――パルタージュ partage とはフランス語で「分割」「共有」「分有」の意。
 小林秀雄は〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉と書いたが、想像力というようなものはなく、あるのはただ、個々の想像だけだとも思う。
 それでもなお、想像力(を分有すること)をこの文章の目的に置いて、インタビューを含む取材を始めたい。予定しているインタビュイーはそれぞれの領域の最前線におられる方たちであり、そこはまさに想像と想像力の境界線なのだから。そしてこれまで同様、これからのSFの言葉もまた、その線の上に存在するに違いない。


『想像力のパルタージュ 新しいSFの言葉をさがして』
第12回 きみを証明する――四谷怪談の矛盾を巡って

高島 雄哉 
yuya TAKASHIMA(写真=著者/カット=meta-a)

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 退院した祖父の見舞いを兼ねて久しぶりに山口に帰省したのはちょうど去年の今頃のことだった。
 この一年――あるいはその前から――新しいSFの言葉を探していて、これからも様々な分野の方にお話をうかがっていくつもりだけれど、これまでに出会った言葉は少なくない。ここで中間発表のような文章を残しておきたいと思う。
 第8回第9回では僧侶の――ぼくにとっては駒場寮の後輩でもある――小池龍之介くんから、〈諸行無常の事実〉という言葉を聞いた。仏教は〈諸行無常〉を事実と捉えるという。すべては、自分も宇宙も、いずれ〈空〉になる。坐禅はその〈諸行無常の事実〉を繰り返し確かめていく行為なのだ。
 小松左京さんの『ゴルディアスの結び目』の登場人物は、「釈迦が(中略)考えた“宇宙=世界=生命=人間観”は、東アジア人の、この世界に関する基本的表象に、深い影響を与えている」と指摘する。確かにぼくは――おそらくは東アジア人の多くが――〈諸行無常〉を限りなく事実に近いことであるように感じている。
 小松左京さんが提唱した〈宇宙喜劇〉は、この〈諸行無常の事実〉に向き合いながら、同時に虚無主義におちいることなく、「宇宙を楽しませ」るためのものだ。小松さんの未完の長編『虚無回廊』は、〈宇宙喜劇〉を志向して書かれた。タイトルの『虚無回廊』については諸説あるが、おそらくは虚無あるいは虚無主義に限りなく漸近しながら迂回して、さらに虚無の向こう側に至るための回廊という意味なのではないかとぼくには思える。
 虚無に向き合う文芸とは、人間存在の限界状況を描くものに他ならない。それはSFが得意としてきたことだ。森羅万象の外側――あるいは内側――に広がっている虚無への回路を、SFは切り拓いていく。
 自らの〈想像力〉の及ばないものを目の当たりにしたとき、人間の反応はおよそ次の三通りになるのではないだろうか。すなわち、美を超えた崇高の念を抱くか、虚無感に捉われるか、あるいは恐怖を感じるか、の三通りだ。
 崇高と虚無と恐怖――この三つはぼくの作家としてのテーマであり、おそらく〈宇宙喜劇〉にいたるための回廊もこの三つを通過していくものになるはずだ。この中間発表がその回廊の入り口に相当するような試論となればいいのだけれど。

 第10回第11回のインタビューで平野多恵先生にうかがった古典文学研究の話を思い出す。研究をパズルに喩えると、初期段階では〈ピース〉としての資料を集めながら〈全体像〉を予想していくことが必要となる。
 そして〈ピース〉というのは――崇高や虚無や恐怖のような――テーマとは異なる、もう少し手応えのあるものだ。
 第5回では「怪談の貞水」の異名をもつ人間国宝の講談師、一龍斎貞水先生から恐怖についてお話をうかがうことができた。ぼくたちは怪談がいわゆる真実ではないことも、幽霊が存在しないこともわかっている。古典的な怪談であれば今とは常識だって違う。にもかかわらず貞水先生の怪談を聞いていると、恐怖は現実感をもって立ち現れてくる。なぜか。それは、ぼくたちが登場人物たちと〈論理〉を共有しているからだ。いくらか常識が変わったとしても、人間としての基本的な条件は変わらない。
 ぼくは以前、皿を割って斬り殺されて幽霊となったお菊が恨めしく皿を数える怪談「皿屋敷」に題をとった数学小説「わたしを数える」『折り紙衛星の伝説 年刊日本SF傑作選』所収)を書いた。
 それはかつて駒場寮で、小池くんもよく知る数学専攻の先輩から聞いた「数えるということが数学の本質にある」という話がずっと印象に残っていたからだ。だから「わたしを数える」を書いたときには――妻と一緒に修善寺で貞水先生の怪談「真景累ヶ淵」は聞いていたけれど――恐怖の構造の共通性についてはまったく考えていなかった。
 でも今、貞水先生にインタビューをさせていただいた後で考えると、怪談と数学という組み合わせは必然的だったように思えてくる。怪談はあらゆる生物の根源的な感情である恐怖を描き出し、数学は自然科学の基礎言語として万物を記述する。どちらも、ジャンルを越境しうる普遍度の高い構造を持っているのだ。
 ということで今回の第一の〈ピース〉は――「皿屋敷」と対をなす――「四谷怪談」にしよう。とすれば第二の〈ピース〉は当然「数学」ということになるのだけれど、しかし一体「四谷怪談」にはどんな数学的な要素があるだろうか。
 と、悩んでいた時期にタイミング良く、その数学専攻の先輩と再び話す機会があったので相談したところ、
「数学に関係しないことなんて、この世に存在しないから」
 と、数学への愛情あふれる言葉を聞かせてくれた。〈四谷怪談の数学〉が見つからなければ、それはぼくの探し方が悪かったということだ。
 ここで「四谷怪談」についてまとめておきたい。まず「四谷怪談」というのは鶴屋南北が台本を書き、一八二五年(文政八年)に初演された歌舞伎『東海道四谷怪談』の通称だ。これは創作で、舞台も雑司ヶ谷の四谷という実在しない場所になっている。雑司ヶ谷は現在の豊島区で、四谷は新宿区で、数キロの距離がある。もっとも雑司ヶ谷にはかつて四ツ屋という地名があったという。
 とはいえ南北が今の新宿区四谷を想定していたのは間違いないようだ。南北は一七二七年に出た著者不詳の『四谷雑談集』を参考にしたと考えられている。こちらは題名の通り、四谷についての様々な話をまとめたもので、お岩のことは元禄(一六八八年から一七〇四年まで)の頃のことだとされている。ここではお岩は幽霊になったりはしない。別の女性との結婚を望む夫の田宮伊右衛門(たみや・いえもん)に騙されて家を追い出されたお岩は、あるとき真相を知って泣き叫びながら失踪する。その後、異常な現象が起き、伊右衛門ほか多くが死んだという。
 鶴屋南北が描いたお岩はさらに過酷な目に遭う。伊右衛門たちの計略にかかり、薬と騙されて顔の崩れる毒を飲まされてお岩の右目は腫れ、櫛で髪を梳くたびに髪は抜け落ちて血が流れる。この〈髪梳き〉の場面は、美と醜あるいは生と死が混ざり合う鮮烈さで、一度見たら忘れられない。結末は『四谷雑談集』と同じだ。
 現在の東京都新宿区四谷にある於岩(おいわ)稲荷田宮神社には、歌舞伎の初演の二百年前にお岩――田宮岩が実在したという話が伝わっている。お岩は寛永十三年(一六三六年)に没したという。こちらの夫妻は仲が良く、零落していた田宮家を二人で再興したそうだ。そのお岩が信仰していたのが、ここの稲荷なのだ。「四谷怪談」『四谷雑談集』とはかなり趣きが違う話だけれど、いずれも〈夫婦〉の物語であることは共通している。
 しかし双子素数――3と5、11と13のような、差が2の素数のペア――は知っているけれど、夫婦素数はおろか、夫婦の数学なんて聞いたこともない。「皿屋敷」では主人公のお菊があからさまに皿を数えるから楽だったのだけれど、「四谷怪談」の数学はまだ見つからない。もう少し〈ピース〉を集めないと、色々と見えてこないみたいだ。
「〈ピース〉が多いほど描ける絵は大きくなります」
 と平野先生は語ったのだった。
 全体像が見える前の段階では、研究にしろ創作にしろ、これまで集めた〈ピース〉の周辺を探っていくのが第一歩となるだろう。そして「四谷怪談」と言えば、演劇や映画にする前にはスタッフ全員で参拝やお祓いをするという〈「四谷怪談」にまつわる怪談〉がある。どこまで本当なのかはわからないが、実際にあってもおかしくはない慣行だろう。ぼくもまさにこうして文章に書こうとしているのだ。取材を兼ねて、実在のお岩ゆかりの於岩稲荷を訪ねてみよう。例によって妻と一緒に。
 二月の末の土曜日、身支度を終えた妻が出かける直前に一言。
「ちょっと頭いたい」
「今日はやめとく?」
「いや、良いよ」
 二月にしては暖かい日だったし、すぐに帰ればいいと思い、ぼくは妻を連れて家を出た。「四谷怪談」だ。夫婦で行くことに意味がある。
 ぼくたちが暮らしている荻窪は新宿の西側にあって、四谷は新宿から少し東にある。於岩稲荷田宮神社の最寄りの四谷三丁目駅までは荻窪から地下鉄丸ノ内線で一本だ。
 地下鉄を降りて地上に出ると、ますます気温は上がっていた。脱いだコートを手に持って、ぼくたちは歩き出す。
 新宿通りから一本入ると、商業ビルとマンションと一軒家が入り混じった似たような路地がいくつも通っていて迷いそうになったが、妻が赤いのぼりを見つけて、ぼくたちはそこを目指して進んだ。

(2016年3月7日)



■ 高島 雄哉(たかしま・ゆうや)
1977年山口県宇部市生まれ。徳山市(現・周南市)育ち。東京都杉並区在住。東京大学理学部物理学科卒、東京藝術大学美術学部芸術学科卒。2014年、「ランドスケープと夏の定理」で第5回創元SF短編賞を受賞(門田充宏「風牙」と同時受賞)。同作は〈ミステリーズ!〉vol.66に掲載され、短編1編のみの電子書籍としても販売されている。





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