エヴァン・ハンターは日本語版マンハントでも人気作家でしたが、その中でも、とりわけ人気の高かったシリーズがあります。カート・キャノンを主人公とする酔いどれ探偵のシリーズです。『酔いどれ探偵街を行く』の書名で、早川書房のポケミスで短編集にまとめられ、一冊になったばかりか、ミステリ文庫にも入り、今世紀に入って、著者の没後も新装版が出版されました。日本語版の短編集は、原著には未収録の2編も含めた全8編の完全版です。訳者は淡路瑛一(雑誌掲載時)こと都筑道夫(書籍化以降)。さらに、日本語版マンハントでは、本国版にこのシリーズが載らなくなったために、エージェントを通じて了解を取った上で、都筑道夫にオリジナルでシリーズを継続させました。都筑道夫の手になる6編は、後年『酔いどれひとり街を行く』(『酔いどれ探偵』)として、これも一冊にまとめられています。このシリーズは、本国版マンハントにエヴァン・ハンター名義で、落ちぶれた元私立探偵マット・コーデルの物語として発表されました。それが、著者名も主人公名もカート・キャノンと改めて原著が出版され、さらに、原著と日本語版マンハント掲載時と邦訳の書籍化とでは、著者名、主人公名、翻訳者名に異同が見られるという複雑な来歴となりました。このあたりの経緯は、現在流布している文庫版の日下三蔵さんの解説に詳細が書かれています。いずれにせよ、元シリーズが尽きると、日本語版オリジナルが書かれるほど人気を博していたのでした。
 カート・キャノンは、ドロップアウトした人たちが吹きだまるバウアリで、日々酒浸りになっている元私立探偵です。かつては成功した私立探偵で、美人の妻トニを得て幸福の絶頂にあったのですが、自分の片腕とも頼む親友に妻を寝取られ、その現場を押さえて、半殺しの目にあわせたために、私立探偵のライセンスを取り上げられたのです。妻と親友はメキシコへ去り、キャノンはバウアリで酒に溺れる日々を過ごすようになったのでした。
「おれか? おれは、なにもかも、うしなった私立探偵くずれの男だ」で始まるモノローグが、リードがわりに、小説の冒頭に配置され、「エヴァン・ハンターの詠嘆的な美文をいかすために、ナニワブシ調の文体をこしらえ」(と、訳者の都筑道夫が言っている)て、日本語に移された連作は、零落し、それでも他の男へ走った女が忘れられない男のもとに、ライセンスがないにもかかわらず、事件が持ち込まれます。センチメンタルな半端者という、日本人にウケるタイプの主人公でしょう。
 第一話「幽霊は死なず」では、麻薬中毒患者となった息子を助けてくれと、見知らぬ男が酒場で呑んでいるキャノンに助けを求めてきます。キャノンはにべもなくはねつけますが、男は店を出た直後に射殺されてしまいます。事件を引き受ける気などまったくない、酒の力を借りて女を忘れようとすることにしか関心のない男が、それでも探偵に乗り出さざるをえなくなるところ、巧いものです。この第一話と次の「死人には夢がない」で、行動的な探偵によるディテクションの小説を書いてみせたのち、「フレディはそこにいた」では、結末に意外性を持たせるよう試みています。妻の妹が妊娠したので、相手の男を探してほしいという依頼です。フレディという本名かどうかも分からない呼び名が浮かび、判で押したように夜の同じ時間に行きつけの店を出るという行動パターンから、キャノンが高架鉄道に行きつくあたり、ディテクションの行為そのものが、話を駆動させる力になっています。伏線の張り方がもうちょっと上手ければ、秀作になっていたでしょう。この話や、カート・キャノンが自分の死亡記事を読むところから話が始まる「死んでるおれは誰だろう」The Death of Me「そこつ長屋」ふうに訳した題名が秀逸)や、生活保護の小切手を狙った窃盗事件(おれは大丈夫だという人もいるところが、逆に説得力を持つ)が頻発するという、主人公の設定を生かしたという意味で、シリーズらしさでは一番の「おれもサンタクロースだぜ」といった作品が、集中の佳作と言えます。
 終わりの2編「抱かれにきた女」「街には拳固の雨がふる」は、原著には収められていない作品ですが、「抱かれにきた女」は、キャノンのもとに、かつての妻が戻ってくるという話で、シリーズの終了を予感させる内容です。そして最後の「街には拳固の雨がふる」は、暑い夏にバウアリで起きた連続殴打事件が、ついに死者を出すに到って、キャノンが自身おとりとなって犯人を迎え撃ちます。
 エヴァン・ハンターは、のちにエド・マクベインとなって、87分署シリーズを書くことで、作家としての不動の地位を得ます。『酔いどれ探偵街を行く』で、都筑道夫が生かした「詠嘆的な美文」の一部は、まさに後年エド・マク節と呼ばれるものの雛形でもありました。「八月、それは煌めく熱気の天蓋」と始まり「八月を都会は身にまとう」で終わる、最終話の書き出しの一節は、そのまま87分署ものが始まっても不思議ではありません。そうしたセンチメンタリズムと達者なミステリ作法で、カート・キャノンは極東の地に読者を見出しました。The Beatingsという原題を「街には拳固の雨がふる」と訳してしまう翻訳家を得たことは、大きなプラスになったことでしょう。しかし、本国版には収められなかったこの短編は、マット・コーデルの物語として、短編集『ジャングル・キッド』「殴る」という、そっけない邦題(訳者は中田耕治)で収録されてもいます。カート・キャノンの最終話は、『暴力教室』のエヴァン・ハンターと87分署のエド・マクベインの結節点にもなっていたのです。
 ただし、私たちには、エド・マクベインにとりかかる前に、読んでおくべき作家がいます。

 ジョナサン・クレイグの分署ものと呼ばれるシリーズの第一作「身元不明の女」は、マンハント本国版の1954年8月号に掲載されました。以前書いたとおり、警察小説がジャンルとしての形を整え、人気が定まった時期に、早速、この行き方で短編をつるべうちにしたわけです。HMM68年3月号警察小説特集のジョナサン・クレイグにつけられた、たぶん小鷹信光の手によるのであろうK氏の解説によると、その後の4年あまりの間に17作が書かれたそうです。ただ、日本語版マンハントに訳されたのは最初期の3作で、残りのうち、いくつかが、60年代の中盤にHMMで紹介されました。長編もあるようですが、日本に紹介されることはありませんでした。
 クレイグの分署ものは、主人公が一定しません。刑事の一人称で小説は進み、相棒の刑事が必ず登場するのですが、毎回必ずしも同じ人物とは言えない。舞台となる分署も、同じものなのかどうか分かりません。上記の解説では登場回数の多いキャラクターをあげた上で、長編では一定のキャラクターに統一して売りやすくしていると指摘しています。しかし、では、異なった人物だとして、その違いがあるのかというと、そこまでの描き込みはない。87分署の際立った刑事群像に比べると、無個性というか、警察組織の一員として現われ動いている。名無しのコンチネンタル・オプより、さらに個人の属性が見えてこない。ふり返ってみれば、警察小説における警官像というのは、警官を逸脱することで個性を現わすことが圧倒的に多く、エド・マクベインの描く刑事たちは、むしろ例外で、87分署以降に出来ていった行き方のように思います。しかも、結局、群像としての刑事たちを描くことで、エド・マクベインを超えた作家はいなかったのではないでしょうか。実力的に拮抗ないしは凌駕するのは、ジェイムズ・エルロイでしょうが、向いている方向が正反対です。
 さてジョナサン・クレイグの短編です。
「身元不明の女」はアパートに越してきたばかりの女が殺され、現場に刑事たちが集まったところから始まります、検視官補(をMEと書くのです)による、死体の傷から得られる科学的な推測や、年齢、死亡時間の推定など、まあ、当時は、そういうところに新味があったのだろうなということは分かりますが、如何せん、いまとなってはありきたりな段取りです。「子守娘に手を出すな」も、やはり死体発見現場に刑事たちが集まったところから始まります。今度は夫婦そろってご近所のパーティに出かけた留守宅で、赤ん坊の子守をしていた娘が、殺されたのでした。殺された娘は美人で評判もよく、その夫婦に彼女を紹介した男の評判もいい。この2編はマンハントに邦訳が載ったものですが、事件そのものに惹きつけるものがなく、解決もありきたりで、魅力に乏しい。実際の捜査の模様を垣間見せるという以上のものはありませんでした。 「深夜勤務」は通報第一報から始まり、銃殺死体には珍しく、銃口が死体に押しつけられて発砲されたらしい。ただし、ジョナサン・クレイグは、それが珍しいことは教えてくれても、そこからストーリイやプロットを組み立てようとはしないのです。こうした態度は「水死人」でも変わらず、水死体があがってきた埠頭と場所は変わっても、同工異曲。女性の死体だと必ず年齢が問題になり、多くの場合、犯人の自白で終わる(細部の説明はそこにまかせる)という具合で、ディテクションの小説としての魅力に乏しいのです。


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