マンハントの創刊から遅れること9年。1956年にアメリカでは新たな雑誌が創刊されました。アルフレッド・ヒッチコックス・ミステリ・マガジン(日本語版はヒッチコック・マガジン)です。これには、前年からオンエアされ、好評を博していたテレビシリーズのヒッチコック劇場の影響が見てとれますが、直接的には、テレビと雑誌には関係がありませんでした。英語版のウィキペディアによれば、初期のヒッチコック・マガジンで活躍した作家として、エヴァン・ハンター=エド・マクベイン、エド・レイシイ、ビル・プロンジーニ、ジム・トンプスン、ドナルド・E・ウェストレイクといった名が並んでいます。しかし、テレビシリーズと雑誌の双方で活躍し、ヒッチコック・マガジンの代名詞と言っても過言ではない、ヒッチコックお気に入りの作家が、ヘンリイ・スレッサーであることに、異論を唱える人は、まずいないでしょう。
ヘンリイ・スレッサーの処女作は、イマジネイティヴ・テールズ55年11月号(9月号説もあり)のThe BratというSF短編だそうですが、同じころ締め切りのEQMMコンテストに投じた「人を呪わば」が、処女作賞を受賞し、翌56年6月号に掲載されました。しかも、そのころには、多くの短編がいろいろな雑誌に掲載されていて、一躍売れっ子作家になっていたのでした。そしてEQMMに発表された「老人のような少年」がヒッチコックの目に留まり、以後ヒッチコック劇場とヒッチコック・マガジンのエースとしての活躍が始まります。
ヒッチコック・マガジンは、先発のEQMM、マンハントとともに、アメリカの短編ミステリを先導した、重要な雑誌のひとつです。また、そのことは日本においてもあてはまって、この三誌の日本語版が鼎立した時代が、翻訳ミステリの神話の時代でもありました。そして、日本語版のヒッチコック・マガジンにおいても、スレッサーは中心作家であり、創刊号には、もうひとつのペンネイムであるO・H・レスリーと、スレッサー名義の2編が並び、以後、そうした状態がしばしば生じました。
1960年、第一短編集『うまい犯罪、しゃれた殺人』が、アルフレッド・ヒッチコック編として、出版されました。収録作17編は、すべて、ヒッチコック劇場の原作でした。続く62年には、第二短編集『ママに捧げる犯罪』が、やはりヒッチコック編で一冊となりました。この二冊は、ともに、さして時間をおかずに邦訳がポケミスに入り、のみならず、本国ではまとまることのなかった『怪盗ルビイ・マーチンスン』でさえ、一冊の短編集となりました。そういう意味で、アメリカ以上に日本で受け入れられたと言えるかもしれません。ルビイ・マーチンスンは、後年、和田誠監督によって映画化されるというオマケまでつきました。
しかし、そうした50年代後半の華々しい活躍に比して、それ以後、ヘンリイ・スレッサーの評価が定着したとは、必ずしも言えません。なにより、短編集にまとまることがありませんでした。日本では70年代に、おもに小鷹信光が中心となって、短編ミステリの評価と紹介が部分的ながら進められ、その一環として、スレッサーも『夫と妻に捧げる犯罪』が編まれました。アメリカでも80年代以降になって、ようやく短編集が出るようになりました。しかも、70年代当時、スレッサーの名前は大きなものではありましたが、第一線の作家とは言えなくなっていましたし、スレッサー流のアイデア・ストーリイとか、スレッサーふうのオチといった評言は、マイナス評価であることさえありました。
では、50年代後半に登場したスレッサーという作家には、どういう意味があったのか? その作品群は、現在、どのように読まれ、評価されうるのか? じっくりと読みかえすことにしましょう。
『うまい犯罪、しゃれた殺人』の巻頭作「逃げるばかりが能じゃない」は、スレッサーらしさという点では、まことにそれらしいのですが、ひとつ、珍しい特徴があります。すなわち、事件を追う刑事が出てくるのです。主人公(と仮にしておきましょう)の警視は、12年前大金の横領事件で犯人をあげています。その犯人は、金を横領したものの、逃げ続ける人生を考えると、それが無理なことを悟り、捕まることを選んだのでした。ところが、金の行方だけは頑として口を割らない。そして、12年後に出獄したのです。警視が犯人に会いに行って、金のありかを訊ねると、犯人は金をお返しすると言い、実際返すのです。このあたりでオチの見当がつくのは、執筆後60年の歳月が流れていることを考えると、当然なのかもしれません。
「逃げるばかりが能じゃない」は、しゃれた着想の〈うまい犯罪〉を描いて、整った短編ミステリです。しかし、事の解決は主人公の警視によってなされるわけではありません。実際のところ、この警視を主人公と呼ぶのも考えものです。彼は事件を担当した警官という役割以上のものを果たしません。解決=秀逸なオチは、作者が読者に向けて描くのです。「逃げるばかりが能じゃない」には、たまたま(その必要があって)事件を担当する刑事が登場しました。しかし、他の短編は、むしろ、そうでないことの方が多いのです。
たとえば、『37の短篇』にも採られた、巻末の「処刑の日」は、ひょんなことから、殺人を犯す羽目になる検事の物語です。新進気鋭の検察官が、初めて死刑の判決を獲得する。その死刑執行の日に、事件の真犯人だとひとりの老人が彼に名乗り出る。真犯人が現われるということは、単に誤審ではすまない。彼のキャリアの問題になってしまっているのです。なんとか、なだめすかして、ことをウヤムヤにしようとしますが、老人は頑なになっていき、ついに、彼はその老人を手にかけてしまう……。主人公の職業が検事というだけの、これはシャープなクライムストーリイです。そして、物語のオチは、関係者が事の経緯を知らないままに呟いた一言という形で、主人公と読者に伝わります。
あるいは、集中の佳作「ふたつの顔を持つ男」の主人公は、中年の女性です。ひったくりの被害にあって、警察に届け出たのですが、犯人の顔をしっかり憶えているので、警察が手持ちの容疑者の顔写真(前科者とか)から、犯人を割り出すことが出来るかもしれない。どうせ取られたバッグは戻ってこないと、娘もその夫も賛成していませんが、彼女は警察に出頭します。単調な成果の上がらない作業の果てに、彼女の手が突然止まります。前科者の写真の中に、娘婿の顔を見つけたのでした。自分の身近にいる人が、突然、犯罪者だと分かる。それも自分ひとりが気づく。ウールリッチあたりが十八番にしたシチュエーションです。スレッサーの頭の良さ、スマートさは、主人公が自分の発見を隠していながら、立ち会った刑事にはその嘘が通じないというスピーディなプロットを用いていることです。サスペンスよりもクレヴァーで速度のある展開を選んでいるのです。にもかかわらず、突然、不安定な状況に主人公が突き落とされる、サスペンスストーリイとして間然するところがありません。しかも、ひったくりを見つけようとして、娘婿の正体を知るというストーリイの面白さがアイデアの中心に来ている分、結末の意外性のみに頼る構造ではなくなっています。「ふたつの顔を持つ男」には意外性もあるのですが、それは錯覚を用いた巧妙なもの――ミスディレクションが効いているのです――でしたし、最後の最後のオチはむしろ不要でしょう。
確かに、スレッサーが多くの読者を魅了し、50年代を代表する短編ミステリ作家となったのは、「逃げるばかりが能じゃない」や「処刑の日」といった、当時としては切れ味抜群の意外な結末を持った作品のおかげでした。しかし、意外な結末が趣向の中心に来るものは、どうしても古びることを避けられません。そのことは、娘のペンフレンドが脱獄囚だったという「ペンフレンド」や、ポーカーで金をすった男が、細君に強盗にあったと嘘をついたところ、警察に届けざるをえなくなって、たまたま、その時その近くで本物の強盗犯が捕まっていて……という「金は天下の回りもの」にしても、あてはまります。読者はやがて慣れ、それはスレッサーを読んだ読者のみならず、社会全体の経験値のようなものが上がり、やがてはスレッサーを読んだことのない読者さえ、かつてのスレッサーの傑作のオチを平凡なものと感じるようになる。
ヒッチコック老の目に留まった「老人のような少年」は、話のオチとしての意外性の切れ味は悪いのですが、最後の一言にアイロニカルで奇妙な味の部分であって、そして、そういう部分にこそ、腐ることのない何かがある。あるいは「競馬狂夫人」は、夫に内緒の競馬が止められない主人公の女性が、ノミ屋の取り立てを受けて、些細な詐欺にはげむ話です。その詐欺のかわいさには、確かに見所がある。しかし、ギャンブルから抜けられない女の肖像としては、サキの「乳しぼり場へ行く道」と比べると、数歩の隔たりがあります。
「ふたつの顔を持つ男」のように、ゆったりしたサスペンスを捨ててでも、スピーディでシャープな展開を心がけていることは、他の短編からも窺うことが出来ます。しかし、その展開の果てにあるものが、作者が読者に対して用意した意外性であっては、それは、やがて、読者の側にとって織り込み済の結果になってしまうのでした。
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ヘンリイ・スレッサーの処女作は、イマジネイティヴ・テールズ55年11月号(9月号説もあり)のThe BratというSF短編だそうですが、同じころ締め切りのEQMMコンテストに投じた「人を呪わば」が、処女作賞を受賞し、翌56年6月号に掲載されました。しかも、そのころには、多くの短編がいろいろな雑誌に掲載されていて、一躍売れっ子作家になっていたのでした。そしてEQMMに発表された「老人のような少年」がヒッチコックの目に留まり、以後ヒッチコック劇場とヒッチコック・マガジンのエースとしての活躍が始まります。
ヒッチコック・マガジンは、先発のEQMM、マンハントとともに、アメリカの短編ミステリを先導した、重要な雑誌のひとつです。また、そのことは日本においてもあてはまって、この三誌の日本語版が鼎立した時代が、翻訳ミステリの神話の時代でもありました。そして、日本語版のヒッチコック・マガジンにおいても、スレッサーは中心作家であり、創刊号には、もうひとつのペンネイムであるO・H・レスリーと、スレッサー名義の2編が並び、以後、そうした状態がしばしば生じました。
1960年、第一短編集『うまい犯罪、しゃれた殺人』が、アルフレッド・ヒッチコック編として、出版されました。収録作17編は、すべて、ヒッチコック劇場の原作でした。続く62年には、第二短編集『ママに捧げる犯罪』が、やはりヒッチコック編で一冊となりました。この二冊は、ともに、さして時間をおかずに邦訳がポケミスに入り、のみならず、本国ではまとまることのなかった『怪盗ルビイ・マーチンスン』でさえ、一冊の短編集となりました。そういう意味で、アメリカ以上に日本で受け入れられたと言えるかもしれません。ルビイ・マーチンスンは、後年、和田誠監督によって映画化されるというオマケまでつきました。
しかし、そうした50年代後半の華々しい活躍に比して、それ以後、ヘンリイ・スレッサーの評価が定着したとは、必ずしも言えません。なにより、短編集にまとまることがありませんでした。日本では70年代に、おもに小鷹信光が中心となって、短編ミステリの評価と紹介が部分的ながら進められ、その一環として、スレッサーも『夫と妻に捧げる犯罪』が編まれました。アメリカでも80年代以降になって、ようやく短編集が出るようになりました。しかも、70年代当時、スレッサーの名前は大きなものではありましたが、第一線の作家とは言えなくなっていましたし、スレッサー流のアイデア・ストーリイとか、スレッサーふうのオチといった評言は、マイナス評価であることさえありました。
では、50年代後半に登場したスレッサーという作家には、どういう意味があったのか? その作品群は、現在、どのように読まれ、評価されうるのか? じっくりと読みかえすことにしましょう。
『うまい犯罪、しゃれた殺人』の巻頭作「逃げるばかりが能じゃない」は、スレッサーらしさという点では、まことにそれらしいのですが、ひとつ、珍しい特徴があります。すなわち、事件を追う刑事が出てくるのです。主人公(と仮にしておきましょう)の警視は、12年前大金の横領事件で犯人をあげています。その犯人は、金を横領したものの、逃げ続ける人生を考えると、それが無理なことを悟り、捕まることを選んだのでした。ところが、金の行方だけは頑として口を割らない。そして、12年後に出獄したのです。警視が犯人に会いに行って、金のありかを訊ねると、犯人は金をお返しすると言い、実際返すのです。このあたりでオチの見当がつくのは、執筆後60年の歳月が流れていることを考えると、当然なのかもしれません。
「逃げるばかりが能じゃない」は、しゃれた着想の〈うまい犯罪〉を描いて、整った短編ミステリです。しかし、事の解決は主人公の警視によってなされるわけではありません。実際のところ、この警視を主人公と呼ぶのも考えものです。彼は事件を担当した警官という役割以上のものを果たしません。解決=秀逸なオチは、作者が読者に向けて描くのです。「逃げるばかりが能じゃない」には、たまたま(その必要があって)事件を担当する刑事が登場しました。しかし、他の短編は、むしろ、そうでないことの方が多いのです。
たとえば、『37の短篇』にも採られた、巻末の「処刑の日」は、ひょんなことから、殺人を犯す羽目になる検事の物語です。新進気鋭の検察官が、初めて死刑の判決を獲得する。その死刑執行の日に、事件の真犯人だとひとりの老人が彼に名乗り出る。真犯人が現われるということは、単に誤審ではすまない。彼のキャリアの問題になってしまっているのです。なんとか、なだめすかして、ことをウヤムヤにしようとしますが、老人は頑なになっていき、ついに、彼はその老人を手にかけてしまう……。主人公の職業が検事というだけの、これはシャープなクライムストーリイです。そして、物語のオチは、関係者が事の経緯を知らないままに呟いた一言という形で、主人公と読者に伝わります。
あるいは、集中の佳作「ふたつの顔を持つ男」の主人公は、中年の女性です。ひったくりの被害にあって、警察に届け出たのですが、犯人の顔をしっかり憶えているので、警察が手持ちの容疑者の顔写真(前科者とか)から、犯人を割り出すことが出来るかもしれない。どうせ取られたバッグは戻ってこないと、娘もその夫も賛成していませんが、彼女は警察に出頭します。単調な成果の上がらない作業の果てに、彼女の手が突然止まります。前科者の写真の中に、娘婿の顔を見つけたのでした。自分の身近にいる人が、突然、犯罪者だと分かる。それも自分ひとりが気づく。ウールリッチあたりが十八番にしたシチュエーションです。スレッサーの頭の良さ、スマートさは、主人公が自分の発見を隠していながら、立ち会った刑事にはその嘘が通じないというスピーディなプロットを用いていることです。サスペンスよりもクレヴァーで速度のある展開を選んでいるのです。にもかかわらず、突然、不安定な状況に主人公が突き落とされる、サスペンスストーリイとして間然するところがありません。しかも、ひったくりを見つけようとして、娘婿の正体を知るというストーリイの面白さがアイデアの中心に来ている分、結末の意外性のみに頼る構造ではなくなっています。「ふたつの顔を持つ男」には意外性もあるのですが、それは錯覚を用いた巧妙なもの――ミスディレクションが効いているのです――でしたし、最後の最後のオチはむしろ不要でしょう。
確かに、スレッサーが多くの読者を魅了し、50年代を代表する短編ミステリ作家となったのは、「逃げるばかりが能じゃない」や「処刑の日」といった、当時としては切れ味抜群の意外な結末を持った作品のおかげでした。しかし、意外な結末が趣向の中心に来るものは、どうしても古びることを避けられません。そのことは、娘のペンフレンドが脱獄囚だったという「ペンフレンド」や、ポーカーで金をすった男が、細君に強盗にあったと嘘をついたところ、警察に届けざるをえなくなって、たまたま、その時その近くで本物の強盗犯が捕まっていて……という「金は天下の回りもの」にしても、あてはまります。読者はやがて慣れ、それはスレッサーを読んだ読者のみならず、社会全体の経験値のようなものが上がり、やがてはスレッサーを読んだことのない読者さえ、かつてのスレッサーの傑作のオチを平凡なものと感じるようになる。
ヒッチコック老の目に留まった「老人のような少年」は、話のオチとしての意外性の切れ味は悪いのですが、最後の一言にアイロニカルで奇妙な味の部分であって、そして、そういう部分にこそ、腐ることのない何かがある。あるいは「競馬狂夫人」は、夫に内緒の競馬が止められない主人公の女性が、ノミ屋の取り立てを受けて、些細な詐欺にはげむ話です。その詐欺のかわいさには、確かに見所がある。しかし、ギャンブルから抜けられない女の肖像としては、サキの「乳しぼり場へ行く道」と比べると、数歩の隔たりがあります。
「ふたつの顔を持つ男」のように、ゆったりしたサスペンスを捨ててでも、スピーディでシャープな展開を心がけていることは、他の短編からも窺うことが出来ます。しかし、その展開の果てにあるものが、作者が読者に対して用意した意外性であっては、それは、やがて、読者の側にとって織り込み済の結果になってしまうのでした。
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