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 先に書いた通り、田宮神社は実在のお岩夫妻ゆかりの神社だ。夕方近くだったが、先客が一人いて、ぼくたちは続いて鳥居をくぐった。
 境内には梅の木が一本あって、薄紅色の花が満開だった。
 御堂の正面、賽銭箱の上あたりに、一龍斎貞水先生が奉納された垂れ幕がかかっていた。しかも日付は今年の元旦だ。なんという偶然だろうと妻と驚き合ったが、よく考えれば「怪談の貞水」と呼ばれる先生は、「四谷怪談」をお話されることも多いに違いない。また先生は日本講談協会の会長でもある。振り返って確認すると、さっき見たのぼりにも協会と先生の名前が入っている。先生には「講釈師、冬は義士、夏はお化けで飯を食い」という言葉も教えていただいたのだった。  ぼくたちは賽銭を入れて丁寧に参拝した。
「おみくじはないのかな」
 平野先生は日本古典文学が専門で、おみくじのなかの和歌への関心から、おみくじの文化を研究している。ぼくは平野先生にお話をうかがって以来、ひけるおみくじは全部ひいているのだった。
「売店もないし、自動販売機もないね」
 ぼくたちが境内をうろうろしていると、先客の女性が親切に「賽銭箱の奥にありますよ」と教えてくれた。あまりじろじろ見なかったけれど長い黒髪の美しい女性だった。
 ちなみに、お岩は『四谷雑談集』では不美人だったとされ、「四谷怪談」では美人ということになっている。「四谷怪談」では毒で顔が崩れるのだから、そうなる前は美人のほうがいいと鶴屋南北が考えたのだろう。最近の映画では、深作欣二監督の『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(一九九四年)ではお岩は高岡早紀が、蜷川幸雄監督の『嗤う伊右衛門』(二〇〇四年)では小雪が演じている。「四谷怪談」の舞台と俳優たちの現実が交錯する形式の映画『喰女(くいめ)』(二〇一四年)では柴咲コウがお岩を演じる俳優役だ。
 ぼくたちがおみくじをひいているうちにその女性はいなくなった。
 今回のおみくじは典型的な〈和歌みくじ〉で、和歌とその解釈、それから項目ごとに注意書きが書かれている。ぼくは大吉、妻は小吉だった。おみくじは神仏の言葉だから基本的には持ち帰って時折見返すものだという先生のお話の通り、ぼくたちはおみくじを折りたたんで自分の財布に入れた。
 食事をして家に帰ると、妻は急に発熱した。三十八度の後半だ。予防接種は去年のうちに二人とも済ませたけれど、インフルエンザかもしれない。寝かせて布団と毛布で包んだ。最後に口にマスクをかけた。
「これ、祟りじゃない?」
 と妻はかすれた声でぼくに文句を言う。もちろん二人とも祟りなんて信じてはいない。それに、別の女性を目で追っていたぼくが祟られるならまだしも、真面目に二礼二拍手一礼していた妻が祟られるのは道理に合わないだろう。
「祟りだったら面白いけどね。おやすみ」
 と言って、寝室の電気を消してドアを閉め、ぼくは隣のダイニングでこの文章を書き始めた。もう一つ、書斎らしき部屋もあるのだけれど、机を奥に置いていて、そこにいると妻の声が聞こえないのだった。
 二時間ほど書いたり消したりしたものの、どうも上手くまとまらない。
 気分転換に、というと妻に怒られるだろうが、妻の様子を見に行く。
 おでこに手を当てるとあいかわらず熱い。一晩寝ても熱が下がらなければ、明日は日曜だが、救急病院に連れていったほうがいいかもしれない。
 その夜、普段ほとんど見ない夢を見た。
 妻が寝室の鏡台に座り、髪を梳いている。ぼくは寝たまま「熱、下がった?」と聞くが、返事もせずに髪を梳き続ける。もう一度呼びかけると、振り返った妻の右目は大きく腫れて――いたのかどうかわからない辺りでぼくは目が覚めた。
 妻は眠っている。熱は上がりも下がりもしていない。
 ぼくは再び文章に手を入れはじめたが、材料が足りないのだと気付く。
「悪いんだけど、これからちょっと出かけていい?」
 食べ物も水もスポーツドリンクも昨夜のうちに買っておいた。しばらくのあいだなら一人でも大丈夫だろう。
「どこ行くの」
「巣鴨。お岩の墓があるんだよ。二時間くらいで帰ってくるから」
「いいよ、それくらいなら。帰りにハーゲンダッツ買ってきて。ラムレーズン」妻は時おり深く息をつきながら話す。「で、何しに行くの」
「それはもちろんお岩の祟りを鎮めるために」
「信じてないくせに。帰ってきたら、お岩さんみたいな顔になって、髪を梳いてるかもしれないよ」
 ぼくは笑って答える。
「いま書いている文章のラストが思いつかないんだ。巣鴨でヒントが見つかるかも」
 すぐに帰るからと言って家を出たが、自分がお岩の夫である伊右衛門のような気がしてくる。
 お岩は産後に体調を崩していて――うちの妻はそういうことではないのだけれど――伊右衛門は看病を厭って、子育てもお岩にまかせて、別の女性に心を移していく。もちろんぼくが行こうとしている先はお岩の墓なのだし、看病を数時間さぼるだけなのだけれど。
 しかしお岩の墓とは別に、ぼくにはもう一箇所、行きたいところがあった。
 巣鴨には有名なゲームセンターがある。かなり広めの地下一階と二階に、ゲーム機が百台以上並んでいて、新しいゲームがロケテストされたり大会が開催されたりと、全国的に有名なところだ。そこそこのゲーマーだったぼくは大学生の頃――巣鴨からほど近い池袋周辺に住んでいて――時々自転車で通っていた。かれこれ十年以上は足が遠のいているから、様子も変わっているかもしれない。妻と話していて、久々に行きたくなったのだ。こちらについては若干うしろめたくはある。
 荻窪から新宿まで出て、それから山手線と都電荒川線を乗り継いで、お岩の墓があるという西巣鴨の妙行寺を訪ねた。四谷から西巣鴨は電車で三十分ほど離れている。どうしてお岩の墓が西巣鴨にあるかというと、この妙行寺は元々は四谷にあったのだが一九〇九年に移ったからだ。境内を抜けて、都心にしてはかなり広い墓地に入っていく。
 第2回で小石川植物園にニュートンのリンゴの木を探しに行ったときには案内の看板が少なすぎて迷ったけれど、今回のお岩の墓はかなり丁寧に示してあって、しかも墓地には珍しい鳥居もあって、早々に見つかった。
 鳥居をくぐってさらに進むと、五重塔の形をしたお岩の墓があった。他の墓よりもだいぶ広い敷地の三方に、たくさんの卒塔婆が壁のように立っている。第1回で祖父の見舞いの前に山口県山口市の瑠璃光寺の五重塔を見に行って、境内や資料館に無数の五重塔が〈反復〉して建っているのを見たけれど、ここでまた見ることになろうとは。
 墓のそばには看板があって、伊右衛門の名前と共にお岩のことが書かれている。こちらのお岩は――四谷の田宮神社とは異なり――生前は伊右衛門と仲が悪く、死後にはさまざまな災いが起きたが、妙行寺の住職が法華経を唱えることで「一切の因縁」が取り除かれたとある。田宮神社の看板にはお岩の没年だけが書かれていたが、ここには寛永十三年(一六三六年)二月二十二日と明記されていた。少なくとも四谷にお岩という女性がいたのは間違いないようだ。ちなみに「岩」というのは長寿や安定を意味しており、当時は一般的な名前だったらしい。
 それにしても、どうして多くの人がお岩に参拝するのだろうか。お岩が特に祟るからかもしれないが、貞水先生のお話を思い出せば、それは多くの人がお岩にうしろめたさを感じるからに他ならない。
 お岩は二つの嘘をつかれる。一つ目の嘘はもちろん、血の巡りを良くする薬だと騙されて毒を飲まされることだ。
 もう一つの嘘は「四谷怪談」冒頭にある。開演早々お岩の父親が何者かに斬殺されるのだが、その仇を伊右衛門が討つということを条件に、彼とお岩は〈夫婦〉になる。ところが実は、この犯人は伊右衛門その人なのだ。お岩の父親は伊右衛門が極悪人だと見抜いていて、お岩から伊右衛門を遠ざけていたために斬られてしまう。
 もし伊右衛門が自害すれば結婚時の条件は満たされるかもしれないが、その際は〈夫婦〉の関係は成立しない。端的な矛盾がここにはある。
 お岩が矛盾に気づかないのは、伊右衛門が情報を隠しているからだ。情報が足りなければ真偽を見誤るのは当然のことだ。偽りは真実と矛盾する。伊右衛門はする気のない仇討ちをするという嘘を言った。〈嘘〉とは、数学的な矛盾を生む、(反)数学的な行為なのだ。
 そして矛盾についての数学を考えるときに、ゲーデルの不完全性定理を避けることはできない。
 クルト・ゲーデルは一九三〇年、第一不完全性定理と第二不完全性定理を証明した。簡略化すれば、第一は「矛盾のない公理系を持つ理論には、証明も反証もできない〈命題〉が存在する」ことを証明したものだと言える。ここで「公理系」とは証明不要のいくつかの取り決めのことだ。数学や物理学は基本的に公理主義に基づいて構築されている。論理の起点となる公理系が無矛盾ならば、自らの論理内では真偽を決められない特殊な〈命題〉があるというのが第一定理だ。
 そして、その特殊な〈命題〉の具体例として、第二定理「矛盾のない公理系を持つ理論は、自身に矛盾がないことを証明できない」がある。
 ゲーデルは数学に矛盾があることを証明したのではない。そうではなく、数学には矛盾はないのだが、それを証明することは数学自身にはできないことを明らかにしたのだ。
ある理論の無矛盾性は、その理論自身には証明できない――この性質を〈不完全性〉という。
 無論、お岩の望み――父の仇討ちをすることと、伊右衛門と〈夫婦〉でいること――は矛盾しているのだが、それをぼくたちが認識できるのは伊右衛門の嘘を知っているからだ。お岩にわかるはずもないし、お岩にとっては矛盾なんて存在しないのだ。
 お岩は「共に奈落へ誘引せん」と宣告した後、伊右衛門を殺して――実際には義弟が斬り殺したところで終幕となるのだが――父の仇を取りつつ、再び〈夫婦〉になるという二つの望みを達成する。これは人間の身では不可能なことだ。
 もちろん「四谷怪談」は数学劇ではなく、第一に復讐劇であることは明らかだ。復讐劇の主人公はまず酷い目に遭わされ、〈目には目を〉の原則に基づいて復讐を始めるわけだが、お岩は復讐の結果として自身の生の――あるいは生前の――無矛盾性を証明する。
 病気の妻を置いて〈四谷怪談の数学〉を求めてここまで来たのは無駄足ではなかったようだ。「四谷怪談」は、伊右衛門が〈夫婦〉のあいだに持ち込んだ数学的矛盾をお岩が〈証明〉し、さらに無矛盾化する物語なのだ。
 いくつかの墓では線香が焚かれていたが、この日はお岩参拝の人はいないようだった。ぼくは寺を出て、地下鉄都営三田線の西巣鴨駅から一駅の巣鴨駅に向かった。
 地下鉄の改札を抜けて地上に出ると、すぐにJR巣鴨駅の改札がある。学生時代によく通った、ゲーマーにはよく知られたゲームセンターはここから一分とかからない場所にある。
 ぼくは妻に電話をしてみた。
「調子はどう」
「良くない。収穫はあった?」
「どうしてみんな、お岩だけにお参りするのか、わかった気がする」
 それはつまりどうしてお岩だけが祟るのかということに繋がっていく。
「はあ」
 具合の悪い妻はどこまでも素っ気ない。が、妻と話していると色々思いつくぼくは、話を続けさせてもらう。
「講談や映画や小説といった芸術には必ず嘘が混じる。お岩についての芸術というのは、嘘に苦しんだお岩を二重に貶めている。だからみんな気が引けて参拝するんだよ。お岩は、嘘としての創作――現実にないものの象徴なんだ」
「象徴」
 妻はつまらなそうにぼくの言葉を繰り返す。
「虚実入り混じった存在であるお岩に向き合うことで、創作の本質を思い出すことができるということもあるんだろうけど」
「で、きみも向き合えたの?」
 発熱や睡眠不足などとは無関係に、妻は時々鋭いことを言う。ぼくは考え込んでしまった。もう十分にお岩や「四谷怪談」を理解して、祟りを祓ったことになるのだろうか。ぼくの正しさはぼく一人では証明できない。
「そろそろ帰って」
「もうちょっとだけ」
 まだゲームセンターに行っていない。長居するつもりはないけれど、巣鴨まで来たら立ち寄るのはゲーマーとして最低限の礼儀だ。
「お岩って、嘘をつかれて看病されない妻を代表してるんじゃない?」
「え? いや、そうかもしれないけど、ぼくは別に嘘をついているわけじゃないし、帰ったらちゃんときみの看病をするし、言ってみればこの取材はお岩の看病みたいなもので――」
「お岩の看病は伊右衛門がすべきでしょ。きみには私の看病をしてほしいんだけど」
「だからそれは帰ったらするから」
「いつ帰ってくるの」
「わかったよ、今すぐ帰る」

oiwa.jpeg  ということでぼくは慌てて帰途についた。数分後には駅が見えた。
 JR巣鴨駅の改札口は一箇所だ。ゲームセンターはもうあと数十歩のところにある。対戦格闘ゲームを一回するくらいなら――最近まったく練習していないから――相手が人間でもAIでもすぐに負けるはずだから、電車は数本しか変わらないし、帰宅時間は十五分も変わらない。
 しかしここでぼくの脳裏に鏡台のまえで髪を梳く妻の姿が浮かんだ。彼女の右目は大きく腫れている。ここでぼくがゲームセンターに寄れば嘘をついたことになるのだろうか。
 鶴屋南北には妻も子供もいた。お岩は看病されなかった妻の代表ではないかというぼくの妻の見解は、存外、当を得たものかもしれない。南北自身はまさか伊右衛門のように体調を崩した妻を足蹴にするように接してはいないだろうが、家族の看病や世話をすべきと思いながらも面倒に感じるというのは、古今東西、誰でも経験することだろう。南北も、嘘をついて少しのあいだ家族から逃げたことくらいはあるかもしれない。
 南北の「四谷怪談」の初演は一八二五年の夏だったから、今日までおよそ二百年に亘って、看病から逃れる嘘が演じ続けられていることになる。
 客のなかにも嘘をついて、自分のすべきことから逃れて、芝居小屋に通っていた人間もいるだろう。南北が倫理的なメッセージを『四谷怪談』に込めたとは思えないけれど、幕が下りた後、家に慌てて帰った客や役者は少なくなかったはずだ。嘘や虚構には、人間を心理的のみならず、物理的に動かす力がある。
 ゲームのなかのAIたちが倫理的に悩み始めるということは今のところない。キャラクターの動きや背景はどこまでも実写に近づいていて、ゲームの対戦相手としても十分強くなっているのだけれど、AIたちはプログラミングされたルールに従うだけで独自の倫理は持っていないのだ。
 第6回第7回ではゲームAIの研究者であり開発者でもある三宅陽一郎さんにお話を伺った。
 現行のAIすなわち人工知能は、ゲーム内であってもロボット内であっても、充実した身体を持っていないから、世界とのやりとりはほとんどできない。かなり単純化された情報をプログラムに従って計算している〈機能〉なのだ。身体のないAI――個別的な演算処理しかできない単なる〈機能〉が社会を持つはずもないから、社会の存在を前提とする倫理はなおさらありえない。
 しかしいずれ近いうちにAIは身体を持つだろう。そうすればAIが社会を持ち、AI固有の倫理を持つのは時間の問題だ。
 そのAIたちの倫理ないしは論理は――人間とAIの情報処理の能力差や方向性の違いを考えれば――多くの部分が人間の理解を超えているに違いない。
 人間の理解はどこまで届くのか。
 第3回でお話をうかがった宇宙物理学者の須藤靖先生は、万物を記述する理論が仮にあるとして、人間がそれを理解できるとは限らないとおっしゃった。宇宙論はそういうことを考える学問だし、須藤先生は特にそういうことを考えるのがお好きなのだ。
 そして須藤先生の言うとおりだろうとぼくも思う。現に今ある理論の多くも、ほとんどの人は存在すら知らないままだし、その一つを理解しようとするだけで――ゼロから始めれば――十年はかかるだろう。いつか完成するかもしれない万物理論を理解するための時間が数十年であれば、人類の内で数パーセントはそれを学ぼうとするだろう。しかしそれが二百年以上かけなければ理解できないようなものだったとしたら――おそらく質的にも量的にも難解なのだろうが――もはや人間には理解する可能性すらない。
 だから万物理論を理解したければ、ぼくたちの知性や身体を何らかの方法で――たとえばAIや医学の助力を借りて――大きく拡張する他ないだろう。拡張後のぼくたちのことを人間と呼ぶかどうかは別として。
 ただ、〈仮想知性〉や〈拡張人体〉まで使ってAIたちの倫理や万物理論を理解せずとも、それらに近づくための〈回廊〉はあるはずだ。
 第4回でお話をうかがった将棋記者の――駒場寮の先輩でもある――松本博文さんは、人間同士の将棋も、人間対AIの将棋も、そしてAI同士の将棋も、それぞれ面白いと語っていた。松本さんは東大将棋部のレギュラーとして全国制覇をしたこともある。そんな松本さんでも、あるいは人間の頂点たるプロ棋士であっても、AIの指し手の論理はわからない部分があるという。それでも将棋である以上、将棋の論理〈棋理(きり)〉は追求されているのであって、将棋のルールを知ってさえいれば楽しむことができる。また、将棋の記事では伝統的に棋士のおやつや食事に言及するという。それはぼくのような将棋の弱い人間でも対戦の雰囲気をいささかなりとも味わうためのものだと言えるだろう。AIがプロ棋士と拮抗するようになる遥か以前から、人は様々な仕方で将棋を楽しんできたのだ。
 一般相対性理論ではなくアインシュタイン個人に注目するような手法は多くの分野で行われている。たぶん人間がなにかを理解するときの形式の一つなのだろう。知りたい対象を〈拡張〉して、面白さなどの〈回廊〉を通過することで、理解不可能性を乗り越えようとするのだ。
 お岩を含むすべての幽霊は〈拡張された人間〉だと言えるだろう。幽霊は同時に異なる場所に存在することもできるし、存在と非在を両立することもできる。
 何のためにお岩が〈拡張〉されたかと言えば――将棋や相対論のことを考えれば明らかなように――人間を理解するためだ。幽霊は人間理解のために存在する。
 お岩の墓に行ったからといって、お岩を看病したり見舞ったりしたことにはならない。お岩ゆかりの神社や寺に参拝することで自らに向き合うことはできても、お岩に出会えるはずもなかったのだ。お岩も〈拡張された人間〉のひとりなのだから。
 もしお岩を見舞うとすれば、人間的な論理を超えなければならない。終幕まで伊右衛門は生きようと足掻き続ける。歌舞伎における火の玉である心火(しんか)が飛び交い、子年のお岩が使役する鼠たちが伊右衛門の刀に群がる。刀を落とした伊右衛門はお岩の義弟に袈裟斬りにされる。虚と実、美と醜が並立するこの瞬間、伊右衛門は生者から死者へと移ろい、矛盾した〈夫婦〉関係がお岩によって無矛盾化される。そのとき舞台には〈虚無回廊〉が開かれ、崇高と虚無と恐怖が溢れかえる。
 しかし今のぼくでは約束を守りつつゲームセンターに行く論理も〈虚無回廊〉も見つけられそうもない。今日のところは、おとなしく帰ることにしよう。
 ぼくは新宿駅で山手線から中央線に乗り換える。
 新宿駅はいつも人で溢れているが、さすがに平日の夕方に比べると電車の中は空いていた。ぼくは乗り込んで席に座った。
 とはいえ、ぼくは思う。人間的な論理を超えたお岩に、ぼくの人間的で弱々しい理屈が通じるだろうか。うちの妻はとっくに右目を大きく腫らして、お岩みたいになっているんじゃないだろうか。
 電車を降りたぼくは足早に家を目指した。途中のコンビニでハーゲンダッツを買うのは忘れずに。お供え物みたいな気がしてくる。
 そして玄関のドアを開け、妻の名を呼ぶが返事はない。
 靴を脱いで寝室に入ると、彼女は起きていて、鏡台の前で髪を梳いていた。熱は下がったのだろうか。
 ぼくがもう一度声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。長い黒髪が顔にかかって、左目と口元がわずかに見えるだけだ。祟りなんて存在しなくても、放っておいたあいだに右目が腫れたかもしれないという若干のうしろめたさは確かにある。肝心の右目を見るために髪を払おうと彼女のほうへ手を伸ばした。すると突然、彼女は声を立てて笑い出して、ぼくは思わず手を引っ込めてしまった。

(※次回は4月5日頃公開です。村田蓮爾さんに世界を描き出す方法をうかがってきます。)

(2016年3月7日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。



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