レイ・ブラッドベリの『火星年代記』が、長編として読まれているのか、連作短編として読まれているのか、正確なところを、私は知りません。私は連作短編集だと思っていますが、SFの世界での評価は、どうなのでしょう。『たんぽぽのお酒』を処女長編としている文章を読んだことがありますが、あれも短編を嵌め込んでみたり、その一部を短編として自選作品集にブラッドベリ本人が入れていたりしますから、長編と言っていいものやら。『華氏451度』でさえ、中編集あつかいらしいので、60年代までの作品で、確実に長編SFと考えられている――SFかファンタジーかという議論は脇に置くとして――のは、『何かが道をやってくる』くらいのものでしょう。これはSFとハードボイルドに共通する特徴ですが、パルプマガジンの連載や初出の作品が多く、そのため、長編が連載ないしは分載を意識したエピソディックな構造になることがしばしばです。アイザック・アシモフの『銀河帝国の興亡』でさえ、第一巻にはその刻印が刻まれています。逆に言うと、『火星年代記』のように特定の主人公を持たない連作という行き方は、やりやすいとも言えます。
『火星年代記』は、おそらくは独立して発表された短編群に、短編ともいえないような長さのスケッチ――場合によっては説明的な文章――を巧妙に挟み込んで、文字通り火星のクロニクルを書いたものでした。ひとつひとつの短編に、それほど驚くものはありません。むしろ、今回読み返してみて、火星のことを描いている気がしないのに驚きました。地球人があまりにも地球と変わりなく火星で生活しているとか、火星人と地球人の交流がテレパシーで行われるにしても、こんなに簡単にいくものだろうかと疑問を持ったりでした。たとえば「地球の人々」は、地球人と火星人のすれ違いを描いた、愉快で悲劇的な話ですが、この通りにコトが起こるとは思えない。分かりやすくお話として通じるようにしましたという手つきが、どうしても見えてしまいます。このあたり、さすがに半世紀以上昔の作品で、その間に、他の惑星を探索することのリアリズムを、こちら側が見聞しているのが、大きいようです。
 むしろ、火星とはいうものの、もう少し象徴的な意味というか、地球人の何かが顕わになるための装置のように見えます。火星探検隊の内紛を描いた「月は今でも明るいが」にしても、火星そのものに向かい合うというよりも、それを契機に、地球での歴史の過ちをくり返すのかという意識が前面に出ています。「空のあなたの道へ」に到っては、南部の黒人奴隷が契約を振り切って集団で火星へ移住するという、地球側の話です。つい最近(4月16日)、金明秀という社会学者が、ツイッター上で、差別を愉しむことしかできないのは、非差別者に寄生しているようなものだと喝破していましたが、「空のあなたの道へ」は、その寄生ぶりを見事に描き出していました。この作品は、改訂後の現在の版では、カットされているようです。おそらくポリティカル・コレクトネスへの配慮からと思われますが、差別の持つ重要な局面を切りとることに成功した文学的成果であると、私には思えます。
『火星年代記』に先立つ第一短編集Dark Carnivalは、しばらく邦訳で出ませんでした。版元がアーカムハウスで、入手が難しかったということもあったでしょう。ブラッドベリが成功したのち、中から15編を選び改稿した上、近作を増補したものが55年にアメリカで出版され、さらに10年後の65年に、邦訳が出ました。『10月はたそがれの国』です。実は私が初めて読んだブラッドベリは、この短編集なのですが、まったく面白いと思わなかったものです。まあ、10代に読んだ記憶はあてになりませんが、しかし、ほとんど同時に「戦争ごっこ」「黒い観覧車」といった短編には、たいへん感心しているのです。幻想と怪奇の小説の系譜でブラッドベリを取り上げたとき、『10月はたそがれの国』を無視して『黒いカーニバル』を重視したのは、そのときの判断を基にしています。
 ブラッドベリの短編については旧・奇想天外1974年8月号のレイ・ブラッドベリ特集に付された、小鷹信光(またしても!)によるリストが便利です(唯一の欠点は、邦題から引けないことでしょうか。数が膨大なので手間がかかるのです)。これによると『10月はたそがれの国』に増補されたのは、「こびと」「マチスのポーカー・チップの目」「熱気のうちで」「ダッドリー・ストーンのふしぎな死」の4編です。「こびと」の他人のコンプレックスを覗き見する陰惨さや「熱気のうちで」の這うような暑さが人を狂わせるところ、ブラッドベリには、こういう側面があることを知る価値はあるでしょう。しかし、本音を言えば、「こびと」よりはフレドリック・ブラウンの「笑う肉屋」「熱気のうちで」よりもマージェリー・アリンガムの「ボーダーライン事件」の方が、巧妙だと私には思えます。「マチスのポーカー・チップの目」「ダッドリー・ストーンのふしぎな死」は、ともに、芸術家サタイアで、コリアの「夜だ、青春だ、パリだ、月も照ってる!」やイーリイの「スターリングの仲間たち」といった作品を――とりわけ前者が――連想させます。ただし、宇野利泰とは合わなかったようです。前者が『万華鏡』という自選短編集に入ったとき、中村融のよりくだけた訳文で読んだときに、そう感じました。
 Dark Carnivalからの収録作は、怪奇小説が多く、死をモチーフとしたものが目立つのは、ブラッドベリの一面が現われている一方で、アーカムハウスの色合いでもあるのでしょう。
「つぎの番」「小さな殺人者」のような凡作もあって、首を傾げなくもありません。総じて凝った書き方が裏目に出ていて、そうした文章が翻訳で強調されてしまっているように思います。もっとも「みずうみ」のように、そうした書き方が成功している例もあるので、なかなか一概には言えない。けれど、平明至極な「大鎌」が、抜群の迫力と同時に、自分の運命を甘受せざるをえない主人公の孤独な境遇を、あますところなく描いたのを読むと――ひとりの人間がセカイの破滅を担うとは、こういうことだと思いますけどね――文章家ブラッドベリという評判を、あまり意識しない方がよいのではないかと考えます。むしろ「アンクル・エナー」の、ヴァンパイア家庭小説(同傾向作品を書いたジャック・リッチーと比べて、一枚も二枚も上手です)とでも言うべき、肩のこらない楽しさが際立っています。

『刺青の男』は、連作の枠組みの作り方に見られるように、まだ、ファンタジーの短編集であることが、求められていたようですが、次の『太陽の黄金の林檎』では、もはや、SFとかファンタジーと括る必要はなくなったようです。また、ブラッドベリ自身が、それを望んでいたらしいことも、以前、書きました。それでも、日本で紹介に努めていたのは早川書房であり、SFシリーズに入ることで出版されました。後年、SF文庫ではなくNV文庫に一度は入ったのは、アメリカとの評価のギャップを埋める試みだったのでしょう。
『メランコリイの妙薬』は異色作家短篇集に入ることで、さらに異なった生き延び方をしました。もっとも、この短編集は変幻自在な作品集といった趣で、特定のジャンルに閉じ込めることが出来ません。集中の5編は都筑道夫訳ですが、その中の「火龍」「イカロス・モンゴルフィエ・ライト」は、翻訳家都筑道夫が苦心に苦心を重ねたあとが見て取れます。ただし、その苦心が実を結んでいるかどうかは、また別の話で、私には、これは原文で読まないかぎり、魅力が分からないのだろうなと思わざるをえません。
 巻頭の「穏やかな一日」は、プレイボーイにピカソのデッサンを挿絵に掲載されたそうですが、ピカソを挿絵に使うというアイデアが先行していたのかもしれません。しかし、見事なスケッチで、この作品そのものが、名匠のデッサン画といった趣がありました。
 初出がEQMMだった「誰も降りなかった町」は、大陸横断列車に乗っていた旅するセールスマンが、誰も降りるあてのないような、小さな町の駅に、気まぐれで降り立ちます。予想通り町には何もありませんが、不思議な老人が彼を待っていたと話しかけてきて……アメリカの途方もない広さを背景にした、アメリカのどこかからは生きて帰れないことがあるという、くり返し書かれるモチーフの変奏でしたが、対決のサスペンスが見事でした。
 こうして振り返ると、そもそも、ブラッドベリにはSFやファンタジーの短編が主流というわけもないことが、改めて分かります。ですが、日本でもそのように遇されるには、『たんぽぽのお酒』が晶文社から出版された1971年を待たねばなりませんでした。同書は〈文学のおくりもの〉のトップバッターとして出版されたのでした。

EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『土曜日の子ども』『本の窓から』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』 等がある。

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