70年代から80年代にかけて、ヘンリイ・スレッサーは新作旧作とりまぜて、散発的な紹介が続きました。中で目を引くのは、SF味がかっているというか、リアリズムからの逸脱が見られる作品です。たとえば、ミステリマガジンの20周年記念増大号に掲載された「誘拐」は、75年の作品ですが、一見、なんということのない、題名通りのクライムストーリイで、短い作品なので、プロットに変化の余地がないように思いながら、読みすすむことになります。そういう意味では、オチの意外性一発の作品と言えなくもありません。ただ、こういう方向の意外性というのもありえて、その効果が増幅したのは、書き手がスレッサーであったからでしょう。さらに、オチのつけ方に不気味さを増すのが「目撃者」というショートショートです。冷静沈着で恐怖心がないことが最大の武器だという殺し屋が、恐怖を感じた仕事とは、どういうものだったか? また「ママの幽霊」は、スレッサーが時おり好んで書く、霊界との通信をモチーフにしたものですが、母親が幽霊となっても、なお自分を助けてくれるという主人公の母親っ子ぶりが、助けに姿を見せた幽霊の母親を、ショウに仕立てて見世物にしようというふうに展開するところが、ホラ噺的なユーモアをたたえていました。
 もっとも、さすがに、このころになると、往年の切れ味を持つ作品は残っていないようです。「株式会社ゴンバー軍団」「グッバイ、チャーリー」のような、犯罪の上前をはねるかのようなクライムストーリイも、お手の物のパターンの一編としか見えなくなっています。かといって「ただいま療養中」のような謎解きものも、巧くはありません。「はったり」は、かつて、ある大物ギャングを逮捕寸前まで追い込んだ刑事が、妻ともども硫酸を浴びせられ、彼は失明し、妻は顔に大やけどを負っている。そんな刑事が打った大博打は、手術で目が見えるようになるという記事を、知り合いの記者に書かせて、口封じのおとりとなって、犯人をおびき寄せるというものでした。主人公はかつての部下で、いまは私立探偵をやっていて、単身ボディガードを頼まれるのです。「20年後」に用いられた、過去の犯罪の目撃者が失明していて、その目が見えるようになるというモチーフです。「はったり」は、犯人に仕掛けた罠や、意外性を持った犯人(とはいえ、登場人物が少ないので、実質的な意外性には乏しい)といった、目に見える工夫があるにもかかわらず、「20年後」の滋味とは比べるべくもありません。
 それでもスレッサーは80年代までコンスタントに活躍し、作品が邦訳もされました。そして『伯爵夫人の宝石』という短編集にまとめられました。おおむね初出はEQMMで、邦訳初出はEQでした。表題作となった巻頭の「伯爵夫人の宝石」は、敏腕セールスマンという触れ込みで、転職をくり返してはキャリアを築く男に、不信感を持った主人公が、彼の横領に気がついて……という話ですが、ゆったりと書かれた筆致が、むしろ、話の底を割ってしまっていて――刑事の使い方が安易でした――冒頭と最後の行の趣向も、あまり効果をあげていない。平凡なクライムストーリイでした。これが82年の作品。
「世界一親切な男」のアイロニーや「シェルター狂騒曲」「ハローという機械」のテクノロジーに対する感度が、ともに鈍く、「明日は我が身」「内輪の秘密」といった、ナレーションに趣向をこらしたものは、ともに、その趣向の部分が、いつもと同じスレッサーの小説とあっては、とても生きているとは言えません。
 このころのスレッサーは、じっくり事件を描く傾向がありますが、それがあまりプラスにはなっていないようです。たとえば「帰郷」は、先に触れた霊界ものの発想ですが、本当に霊能者――正確には死者と記憶を共有している――なのか、騙りなのかという興味で、読者を釣っていく上手さはあります。溺愛した息子の生まれ変わりかもしれない、怪しげな男に、老女が疑いながら関心をひかれていく。後半の展開も巧みでオチもいい。しかし、このオチが含むはずの厚みが、この小説には出ていない。このオチは、意外性にプラスアルファが出なければならないはずのものですが、それがありません。
「濡れ衣の報酬」は、死刑囚に新たな余罪として贋の自供をさせることで、依頼人に罪を逃れさせるというからくり――死刑囚の娘に信託財産を残してやるという形で買収する――ですが、もはや「死刑執行の日」「逃げるばかりが能じゃない」のショックはありません。これは、ひとつには、アメリカの司法と社会が、そういう発想を取り込んでしまったことが大きいと、私は思います。かつてのスレッサーにおいて、アイロニカルな機智であったはずものが、社会的なコストを安くあげるための、当たり前の手段になってしまったのでした。そして、結局、この短編集で一番面白かったのは唯一の60年代の旧作である「第二の評決」でした。殺人事件の無罪を勝ち取った直後に、依頼人から、本当はやったし、これからも妻に男が近づいたら殺すと告白された、弁護士の話です。そのジレンマと行動、所属する弁護士事務所での地位、尊敬する判事の言動、かつて無罪を勝ち取ってやったギャングのあつかいなど、小説を仕組む巧みさが一味も二味も違います。そして、無論のこと、ここでは、裁判制度と正義の相克は、安上がりなどという経済原理とは無関係な問題として意識されているのです。
 50年代終わりから60年代にかけて、アメリカ社会の変化を敏感に捉え、それをスピーディな短編に仕組むことで、スレッサーは一時代を築きました。しかし、アメリカ社会そのものが、スレッサーのアイロニーを平然と呑み込み、その小説作法をも、ひとつのクリシェとして消費していくことで、いわゆるスレッサー流は過去のものとなってしまいました。にもかかわらず、スレッサーの作品のいくつかは、21世紀の鑑賞に耐えている。そこを腑分けすることが、スレッサーを読む意味だと、私は考えます。


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