〈幻のクラシック・マガジン〉で、ブラックマスクから取り上げられていたのは、フレデリック・ネベル(表記はニーベルのネベルのふたつがありますが、ネベルをとっておきます)の「ウィンター・キル」でした。酒場の一景から話は始まり、どうやら借金で首がまわらないらしい金持ちの息子が、新年早々(1月3日なのです)酔ってくだをまいている。新聞記者のケネディが、そこに来合わせ、店から連れ出して一杯つきあうことになる。チャンドラーが書きそうだと言ってしまえば、それまでですが、中編の多いネベルには、ゆったりと話を始める余裕があります。翌朝、雪になります。そして、雪の中で凍死した金持ちの息子の死体を、巡査が発見し、マクブライド警部とケネディが現場に現われる。水を浴びせて雪の中に放置するという、残酷な殺し方のようです。しかも、父親に連絡を取ると、息子は誘拐されていたと言うのです。
 このコンビの作品は、もう一編「死ぬには若すぎる」という、やはり長めの作品が、日本語版EQMMに掲載されています。ホテル住まいの歌手が絞殺されて、現場にマクブライドとケネディがやって来ます。被害者は19歳の若さで、ラジオでの歌が人気となり、週に2000ドルを稼ぐというスターなのでした。恋人だったらしい男が怪しく取り乱したり、指紋と目撃者からギャングが浮かび上がったりと、容疑者は現われますが、どれも反証があがったり、決め手に欠けるのです。
 以前、このコンビの作品を、めまぐるしい展開のわりに魅力がないと評しましたが、プロットを進める際に綾がない。読者の興味をそそっていく手管に欠けるので、事件の展開が段取りに見えるのです。ここでの2編も、同じ欠点を持っていました。警官とブン屋のコンビというのは、ありそうでないというか、ありていに言えば、少々説得力には欠けるのですが、それでも、このふたりの対比とやりとりに、作家は力を入れ、そこで読ませようとしているのでしょう。しかし、クレイグ・ライスやレックス・スタウトを思い出してください。登場人物の性格や愉快なやり取りに心を砕く一方で、読者を巧妙につっていくプロットの巧さがそこにはありました。
 これが、私立探偵ダネヒューが登場する「カタをつけろ」になると、やや話が違います。冒頭の場面が、まず凝っていて、ダネヒューが酒場にやって来ると、配置転換になっていまは担当区域外のはずの警官が、店にいる。ダネヒューはここで人と会う約束なのですが、相手と会うことを、この警官には知らせたくないらしい。居座る警官をしり目に、こっそり約束の相手と会おうとする駆け引きが細かくて、渋いけれど良い出だしです。しかも、密かに店を抜け出て、車で待つよう伝言した相手の女に接触すると、彼女は殺されている。彼女は売春組織の内部告発をしようとしていたのです。
 ダネヒューが地方検事のために動いていたというのは、突飛だけれど、ナニワブシ的な魅力もあって、警官と記者のコンビよりは面白いと思います。中終盤の展開は、冒頭ほど巧みではありませんが、手堅くまとめています。ただし、冒頭で避けた警官との対立が、結末で活きていないのが、少々甘い気がします。
 こうして見てくると、フレデリック・ネベルという作家は、行動的なディテクションの小説という、ハードボイルドの典型的な生き方を、少々不器用に歩んでいったように思えます。しかし、戦後になってEQMMに「干し草の中の針」という、毛色の異なった佳作を書いています。
 主人公は妻とふたりで、カリフォルニアの人口1万2000の街へ引っ越して来ました。そこで測量事務所を開き、人も使えば、取引先も確保できている。地元の週刊新聞の〈新しい隣人〉のコーナーには、妻ともども紹介されました。ところが、この記事のおかげで、不気味な電話がかかってくる。あなたとは会ったことがあり、あなたも会えば私が分かるだろう。あなたに街にいてもらっては困るから、事務所をたたんで出て行ってほしい。そうしないと、あなたを殺さなければならなくなる。相手の男は、一方的にそう要求するのです。主人公はまともに取り合う気になれませんが、電話の終わりごろには気味が悪くなり、電話を置くと、もう少し真面目に相手の言葉を聞いておく方がよかったのではないかと思い始めます。さらに、事務所の部下にも、同様の脅迫電話がかかって来ていることが分かり、翌日の渓谷の測量(人気のないところへ遠出しないといけないのです)は行きたくないと言われます。
 なんとも魅力的な出だしではないですか。さらに事務所に爆弾を仕掛けたという電話がかかってきて、ビルの持ち主からは、事務所を閉めるよう頼まれる。しかも、警察に連絡すると、似たような事件がかつて一度起きており、実際、脅迫を受けた男は狙撃され、誤って使用人が殺されているのです。
 強烈な謎の提示による不可思議なサスペンスストーリイとして、かなりわくわくする出来栄えです。解決がもう少し手際よければ、傑作になっていたかもしれませんが、決して腰砕けにはなっていませんし、ゆうに一読に値する佳作でしょう。ブラックマスクのカラーに染まりきった作家だとばかり思っていたフレデリック・ネベルに、こんな作品があったということは、作家は媒体で変わりうるということの、憶えておきたいひとつの事例です。

 トマス・ウォルシュは息の長い作家でした。ただ、私はあまり積極的に興味が持てなくて、たとえば、ジョナサン・ラティマーの『処刑6日前』には手を出しても、ウォルシュの『深夜の張り込み』を読むことはありませんでした。同じころに、創元推理文庫版を書店でたやすく見つけられていたのにです。それは、1970年代の話ですが、ふたりとも過去の作家というイメージで見ていました。ですから、ウォルシュの「最後のチャンス」が、78年のMWA賞受賞作としてEQに掲載されたときには驚きました。〈この人は現役だったんだ〉というのが、率直な感想でした。
 ウォルシュは、30年代にパルプ作家としてキャリアを開始し、戦後に長編を書き始めました。そこだけ取り出せば、平凡な経歴の作家です。ただし、仔細に見ると、そう大ざっぱには括れません。なぜなら、まず第一に、30年代末から40年代にかけて、比較的多くの作品がコリアーズに掲載されているのです。もちろん、「しぶとい男」のように、探偵とも犯罪者ともつかないような快男児が、列車の中で高額報酬の殺人を持ちかけられて……という、いかにもパルプマガジン(初出はディテクティヴ・エース誌)という話も書いています。しかし、初期の日本語版EQMMに翻訳された短編は、その大半が、上記の時期にコリアーズに書いたものを、クイーンが発掘してEQMMに再録したものでした。
 たとえば「いつも他人」は、恋人である警察官とスキー旅行にでた女性が、吹雪にあって、宿屋へ難を逃れます。そこには、ニューヨークから帰省しているという、女将の娘がいるのですが、手配中の宝石泥棒の特徴とぴったりなのでした。話の展開は平凡ですが、女将に同情的なヒロインは、犯罪者を見つければ、その瞬間マンハンターの容貌を見せる恋人の一面に、初めて気づきます。そうして、恋人だったはずの男が「他人」のように感じられる。そんなヒロインの心の綾を描いたものでした。
 また「婦人警官」は、題名どおり婦人警官が主人公ですが、幼なじみの恋人がいて、高価な自動車に彼女を乗せて、指輪をプレゼントしてくれる。ところが、彼の会社ではつい最近、給料強盗の事件が発生していて、内部に手引きした人間がいるのではと疑われている。ヒロインは上司から、恋人が容疑者のひとりであることを知らされ、彼を見張って、彼の上司の家に乗り込むことになります。あるいは、「いつも助けてくれる人」では、主人公のホテル探偵が、どうも宿賃を踏み倒しそうな気配(その気配の部分が、ちょっとニヤリとさせます)の女客を見つけます。事情を聞くと、職を探しに出て来たものの、すでに他の人にきまっていたうえに、持ち金を盗まれてしまったのでした。主人公のホテル探偵は、彼女に同情的になり、時間稼ぎをしながら、職を探すことをすすめますが、そうするうちに、彼女が、ウールリッチばりの奇怪な事件に巻き込まれていることに気づきます。
 こうした例から分かるように、おもに警察官である探偵を主人公にしながらも、その私生活にウェイトを置いて、事件を描くという行き方は、警察小説の先駆(なんせ戦前戦中の作品ですからね)と言えるかもしれませんが、それにしては、事件の部分が、いかにも軽い。〈編集部〉の名前ですから、都筑道夫だと思いますが、57年4月号におけるウォルシュの初紹介のときに「最近英米で流行している警察小説とはぜんぜん異質のもの」と書いています。むろん、ハードボイルドでもなく、むしろ、人情噺という紹介の仕方でした。
 そうした特徴は、警察官を主人公にしたものではない、被疑者となった人間をサスペンスストーリイの形で描く作品では、とりわけ顕著になります。「こんどはお前だ」では、かつて強盗事件の濡れ衣を着せられ、無実で服役した主人公が、深夜の殺人事件に遭遇し、翌日かつて彼に濡れ衣を着せた男が、その場を目撃したことをタネに、彼に不法な行為を迫ります。ここまででも分かるように、少々調子のいい話ですが、ウールリッチふうのシチュエーションで、人間関係の綾を強調する作風がうかがえます。「心の恐怖」は、主人公が麻薬中毒です。ギャング(の密告者を、彼は時として引き受けているらしい)に睨まれる一方で、そのギャングを狙う警官との板挟みになり、警官のフィアンセからはやさしくされ、更生の手助けさえされますが、ギャングが始末したはずの殺しの証拠を彼女が見つけてしまうことから、事件が急展開します。
「心の恐怖」に典型的な、登場人物の関係が作り出す綾や、煙草屋の老夫婦のホールドアップを、犯人、地域を巡回する警官二人組、被害者の老夫婦と三者から描くという「友情」の手法といったものは、原始的なものとはいえ、のちの警察小説の雛型には見えます。こうした作品が、パルプマガジンの時代に、「コリアーズ」でも読まれていた(そのせいなのか、戦後のウォルシュの長編は、ハードカヴァーで出版され、あるいはサタデイ・イヴニング・ポストに連載されたものでした)という事実は押さえておくことにしましょう。
 フレデリック・ネベルの変化やトマス・ウォルシュの在り方といったものを、頭の片隅に置いていてください。そのうえで、EQMMとその後続雑誌による短編ミステリの展開を、次回から読みかえすことにしましょう。

EQMMコンテストの受賞作リスト(最終更新:2014年11月5日)


小森収(こもり・おさむ)
1958年福岡県生まれ。大阪大学人間科学部卒業。編集者、評論家、小説家。著書に 『はじめて話すけど…』 『終の棲家は海に臨んで』『土曜日の子ども』『本の窓から』、編書に『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』 『都筑道夫 ポケミス全解説』 等がある。


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