかつ斬新で、それを防いで、全裸のまま迎えの宇宙船を待つというのが、ユーモラスで秀逸なアイデアです。その果てにくるオチも見事で、むしろ、ディックらしからぬ職人的とも言える端正な一編に仕上がっていました。
 これらの作品のいくつかは、1977年にイギリスでジョン・ブラナーによって編まれた、ディックの傑作選と重なっていて、ディックの評価を促す際に、日英双方で好短編と目されたということでしょう。サンリオ版のディックの傑作選は、ブラナーのものをいちはやく翻訳したものから始まっていますから、ディック再評価の火付け役といっても過言ではありません。現在でも早川SF文庫のディック傑作集の第1巻『パーキー・パットの日々』として、ブラナーの傑作選は残されています。
「たそがれの朝食」(薄明の朝食)は、同時期にSFマガジンで紹介された作品中の白眉でしょう。平和な家族の朝食の風景に、突如戦争が乱入してくるという不条理な小説です。自分たち家族だけが、戦場の真っただ中に放り込まれたようなのです。不気味な兵士たちと、その後に登場するポリックという人物。近い未来に起きた戦争のど真ん中に、自分たちが紛れ込んだことを知った主人公一家が、帰還を賭けて選択した結果は……。結末の含みが絶妙な逸品でした。
 高報酬の代償に、自分が働いた二年間の記憶を消去された男が、しかも、その報酬の替わりに、雑多ながらくたを選んでいたという、ミステリ顔負けの冒頭の謎と、そのがらくたが活劇の小道具となっていく「報酬」は、記憶の欠落を補う主人公のアクションで小説が進んでいきます。「パーキー・パットの日々」は、核戦争後の地球で、火星からの援助物資頼みの生活を送っている人々が、パーキー・パットという人形遊びに血道をあげている。停滞した文明の中、未来のなさをいじましい娯楽でまぎらわしている。ともに、その特徴がディックらしく、また、読ませますが、秀作と呼ぶには練度に欠けていました。
「たそがれの朝食」と並ぶのは「フォスター、おまえ、死んでるところだぞ」で、核攻撃に対する防御が、一大産業になった社会のスケッチです。いつ始まるか分からない核戦争に備えて、次々とアップデイトされる防衛設備を購入するのが、消費者の務めとなってしまっている。主人公の少年は、父親が民間防衛組織に未登録の上、防御システムの分担金を納めていないため、学校のシェルターに入れません。敵の攻撃を受けたときの穴掘りや、非常時の逃走法などが学校で訓練される(少年は、訓練中にコーチから「死んでるところだぞ」と注意される)社会では、父親は非国民あつかいに近いのです。自分のささやかな事業に金をまわすため、同じく事業にすぎないものになっている、安全への出費を拒んでいる父親が、ついに折れる日が来ます。その顛末を描いた一編は、平穏な日常――が、SFとして書かれてはいるわけですが――の中で、父親の挫折を目撃してしまう息子の姿を描くという、ニューヨーカーあたりの都会小説に近い感触を私は受けました。
 フィリップ・K・ディックの作品世界は多岐にわたり、いまでは、その全貌に近いものが、日本語で読むことが出来るようになりました。

 フィリップ・K・ディック同様、シオドア・スタージョンも、日本での評価は曖昧なまま時が過ぎていました。長編も短編集も、翻訳の状況はそう悪いものではなかったのですが、積極的な評価は、あまり見られませんでした。『一角獣・多角獣』の新装版解説で、北原尚彦は、旧版が異色作家短篇集の中でも、入手困難なコレクターズアイテムになっていたことを、記していますが、端的に言って、それは旧版の市場流通が少なかったこと、つまり売れなかったことを示しているのでしょう。熱烈なファンはいたのでしょうが、広範な支持は得られていなかったというのが、実際のところだと思われます。
 スタージョンのアメリカでの再評価は、90年代に始まったようですが、それに呼応して、今世紀に入って、スタージョンの没後20年近く経った2003年に、若島正の編による『海を失った男』が刊行されました。ジェラルド・カーシュ、パーシヴァル・ワイルド、ヘレン・マクロイに続く、晶文社ミステリの中の、短編集のラインナップのひとつでした。これが呼び水となって、スタージョンの短編集が集中的に出版されることになるのですが、『海を失った男』の段階では、スタージョンの短編集を出せるのも、これ一度かぎりという覚悟のようでした。編者あとがきで、若島正は、スタージョンの短編集のうち『一角獣・多角獣』をベストとした上で、その中から、原著にはあって訳書では省かれた「ミュージック」という小品と、「ビアンカの手」「シジジイじゃない」(めぐりあい)の3編を採っています。
「ビアンカの手」は、自身では満足に食事をとることも出来ない白痴の娘ビアンカの、しかし、まるでそこだけがビアンカとは別の生き物であるかのように表情豊かな彼女の両手に、主人公の青年が恋をし、ビアンカとその母親との、三人暮らしを始めます。訪れる破局は残酷ではあるけれど、ある意味平凡なものですが、そこに到るまでのしっかりした描写のこまやかさは、並のものではありません。
「シジジイじゃない」は、〈シジジイ〉という、スタージョンが何度か用いたアイデアが、題名に来た一編です。ある日レストランで、主人公は、自分自身と何から何まで価値観が合うばかりか、名前さえ言い当ててしまう、ファンタスティックなまでに理想の女性と突然出会います。日ごろの彼からは想像も出来ない洒落た受け応えで、ふたりの仲は、一気に進むかに見えます。にもかかわらず、彼女の背後に別の男の影が見え始める。完璧なまでに調和していたはずのふたりの間に、なぜ、他の男が入り込めたのか?
『一角獣・多角獣』には、もう一編「反対側のセックス」という、シジジイを扱った作品があり、同時にそれは、やはりスタージョンに時おり見られる、双生児のモチーフを扱ったものでした。シジジイという状態が表わす、幾人かの他者の理想的な調和という発想と、それとはちょうど正反対のように、ひとつの個が双生児という複数の生命に分裂するという発想は、スタージョンの創作の中核を成すと言えるでしょう。『一角獣・多角獣』で言えば、その奇跡的な調和の実現を、ジャズバンドのアンサンブルに見出し、逆に、その見えないけれど完璧な調和に、それを構成するメンバーが耐えられなくなって、殺人におよぶ、クライムストーリイ「死ね、名演奏家、死ね」(マエストロを殺せ)が、見事な出来でした。主人公のコンプレックスを、それと一言も触れずに、真相の奥に潜ませる。表に出るはずのギターを裏に回すことでバンドのスタイルを完璧にするという、主人公を苛立たせてもいたマエストロの正体は、そっくり主人公の立場にもあてはまり、自分がそうするのではなく、自分がそうされているということが、殺意の底にはあったのでしょう。見事な作品でした。『一角獣・多角獣』の中では、これと「ビアンカの手」、そして、人間の孤独を高い純度で取り出してみせた「孤独の円盤」の三作を、私は買います。
 なお、「シシジイじゃない」『一角獣・多角獣』では「めぐりあい」という邦題ですが、『海を失った男』の若島正の解説によると、原文と比べてかなりの脱落があるそうです。しかも、たいていの資料では、この一編のみは小笠原豊樹の訳ではなく、川村哲郎訳となっています。旧版を確認する時間がありませんでしたが、新装版には、この一編だけ訳者が別人であることや、でなければ、改めて小笠原豊樹が新訳を作ったといった記載もありません。これは重大な不備(ある図書館で、新装版の「めぐりあい」を小笠原豊樹訳と明記していた例もあります)ではないでしょうか。

 スタージョンは、いまのミステリファンの間では、エラリイ・クイーンの『盤面の敵』の代作者として、有名なのかもしれません。また、「死ね、名演奏家、死ね」は、動機があやふやで奇妙な描き方――まあ、最後で暗示させる、一種のオチなので、そういう描き方になりますが――でしたが、クライムストーリイ以外の何者でもありませんでした。同じように、主人公が奇妙な動機から、悪いことを企んでは失敗し、ついには殺人まで決行するに到るのが「ルウェリンの犯罪」です。初出はマイク・シェーン・ミステリ・マガジンでした。
 あまり上品ではない若い男同士が集まると、時として、悪さ自慢に見栄を張るといったことになりがちです。女の子を引っかけて、うまくヤったなんて手柄話で、実話かどうかも分かりゃしない。主人公のルウェリンは、そんな集まりで、自分がそういう振る舞いが出来ず、したがって自慢話も出来ず、また出来ないことを負担に感じるような、真面目で小心な男です。ところが、ある晩、初めて出会った女の子と呑むうちに泥酔し、気がつくとベッドの中にいる。その娘アイヴィとは、以後、一緒に暮らすことになるのですが、とにもかくにも、初対面で結婚のけの字もない間に、ヤっちまったと、内心大喜びです。これで、仲間が自慢話に興じるときも、君たちは知らないだろうけど、俺だってと考えることで、負担を感じずに済んでいるのです。アイヴィとの生活は質素で単調ですが、ルウェリンは幸福です。そして19年。アイヴィはずっと自分の負担になっていたことを打ち明けます。実は、ふたりは最初の晩に、まず結婚していて、アイヴィはそのことを隠していたのでした。
「アイヴィ、なんでこんなことをしたんだ?」とルウェリンは傍点つき(原文はイタリックでしょうか)でひとりごちます。そこからルウェリンのオブセッションが始まります。なんとか悪いことをしてやろう――そうだ「スケを買ってやる」。しかし、金がありません(ふたりの財布はアイヴィが管理していました)。そこで、彼女が保管する債券を勝手に処分しようとします。以下、19年間彼に対して秘密を持ち続けたアイヴィは、あなたは悪くないと言い続け、それを証明し続けますが、ルウェリンがやりたいのが悪いことなのだということだけが分かりません。ルウェリンの行為は、常に彼を満足させることなく、悪事のみがエスカレートしていきます。
 奇妙な動機のユーモラスなクライムストーリイで、実際、終始ニヤニヤしながら、私は読み終えましたが、同時に、そのユーモアが、どんどんグルーミイになっていき、悪いことが、重大になっていくほどに、主人公の切なさが伝わるという不思議な一編でした。
 主人公の奇妙な行為に終始するという点で「ルウェリンの犯罪」以上に純度が高く、不気味でもあるのが「輝く断片」です。女の死体と思しきものを、主人公が自分の部屋に抱えて来たところから始まります。女の身体と傷口を洗い、湯を沸かす。在り合わせのピンやペンチやピンセットを煮沸し、以前買っておいたサルファ剤を取り出す。女は死んではいなくて、男は傷を縫い始めます。そんなことが本当に出来るのか? と疑問を感じつつも、微に入り細をうがった描写のしろうと手術から、読者は目をそらすことが出来ません。動機は曖昧なまま――というより、話がこういう形で完結することで、動機が、見えてくるという作品でした。
 スタージョンのクライムストーリイは、動機が平凡尋常ではなく、そこが作品の焦点となっていますが、それを解く鍵は『海を失った男』に収められた「墓読み」という好短編にあります。口の重かった妻が、不可解なところだらけの状況で死に、墓碑銘に刻む言葉さえないまま放り出されたと感じている男の前に、墓全体から死んだ人間のすべてを読み取ることが出来るという男が現われて……という話です。主人公は墓読みに導かれて、墓を読む術を学びます。「同じことを恐れている人間がどんなに多いかを知りはじめた。疎外されること、見抜かれること、愛されないこと、望まれないこと、そして――いちばん悪いのが――必要とされないこと」だと。平凡だけれど、気づかれにくい真理を、愚直に突き詰める。スタージョンの奇妙さの源は、そんなところにあるのかもしれません。

EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)