SF作家としてのブラウンはのちに改めて見直しますが、ミステリよりも早く、代表作を戦争中からものしているようです。それでも戦後になって才能が開花したとは言えて、こと短編に関するかぎり、戦争直後の5年間の充実ぶりはただごとではなく、そこが全盛期であるように思います。『まっ白な嘘』『復讐の女神』を比較して総括したところで書いたように、『まっ白な嘘』にまとめられた40年代後半の短編群は、不気味で異様な想像力の働き方をしていました。他方で『復讐の女神』に入っている40年代前半の佳作は、むしろ50年代のスレッサーやリッチーを先取りするかのような、都会的な口あたりの良いものが多い。つまり、もっとも脂ののったころのブラウンの作品には、咀嚼しにくい何かがついてまわっていたと言うべきなのでしょう。「叫べ、沈黙よ」「むきにくい林檎」「笑う肉屋」いずれもそうです。同時に、そうした傾向が、ブラウンをして、しばしば芸人や音楽家を登場人物に選ばせたのでしょう。50年には、あたかも集大成のように「夜汽車」が書かれますが、それは発想の不気味さが純粋に結晶したような逸品でした。
 ミステリに遅れること2年。49年に『発狂した宇宙』が発表され、50年代の長編作家としての活躍が始まります。ブラウンの長編は、数の上では、圧倒的にミステリが多く、50年代の前半は年に2~3作書いていたのですから、それも当然です。日本では、エド・ハンターものが比較的冷遇されたこともあって、長編作家としてのブラウンは、ディテクションの小説ではない、サスペンス小説やアイデア重視のクライムストーリイ作家と目されてきました。それには、短編における技巧家の印象が、与っていたかもしれません。他方、数こそ少ないものの、SF長編の方が評価も高く、広く読まれていたようです。具体的に言うと53年の『天の光はすべて星』、55年の『火星人ゴー・ホーム』です。戦後5年間の作品群の力で、ブラウンは50年代の雑誌の時代を、名前で客の呼べる大家として遇されることで過ごしました。

 これはフレドリック・ブラウンにかぎらず、多くの作家――すべてとは言いません――にあてはまりますが、長編小説を書くようになる(書けるようになる)と、短編の執筆数は減っていきます。ブラウンの場合は、戦争中の40年代前半に短編数が多く、それに比べれば落ちるものの、戦後もコンスタントに書き続けています。短編の執筆数が減るのは50年代の半ばあたりからで、ほぼ同時に、長編もペースダウンしていきます。
 しかし、それを衰えととることは出来ません。前回読んだときに、おそらく晩年の作であろうと推測し、推奨したふたつのディテクションの小説は、「サックスに殺意をこめて」が57年の作品で、「消えた俳優」が63年の作品でした。このふたつの小説には、奇をてらった登場人物は、ひとりも出てきませんが、不可解な事件と膝をうつ解決が用意され、事件の奇妙さに読者はページをめくり、解決で「ほう」と呟くことでしょう。習作時代の拙さは、無論のこと、ありませんし、「笑う肉屋」のような、不気味さもありません。
 では、往年のブラウンの個性は、影を潜めたのでしょうか?
 たとえば61年の「殺人協力者」は、検出不可能な毒薬を売っているという薬局を、男が訪れています。妻を殺すための毒薬を入手しようとしているのです。「殺人協力者」は、毒薬を買いにきた男と薬局の主人のやりとりだけを描いた、一景のショートショートですが、この状況設定から、さらに、ひねりを利かせた展開にしようとすると、いささかの無理も出ようというものです。一編を書き上げるための発想に、無理な苦しさがあるのです。
 フレドリック・ブラウンはアイデアの作家、発想の作家と形容されることが多いのですが、そこには注意が必要です。小説を構成するための主たるアイデアが、必然的に喚起してしまう、ある種の矛盾した感じ。あるいは、読者を困惑させる事態を招いてしまう、どうしようもなさ。アイデアそのものよりも、その感覚が大きいと、私は見ています。「叫べ、沈黙よ」のアイデアの元となったのは、聞く耳のないところに音は存在するかという命題でしょうが、その結果立ち現れた風景は、そのアイデアや命題から、さらに遠くへと私たちを運び去ってしまうのです。
 63年の「死の10パーセント」は、物語を形づくるアイデアとしては平凡なものです。死を目前に控えた男の回想という枠組みは、さほど珍しくありませんし、売れない役者である主人公が、ひょんなことから、謎の男と取引をする。俳優としての成功を約束するかわりに、手に入れたものの10パーセントを――厳密に10パーセントを――寄こせというのです。男の正体もすぐに見当がつく、というより早く、これは「悪魔との契約」のパターンだと、読者は認識するかもしれない。そのパターンに、テンパーセンターという言葉さえある、マネージャー業をからませてストーリイを組み立てれば……そういう意味で平凡な作品で、それゆえ、前回では取り上げなかったのです。しかし、この主人公が恐怖を感じていたのは、実は、読者の予想だにしなかったことでした。その中身には触れませんが、そこに、やはりブラウン印は刻まれています。ですが、如何せん、この場合は、そこを思いついて、そこを書こうとし、そして、そこを書いただけのものに終わってしまいました。ショートショート(たとえば「唯我論者」)ならともかく、短編では、単純にすぎるでしょう。
 もっとも、アイデアを書いただけで終わってしまうというのは、ショートショートにこそ、よく観察される結果でもあって、たとえば「猫ぎらい」(62年)はその好例でしょう。
 そうした陥穽をかいくぐった、ブラウンの素晴らしいショートショートをひとつ見つけました。日本語版EQMM65年3月号に邦訳された64年の作品「どうしてなんだ、ベニー?」です。「死の10パーセント」以上に、話は型どおりに進みます。デートの帰り道で、ベニーは恋人と諍いをします。それでふたりの関係が終わるとは思えないけれど、彼をこらしめてはやりたい。ベニーは彼をおいて、ひとりで帰り始めます。帰宅の途上には、公園の近くに暗い階段があって、そこだけが危険な場所でした。ベニーがそこにさしかかると、反対側から見知らぬ男が階段を上って来ます。階段を数歩下ったところで男に気づいたベニーは、足を止めるために煙草を探し、火をつけます。けれど、火をつけることで、男の顔が目に入ります。ベニーは怖くなって、階段を駆け上る。男の手が伸びてくる……。まったくステロタイプな話を、しかし、巧みに語りおおせて――だが、それだけだと、つまらないものにしかならないでしょう――場面が変わって、男を警官たちが取り調べています。そして、すぐに話は終わります。
「どうしてなんだ、ベニー?」のオチは、平凡でありきたりなものと言えるかもしれません。それだけを取り出せば。しかし、そんな平凡でありきたりなことが、被害者と加害者を悲劇的なまでに決定的なすれ違いに導いてしまったのです。ステロタイプな話から、見過ごされがちな奥行きを取り出してみせる。フレドリック・ブラウンの冴えた一編ですが、そのときに冴えていたのが、ブラウンの発想やアイデアや技巧といった言葉で言い表せるものなのか? 正直に言えば、そうした言葉と、それ以上のなにかとを分ける境目が、私には分かっているとは言えません。ただ、そうは呼びたくない――なんというか、そんなことをするのは、もったいない――ほどの奥行を読後に感じさせる一編ではありました。

EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『土曜日の子ども』『本の窓から』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』 等がある。


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