この本はAmazonの検索で見つけたんだと思う。早速Kindleで購入して拾い読みしたが、ブレイクの詩の引用はその章のタイトル「Yoichiro Nambu:Visionary gentleman scientist」にからめてのことに過ぎなかった。visionaryとは「ヴィジョンをもった」「想像力のある」「洞察力のある」あるいは「空想的な」という意味で、しばしばブレイクの詩を形容する言葉として用いられる。ブレイク自身も自らを幻視者と名乗っていたという。ここでは南部さんの形容として使われているのだから当然「先見性のある」物理学者、という意味だ。
ところで、この本でようやくぼくは南部さんの英語表記がNanbuの他にNambuがあることを知ったのだった。正月二日になっていただろうか。
気づけば何ということはない、新橋Shimbashiや日本橋Nihombashiの例もあるのだし、当然試すべきことだった。検索ワードのわずかな違いで検索結果は大きく変わってしまう。早速「nambu blake」で検索すると、最初にBeyond Einstein(Bantam Books,1987)という本が見つかった。著者の一人は科学解説書を多く書いている、日系アメリカ人の理論物理学者ミチオ・カク。この本もいわゆる一般科学書で、アインシュタイン以降の物理学の進展をわかりやすく語ったものだ。邦訳された『アインシュタインを超える』はブルーバックスに入っている。
Kindle化はされていないが、グーグルブック検索で一部は閲覧できる。南部さんひとりについて数ページにわたって書いていた。南部さんの業績を考えれば当然のことだ。 南部さんの〈自発的対称性の破れ〉や〈超弦理論〉の研究内容が解説されたあと、南部さんの家庭環境についてかなり細かく、おじいさんが仏壇店をしていたことから述べられている。
そして、そのすぐ下にぼくが探し求めていた、今回の真相があった。
ブレイクについて書かれた卒業論文は存在した。
しかし書いたのは南部陽一郎さんではなく、彼のお父さんだったのだ。
An intellectual, Nambu’s father was fascinated by Western culture and eventually was graduated with a major in English literature, writing his thesis on William Blake.(知的だった南部の父は西洋の文化に魅了され、ついにはウィリアム・ブレイクについての学位論文を書いて英文学専攻を卒業した。)
あとは「南部陽一郎 父」で検索するだけだ。
ノーベル賞受賞が大きかったのだろう、ネット上には南部さんへの取材記事が多く残っていて、お父さんのお名前もすぐにわかった。総合すると以下のようになる。
南部さんのお父さん、南部吉郎さんは家業を継ぐのがイヤで福井から東京に出て早稲田大学に入学した。1914年に立命館中学を優秀な成績で卒業したことが立命館清和会という立命館小中高の同窓会のFacebook内の記事にあったから――旧制の高校と大学はそれぞれ三年なので――その六年後の1920年にブレイクの卒論を書いたことがわかった。翌1921年に南部陽一郎さんが東京で生まれるが、1923年の関東大震災に見舞われて家族三人で福井に戻り、吉郎さんは福井高等女学校で英語教師を務めることになる。
もしかすると父吉郎さんの卒論が早稲田大学に残ってはいないかと思って調べてみたが、ホームページには「図書館では所蔵しておりません。各学部事務所等にお問い合わせください。」とあり、これ以上はネットでは調べられそうにない。
年が開けてしばらく経ち、ネットから現実へと取材の場を移した。
東京大学と早稲田大学に取材したが、残念ながら情報は得られなかった。
次にぼくは物理学科の恩師である現役の素粒子理論物理学者お二人に連絡して、このあたりのことをうかがってみた。特にお一人は南部陽一郎さんと深い親交もあって、南部さんについては日本で一番お詳しい。その方によると、南部さんが初めて書いたのは戦後になってからで、それは卒業論文ではなく普通の学術論文として1950年に出版されたという。
その方に紹介していただいた日本の著名な理論物理学者によるアンソロジー『数理物理 私の研究』(丸善出版、2012年)には、南部さんご自身による記事もあり、ネット上で見つけた情報よりも多くのことが書かれていた。
これまでの調査から、ウィキペディアの〈南部陽一郎の卒論はウィリアム・ブレイク〉という記載が誤りであることは、ほぼ明らかになったと言えるのではないだろうか。
実際は〈南部陽一郎さんのお父さんの卒論はウィリアム・ブレイク〉だったのだ。聞き間違いや記憶違いによって、言葉の一部が脱落してしまったに違いない。
ネット上の誤情報を増やさないよう、ここで改めて明記しておこう。〈1942年に卒業した南部陽一郎は(今も同様だが)卒論を書いていない可能性が高い〉〈卒業研究として同期の林忠四郎と共に原子核や素粒子のゼミをした〉〈南部陽一郎の父親は早稲田大学英文学科でウィリアム・ブレイクの卒論を書いた〉――以上がネットと現実で取材してわかったことだ。
取材でわかった事実とは別に、この調査中にぼくがずっと空想していたイメージがある。
前回も言及したブレイクの詩『虎』の第一連を引用しよう。SFの古典『虎よ、虎よ!』のタイトルに使われた作品だ。拙訳を付す。
Tyger Tyger, burning bright,(虎よ虎よ、)
In the forests of the night;(夜の森で鮮やかに燃えて)
What immortal hand or eye,(どんな不死の手あるいは目が)
Could frame thy fearful symmetry?(汝のおそるべき対称性を形づくったのか)
fearful symmetry――おそるべき対称性だ。
南部陽一郎さんは第二次大戦後に東京や大阪で研究し、52年に渡米、70年にアメリカに帰化した。小学生のころからお父さんの書斎にあった英語の本を読むなど、英語はずっと得意だったという。ブレイクの代表作をお父さんから教えられたこともあったのではないか。
であれば、ずっとこの〈恐るべき対称性〉というフレーズが、文学ではなく物理学を選んでからも、南部さんの記憶の片隅にあったかもしれない。
もちろんこれは空想であって、もはや確かめようもない。もしノーベル物理学賞の受賞理由である〈自発的対称性の破れ〉を発見したときに、ブレイクの「虎」を想起したのであれば、そんな印象的なことを忘れるはずがない。きっとどこかに書き記すはずだが、そのような記録は見つけられなかった。
ただ、ウィリアム・ブレイクの詩と南部陽一郎の理論が〈おそるべき対称性〉によって、かすかに繋がり合っているといイメージは――何の証拠もない空想なのだと繰り返し書いておくけれど――虚構としては美しいとぼくは思う。
年明けから注目を集めている言葉に〈post-truth(ポスト真実)〉がある。
オックスフォード大学出版局の辞典部門が2004年からその年の流行語を選んでいて、2016年は〈post-truth(ポスト真実)(https://www.oxforddictionaries.com/press/news/2016/12/11/WOTY-16)〉だった。辞典部門らしく、きちんと言葉の定義をしている。
客観的事実は――今回もそうだけれど――調べるのはかなり大変で、しかもそれが本当に真実であるかどうかの保証はない。何かを証明するための根拠があったとして、その根拠が正しいものだと示すためにはさらに根拠が必要で、結局のところ根拠は無限に必要となるからだ。これを〈無限後退〉という。
あるいは根拠が――「AなのはBだから」で「BなのはAだから」のように――〈循環〉することもある。
こうした論理的混乱を避けるために、数学では初めに〈公理〉を設定する。公理はゲームのルールみたいなもので、疑うものではないし、根拠を求めるようなものでもない。ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学のように、公理が変われば理論も変わる。
結局のところ、ぼくたちはこれ以上は疑いようのない究極の真理といったものにはたどりつけないようだ。
とはいえ何の事実確認もなしに、信念だけで生きていくことも難しいわけだけれど、その一方で、究極の真理にたどりつけない確認作業に意味はあるのだろうか。
きっと意味はあるとぼくは思う。
物理学には〈究極理論〉〈最終理論〉〈万物理論〉という言葉がある。これらはその名の通り、この世のすべてを説明する理論のことだ。あるかどうかもわかっていない仮説の理論で、細かな定義も人によって異なる。
グレッグ・イーガン『万物理論』は、この万物理論の候補が同時に三つ発表されるという、極めて劇的な状況下でストーリーが展開される傑作だ。
現在、万物理論の候補として実際に盛んに研究されている〈超弦理論〉は、南部さんらによる〈弦理論〉を源流としている。
さて、いつかこの〈万物理論〉が見つかったとしても、それまでに確立されてきた物理理論はすべて誤りとなるわけではない。
アインシュタインの重力理論はニュートンのそれを〈拡張〉したものであり、弱い重力下においてはニュートンの式は正しい。そもそもアインシュタインは一般相対性理論を作るとき、弱い重力下でニュートンの理論と一致するようにして式を決定したのだった。
そして一般相対性理論に矛盾するような現象は今のところ見つかっていない。ブラックホールなど、ニュートンの重力理論では説明できないことも、一般相対性理論では説明することができる。無論、一般相対性理論もすでに百周年を過ぎて、量子力学との整合性が悪いなど、問題点が指摘されている。別の理論に拡張するべく、いま大いに研究がなされている。
人類が今知っている理論はどれも究極理論ではなく、いずれ新しい理論に置き換えられる宿命にある理論なのだ。次の理論に残っていく部分もあれば、切り捨てられる部分もある。
究極の一点としての真理あるいは万物理論をぼくたちはいまだ知らない。それゆえぼくたちは様々な方向にむかって探索するわけだ。その探索の過程において、万物理論には至らなくとも、いくつもの美しく精緻な、真実に近い理論を手にすることができる。
先ほど探索には時間も手間もかかると書いたけれど、それは知りたい情報が隠蔽されているからなどではない。単純に、探索とは探し回ることであり、つまりは一定以上の〈距離〉を移動することだからだ。
今回のキーワードである〈対称性〉は、局所的な事象に捕らわれていては見えてこない、大域的な性質だ。虎の毛一本を凝視するのではなく、距離をとって虎の全体を見ることで、その文様の対象性が明らかになる。
これは小説や映画、エッセイでも同じことだ。ひとつの作品を理解ないし執筆するためには、その作品よりも広い領域を知る必要がある。できることなら宇宙全体を知るべきなのだが、無論そんなことは有限の身のぼくたちにはできない。すべてを知ることが前提だとしたら、小説はいつまでも読み終わらないし書き上がらない。
では、有限の時間のなかで、有限のぼくたちは何をどう探索すればいいのだろうか。 南部さんは先の『数理物理 私の研究』の記事のまとめとして、物理の研究では「いい問題」を見つける「直感」が重要だと述べている。さらに次のように語る。
おそらく〈探索することの想像力〉のようなものがあって、それをパルタージュするための方法のひとつが〈個人的接触〉なのだ。
いろんな他者の想像力に出会うことで、自分の想像力がようやくぼんやりと見えてくる。イーガンはオーストラリアにいるらしいし覆面作家だからなかなか会えそうもないけれど、とりあえず作品から彼の想像力を垣間見て、それで自分の想像力との違いを感じることはできる。
自分一人の想像の世界はきっとすべてがわかりやすい、ひどく対称性の高い世界だ。しかし究極理論が見つかっていない以上、その世界認識はきっと真実からズレている。だから仕方なくぼくたちは他者と出会う。あるいは自ら他者と出会い、あるいは他者の作品に触れる。他者によって対称性が破れると、世界は急にわかりにくくなる。
しかしそうなったら探索すればいいだけのことだ。探索中に「いい問題」に出会うこともあるだろうし、「直感」も身についてくるはずだ。少なくとも、知らなかった他者と出会うことができる。探索には時間も手間もかかるけれど――想像以上に――面白いことだって起きうるのだ。
〈タイムマシン〉や〈ロボット〉というSFの言葉は、多くの人々の想像力を刺激し、様々な方面への研究や探索を促した。南部さんの〈対称性〉や〈弦〉だってそうだ。ぼくが探している〈新しいSFの言葉〉もそのようなものでなければならない。そろそろ〈個人的接触〉としてのインタビューを再開するとしよう。
(次回は7月5日の予定です。教育とは何か。第一線の研究者にインタビューしてきます。)
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ところで、この本でようやくぼくは南部さんの英語表記がNanbuの他にNambuがあることを知ったのだった。正月二日になっていただろうか。
気づけば何ということはない、新橋Shimbashiや日本橋Nihombashiの例もあるのだし、当然試すべきことだった。検索ワードのわずかな違いで検索結果は大きく変わってしまう。早速「nambu blake」で検索すると、最初にBeyond Einstein(Bantam Books,1987)という本が見つかった。著者の一人は科学解説書を多く書いている、日系アメリカ人の理論物理学者ミチオ・カク。この本もいわゆる一般科学書で、アインシュタイン以降の物理学の進展をわかりやすく語ったものだ。邦訳された『アインシュタインを超える』はブルーバックスに入っている。
Kindle化はされていないが、グーグルブック検索で一部は閲覧できる。南部さんひとりについて数ページにわたって書いていた。南部さんの業績を考えれば当然のことだ。 南部さんの〈自発的対称性の破れ〉や〈超弦理論〉の研究内容が解説されたあと、南部さんの家庭環境についてかなり細かく、おじいさんが仏壇店をしていたことから述べられている。
そして、そのすぐ下にぼくが探し求めていた、今回の真相があった。
ブレイクについて書かれた卒業論文は存在した。
しかし書いたのは南部陽一郎さんではなく、彼のお父さんだったのだ。
An intellectual, Nambu’s father was fascinated by Western culture and eventually was graduated with a major in English literature, writing his thesis on William Blake.(知的だった南部の父は西洋の文化に魅了され、ついにはウィリアム・ブレイクについての学位論文を書いて英文学専攻を卒業した。)
あとは「南部陽一郎 父」で検索するだけだ。
ノーベル賞受賞が大きかったのだろう、ネット上には南部さんへの取材記事が多く残っていて、お父さんのお名前もすぐにわかった。総合すると以下のようになる。
南部さんのお父さん、南部吉郎さんは家業を継ぐのがイヤで福井から東京に出て早稲田大学に入学した。1914年に立命館中学を優秀な成績で卒業したことが立命館清和会という立命館小中高の同窓会のFacebook内の記事にあったから――旧制の高校と大学はそれぞれ三年なので――その六年後の1920年にブレイクの卒論を書いたことがわかった。翌1921年に南部陽一郎さんが東京で生まれるが、1923年の関東大震災に見舞われて家族三人で福井に戻り、吉郎さんは福井高等女学校で英語教師を務めることになる。
もしかすると父吉郎さんの卒論が早稲田大学に残ってはいないかと思って調べてみたが、ホームページには「図書館では所蔵しておりません。各学部事務所等にお問い合わせください。」とあり、これ以上はネットでは調べられそうにない。
年が開けてしばらく経ち、ネットから現実へと取材の場を移した。
東京大学と早稲田大学に取材したが、残念ながら情報は得られなかった。
次にぼくは物理学科の恩師である現役の素粒子理論物理学者お二人に連絡して、このあたりのことをうかがってみた。特にお一人は南部陽一郎さんと深い親交もあって、南部さんについては日本で一番お詳しい。その方によると、南部さんが初めて書いたのは戦後になってからで、それは卒業論文ではなく普通の学術論文として1950年に出版されたという。
その方に紹介していただいた日本の著名な理論物理学者によるアンソロジー『数理物理 私の研究』(丸善出版、2012年)には、南部さんご自身による記事もあり、ネット上で見つけた情報よりも多くのことが書かれていた。
戦前の学生時代、素粒子物理を研究したいと思っても、この分野の教授はいませんでした。多少とも関係のあった唯一の人は私のついた落合麒一郎教授でした。(中略)私たちは、形式上は落合教授の指導の下で毎週セミナーをし、論文や本を読みました。
これまでの調査から、ウィキペディアの〈南部陽一郎の卒論はウィリアム・ブレイク〉という記載が誤りであることは、ほぼ明らかになったと言えるのではないだろうか。
実際は〈南部陽一郎さんのお父さんの卒論はウィリアム・ブレイク〉だったのだ。聞き間違いや記憶違いによって、言葉の一部が脱落してしまったに違いない。
ネット上の誤情報を増やさないよう、ここで改めて明記しておこう。〈1942年に卒業した南部陽一郎は(今も同様だが)卒論を書いていない可能性が高い〉〈卒業研究として同期の林忠四郎と共に原子核や素粒子のゼミをした〉〈南部陽一郎の父親は早稲田大学英文学科でウィリアム・ブレイクの卒論を書いた〉――以上がネットと現実で取材してわかったことだ。
取材でわかった事実とは別に、この調査中にぼくがずっと空想していたイメージがある。
前回も言及したブレイクの詩『虎』の第一連を引用しよう。SFの古典『虎よ、虎よ!』のタイトルに使われた作品だ。拙訳を付す。
Tyger Tyger, burning bright,(虎よ虎よ、)
In the forests of the night;(夜の森で鮮やかに燃えて)
What immortal hand or eye,(どんな不死の手あるいは目が)
Could frame thy fearful symmetry?(汝のおそるべき対称性を形づくったのか)
fearful symmetry――おそるべき対称性だ。
南部陽一郎さんは第二次大戦後に東京や大阪で研究し、52年に渡米、70年にアメリカに帰化した。小学生のころからお父さんの書斎にあった英語の本を読むなど、英語はずっと得意だったという。ブレイクの代表作をお父さんから教えられたこともあったのではないか。
であれば、ずっとこの〈恐るべき対称性〉というフレーズが、文学ではなく物理学を選んでからも、南部さんの記憶の片隅にあったかもしれない。
もちろんこれは空想であって、もはや確かめようもない。もしノーベル物理学賞の受賞理由である〈自発的対称性の破れ〉を発見したときに、ブレイクの「虎」を想起したのであれば、そんな印象的なことを忘れるはずがない。きっとどこかに書き記すはずだが、そのような記録は見つけられなかった。
ただ、ウィリアム・ブレイクの詩と南部陽一郎の理論が〈おそるべき対称性〉によって、かすかに繋がり合っているといイメージは――何の証拠もない空想なのだと繰り返し書いておくけれど――虚構としては美しいとぼくは思う。

年明けから注目を集めている言葉に〈post-truth(ポスト真実)〉がある。
オックスフォード大学出版局の辞典部門が2004年からその年の流行語を選んでいて、2016年は〈post-truth(ポスト真実)(https://www.oxforddictionaries.com/press/news/2016/12/11/WOTY-16)〉だった。辞典部門らしく、きちんと言葉の定義をしている。
Relating to or denoting circumstances in which objective facts are less influential in shaping public opinion than appeals to emotion and personal belief.(感情や個人的信念への訴えかけにくらべて、客観的事実のほうが世論形成に影響力をもたない状況に関連する、またはそうした状況を意味する(単語))
客観的事実は――今回もそうだけれど――調べるのはかなり大変で、しかもそれが本当に真実であるかどうかの保証はない。何かを証明するための根拠があったとして、その根拠が正しいものだと示すためにはさらに根拠が必要で、結局のところ根拠は無限に必要となるからだ。これを〈無限後退〉という。
あるいは根拠が――「AなのはBだから」で「BなのはAだから」のように――〈循環〉することもある。
こうした論理的混乱を避けるために、数学では初めに〈公理〉を設定する。公理はゲームのルールみたいなもので、疑うものではないし、根拠を求めるようなものでもない。ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学のように、公理が変われば理論も変わる。
結局のところ、ぼくたちはこれ以上は疑いようのない究極の真理といったものにはたどりつけないようだ。
とはいえ何の事実確認もなしに、信念だけで生きていくことも難しいわけだけれど、その一方で、究極の真理にたどりつけない確認作業に意味はあるのだろうか。
きっと意味はあるとぼくは思う。
物理学には〈究極理論〉〈最終理論〉〈万物理論〉という言葉がある。これらはその名の通り、この世のすべてを説明する理論のことだ。あるかどうかもわかっていない仮説の理論で、細かな定義も人によって異なる。
グレッグ・イーガン『万物理論』は、この万物理論の候補が同時に三つ発表されるという、極めて劇的な状況下でストーリーが展開される傑作だ。
現在、万物理論の候補として実際に盛んに研究されている〈超弦理論〉は、南部さんらによる〈弦理論〉を源流としている。
さて、いつかこの〈万物理論〉が見つかったとしても、それまでに確立されてきた物理理論はすべて誤りとなるわけではない。
アインシュタインの重力理論はニュートンのそれを〈拡張〉したものであり、弱い重力下においてはニュートンの式は正しい。そもそもアインシュタインは一般相対性理論を作るとき、弱い重力下でニュートンの理論と一致するようにして式を決定したのだった。
そして一般相対性理論に矛盾するような現象は今のところ見つかっていない。ブラックホールなど、ニュートンの重力理論では説明できないことも、一般相対性理論では説明することができる。無論、一般相対性理論もすでに百周年を過ぎて、量子力学との整合性が悪いなど、問題点が指摘されている。別の理論に拡張するべく、いま大いに研究がなされている。
人類が今知っている理論はどれも究極理論ではなく、いずれ新しい理論に置き換えられる宿命にある理論なのだ。次の理論に残っていく部分もあれば、切り捨てられる部分もある。
究極の一点としての真理あるいは万物理論をぼくたちはいまだ知らない。それゆえぼくたちは様々な方向にむかって探索するわけだ。その探索の過程において、万物理論には至らなくとも、いくつもの美しく精緻な、真実に近い理論を手にすることができる。
先ほど探索には時間も手間もかかると書いたけれど、それは知りたい情報が隠蔽されているからなどではない。単純に、探索とは探し回ることであり、つまりは一定以上の〈距離〉を移動することだからだ。
今回のキーワードである〈対称性〉は、局所的な事象に捕らわれていては見えてこない、大域的な性質だ。虎の毛一本を凝視するのではなく、距離をとって虎の全体を見ることで、その文様の対象性が明らかになる。
これは小説や映画、エッセイでも同じことだ。ひとつの作品を理解ないし執筆するためには、その作品よりも広い領域を知る必要がある。できることなら宇宙全体を知るべきなのだが、無論そんなことは有限の身のぼくたちにはできない。すべてを知ることが前提だとしたら、小説はいつまでも読み終わらないし書き上がらない。
では、有限の時間のなかで、有限のぼくたちは何をどう探索すればいいのだろうか。 南部さんは先の『数理物理 私の研究』の記事のまとめとして、物理の研究では「いい問題」を見つける「直感」が重要だと述べている。さらに次のように語る。
その直感をどうやって身に着けたかっていうと、どうでしょうね。経験っていうんですかね。(中略)個人的な接触っていうのは非常に大事だと思いますね。人から学ぶっていうこと。以心伝心っていうんですかね。こうしろと言われるわけじゃないですけど、直接会って話をするとやっぱり違います。あるいは先生のやっていることを見ているとかね。

いろんな他者の想像力に出会うことで、自分の想像力がようやくぼんやりと見えてくる。イーガンはオーストラリアにいるらしいし覆面作家だからなかなか会えそうもないけれど、とりあえず作品から彼の想像力を垣間見て、それで自分の想像力との違いを感じることはできる。
自分一人の想像の世界はきっとすべてがわかりやすい、ひどく対称性の高い世界だ。しかし究極理論が見つかっていない以上、その世界認識はきっと真実からズレている。だから仕方なくぼくたちは他者と出会う。あるいは自ら他者と出会い、あるいは他者の作品に触れる。他者によって対称性が破れると、世界は急にわかりにくくなる。
しかしそうなったら探索すればいいだけのことだ。探索中に「いい問題」に出会うこともあるだろうし、「直感」も身についてくるはずだ。少なくとも、知らなかった他者と出会うことができる。探索には時間も手間もかかるけれど――想像以上に――面白いことだって起きうるのだ。
〈タイムマシン〉や〈ロボット〉というSFの言葉は、多くの人々の想像力を刺激し、様々な方面への研究や探索を促した。南部さんの〈対称性〉や〈弦〉だってそうだ。ぼくが探している〈新しいSFの言葉〉もそのようなものでなければならない。そろそろ〈個人的接触〉としてのインタビューを再開するとしよう。
(次回は7月5日の予定です。教育とは何か。第一線の研究者にインタビューしてきます。)
(2017年5月10日)
■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。2016年『ゼーガペインADP』SF考証、『ガンダム THE ORIGIN IV』設定協力。twitterアカウントは @7u7a_TAKASHIMA 。ミステリ、SF、ファンタジー、ホラーのWebマガジン|Webミステリーズ!