『無限がいっぱい』は1960年にまとめられた、シェクリイの第四短編集です。初期の短編集に比べて、ヴァラエティに富んだ内容になり、またアイデアを生かす筆力が増しているように思える作品を見つけることが出来ます。そのもっとも顕著な例が「ひる」でしょう。日本でもいくつものアンソロジーに採られている、シェクリイの作品でも有名なものです。あらゆる物質あらゆるエネルギーを分解吸収し、自らの肉体と化していくことの出来る、おそらく宇宙から飛来したであろう「ひる」。地面に接しているというだけで、地球を食べ続けるその怪物に、どう対処するか。その顛末だけを淡々と描いていく短編です。近年の「シン・ゴジラ」にしても、「ひる」の同工異曲とも言える作品で、怪物の正体を見極め、理詰めでその脅威に対処していくプロセスだけで、サスペンスに満ちた一編となっていました。
 巻頭に配されている「グレイのフラノを身につけて」は、「ロマンスというのは、大都会では手に入れることの困難な商品である」という作中の一文が、すべてを表しています。やはり第一短編集で後回しにした「幸福の代償」が、そうであったように、また「危険の報酬」が、そうであったように、資本主義の異様な増殖を仮想した一編でした。また、「七番目の犠牲(七番目の犠牲者)」が、一部の人間が殺人者となることを容認することで、犯罪としての殺人を減らすという発想を、社会全体で共有したのに対して、今度は、人が殺意を抱いたその瞬間に素早くそれを察知しうるテクノロジーを得ることで、殺人を事前に防止するためのメカニズムを作ってしまうのが「監視鳥」でした。ところが、殺意が発生した瞬間にスピーディな対応をするため、鳥の形をした、しかも、殺意の形を自動学習し互いに連絡しあう――なんと二十一世紀的なことでしょう――監視鳥は、瞬く間に、生命を奪うあらゆる行為を取り締まるようになるのです。
 こうして並べ上げると分かるように、第一短編集の「幸福の代償」「七番目の犠牲(七番目の犠牲者)」あたりに見られた発想は、ディストピアSFの形で開花することになりました。それも。資本主義やメディア社会といった、二十世紀半ばのアメリカ社会を踏まえた上で、起こりうる未来を描いたものでした。その代表として「危険の報酬」は評価されたのではなかったでしょうか。この他にも「幸福の代償」の保険社会をタイムトラベルテーマにからめた「倍額保険」にも、そうした傾向を読み取ることが出来ます。
 ただし、それらのアイデア・発想の妙に比して、その展開の仕方は、あっさりとしていて、アイデアを思いついた瞬間に見通せる範囲を出ることがありません。また、「監視鳥」に明らかなのは、設定の甘さで、監視鳥が暴走する以前に、もう少し手が打てそうなもの――というか、プログラムがあまりに雑でしょう。監視鳥の暴走というアイデアを生かすために、展開が安易に堕しているのです。そうしたところにシェクリイの軽さと弱点があるように、私には思えます。シェクリイはアイデアストーリイだと評されることが、しばしばありますが、それはアイデアの奇抜さに比して、それを小説として仕組み展開する部分で平凡であることを示してはいなかったでしょうか。
 しかし「ひる」のように、そうした弱点を克服し、見事な一編を作り上げることもないではありません。たとえば「風起こる」です。強風の惑星で一年間生き延びるという任務を与えられた主人公ふたり組が登場します。そこでは、強い風(戸外を徒歩で移動することなど、一切考えられない)に晒された、登場人物の苦難だけが執拗に描かれ、そして、その執拗さゆえに、単なるアイデアを超えたセンス・オブ・ワンダーがあったとは言えないでしょうか。そして「風起こる」を読んで考えるのは、もはや「地球大気圏外浸出部隊」とか「キャレラ第一星」といった設定など、不要なのではないかということです。彼らがどこにいて、何が目的なのかはどうでもいい。とてつもなく強い風に立ち向かっているという事実と、それを執拗に描くことこそが大切だったのではないか?
 しかしながら、ロバート・シェクリイは、アイデアの作家として評価され、読まれていったようでした。70年代に入り、シェクリイはSFの第一線から離脱していきます。その道筋は必然だったように私には見えます。
 私が初めて読んだシェクリイは1971年の夏。ミステリマガジン9月号のショートショート特集における「では、ここで懐かしい原型を……」でした。「必死の逃亡者」「変装したスパイ」「密室殺人」という三つのショートショートから成る、典型的アイデアをわざと硬直的に用いてみせた、愉快きわまりないサタイアでした。しかし、それはある意味で、シェクリイ自身を笑っていたのかもしれません。

 いまの30代の人々――もしかしたら40代でも?――にとって、70年代までのフィリップ・K・ディックの評価の在りようは、想像を絶するのではないでしょうか。確かに、注目すべきSF作家のひとりではありました。世界SF全集には『宇宙の眼』が選ばれ、アルフレッド・ベスターとふたりで一巻でした。しかし、初期の長編は、いくつか訳されていたものの、いまひとつはっきりした評価がないように見えました。確かに、筒井康隆が『高い城の男』を評価していました。私の育った町の図書館には、たまたま『高い城の男』とエラリイ・クイーンの『帝王死す』が所蔵してあり、おかげで、70年代半ばの当時は入手が難しかった、このふたつを読むことが出来ました。しかし『帝王死す』とは異なり、どうにも良さが分からない――のちに浅倉久志訳が出る前の話です。60年代の長編で、間を置かずに邦訳が出たのは、これと『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』くらい。あと『火星のタイム・スリップ』『逆まわりの世界』でしょうか。
 もっとも、ディックの短編集を編んだジョン・ブラナーによれば、イギリスでも扱いに大差はなかったようですし、アメリカ本国でも、不遇と目されていたようではあります。日本において、評価がドラスティックに変わるのは70年代も後半からで、サンリオ文庫が過去の作品をつるべ打ちに紹介し、そして映画「ブレードランナー」の公開が決定打となったように思います。SFは時々つまみ食いするほどの読者でしかなかった私は、『高い城の男』の失望もあって、手を出すのが遅れたクチですが、しかし、そのディック・フィーヴァーの前、70年代にいくつか短編を読んでいました。それらはミステリマガジンに訳されたものでした。
「クッキーばあさん」は、手作りのクッキーに魅かれて、老婆のところに通う男の子の話です。別になにをするでもなく、老婆は男の子に本を読んでほしいと頼む。男の子の頭の中はクッキーのことでいっぱいです。その場で食べるばかりか、ポケットにも詰め込みます。ふたりの関係は自然なようでもあり不気味なようでもある。老婆は男の子が訪れたときだけは、若さを取り戻したような感覚が得られて、それがために男の子を待ちわびている。一方で、男の子の両親は彼が老婆のところに通うのを好まない。ついには、これを最後にもう来ないと、老婆に告げるよう男の子に迫ります。そして、最後のその日、やはり男の子はクッキーをもらい、老婆には力がみなぎって……という一編。
「地図にない町」は、切符売り場に回数券を買い求めてきた客がいます。ところが、行き先を聞くと、そんな駅は存在しない。客はこれまで毎日、回数券を使って通っていると譲らない。路線図を使って自分で調べるようにいうと、その客が突然消えてしまう。ところが、次の日も、またその客がやって来て、またも同じように消えてしまう。不審に思った助役は、ガールフレンドともに、謎の客が言っていた存在しない駅について調べ始めますが、そうするうちに、あるはずのない駅に降り立つことになる。かつて開発が予定され中止された町が、ありえたはずの形で現実を侵食していく。ちょっとフィニイを思わせないでもありませんが、結末の異常が日常に回収されていく不安定さが、ディックの持ち味というものでしょう。
 こうしたSFというよりは、怪奇小説の書き手として、ディックはミステリマガジンに多く登場することになりました。あるいは「変種第二号」のように、まっとうなSFでありながらミステリマガジンで紹介されたものもありました。この作品はのちに「スクリーマーズ」として映画化されることで有名になりましたが、敵を倒すための殺人機械を作り出したのみならず、機械自身に自己複製や自己学習させることで、殺人機械が人間のコントロールを超えてしまいます。と、こう書けば「監視鳥」との類似はすぐにお分かりでしょう。しかし、「監視鳥」の甘さはここにはありません。劣勢の戦争を挽回するために開発した殺人ロボットという設定は、平時とは異なる危険な発明に説得力を与えました。その殺人兵器が、アンドロイドとしての変種を勝手に生み出し、人だかロボットだか分からなくなり、ついには、誰が敵で誰が味方なのかも分からなくなる。まことにディックらしい混沌が、しかも、冒険小説の結構に則って展開されます。「監視鳥」「変種第二号」を比べる――とくに、アイデアの派生のさせ方を比べる――だけで、両者の小説家としての腕前の差は一目瞭然でしょう。

EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『土曜日の子ども』『本の窓から』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』 等がある。

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